今日もめくるめかない日

「段入れますか?」の段って結局なに

 美容院で髪型の注文をするのが苦手すぎる。モデルなどの写真を見せてこんな感じで……と注文するのも恥ずかしすぎてむり、かといって見本がないとなにひとつ自分がどうなりたいのか伝えられない、なんか結局いつも「えーと、さっぱりしたかんじで…」などと曖昧な注文をしてしまい、美容師さんに「じゃあこうしてああしてこうするのがいいですかね?」と訊かれて、全然イメージが浮かばないのに「ア、ハイそれで」と言ってしまう。まあそれで極端な失敗ヘアーになったことはほとんどないのと、同じ美容院にもう長く通っているのでそんなかんじの注文の仕方でいいかと思ってはいるが、それでも昔から気になっていることがある。いまだになんのことかわからないがなぜか必ず訊かれる「段入れますか」。

 段ってなに。


 同じ美容院に長く通っているとはいうが、一年に三回行けば多いほう、美容師の指名とかもしたことないから、カットしてくれるひとはいつも違う。違うのに、皆ぜったいに訊いてくるのだ、段入れますか。この美容院の特徴なのかとも思ったけれど、違う美容院でも昔から当たり前のように訊かれていた気がする、たぶん美容師業界では挨拶レベル、カットされる側としても一般常識なのではないかと思われる言葉だが、正直に言うとわたしは全然「段」がわからん。髪に段ってなに。段入れるとどうなるの。なにかいいことあるの。わたしの髪型どうなるの。

 

 いや、正直に訊けばいいじゃないかと思う気持ちもある、「段ってなんですか」と訊くだけでいい。しかし、段入れますか、が当たり前のように飛び交うなか、張るだけの見栄と意地なら人並み以上というわたしは今さら「だ、段って結局なんなんですか…?」とは恥ずかしくて訊けない、代わりに「あ、ハイ、段ですか、ハイ、うん、そうですね」と段のことならなんでも知っている体を装い、入れるのか入れないのかわかりかねる回答をし、大抵それは肯定の意として先方に伝わり、「じゃあ入れますね」と結局段が入っているらしいけど、だから段ってなに! アイスティーのミルクとガムシロ入れますかの質問とは違うんだよちんけなプライドを守るだけのわたしに段の説明をしてくれ頼む。
 しかし段の説明をされたことはない。皆知ってる前提で話を進めてくる。段入れますかは何度も訊かれたけど、段知ってますかは訊かれたことがない。もしかしてわたし以外の人類全員段を知ってる? もし段の説明からしてくれる美容師さんがいるなら永久指名するよ。


 言葉からして段、だから段になっているのだと思う、ググってみると、つまり表面が短くて奥の髪が長いとそういう……? いや理屈はなんとなくわかる気がするけれど、その、段を入れると結局どういう効果があるの、なぜ「段」が必須の質問になってるの、ていうか自分のカット後の頭さわってみても、「段」の感じぜんぜんわからんし、わたしの頭のかたち的に段を入れたほうがいいの入れないほうがいいのどっちがいいの、だんだん謎は深まるばかり、段だけに……とかこんなしょうもないことしか考えられなくなる段。擬人化したらちょっと意地悪そうな顔してるだろう段。

 

 最近どうですか、とか、暑いですね、とか、今仕事なにしてるんでしたっけ、とか、昼飯は蕎麦食べました、とか、いろいろ大変ですよね、とか、そういう話になるのはわかる、だけど結局いつも同じことを言うのだから段について話してほしい、というかこれを機に日ごろ思っていたこと言っちゃうけど、わたしは会話が苦手なクソコミュ障、饒舌になれる場所といったらブログとTwitterしかないという哀れな人間なので、着席してマントみたいなのかけられた瞬間持ってきていた文庫を開いて読書タイムにいざ突入、わたしあんまり話す気ありませんからという失礼な雰囲気を出してしまう(段の話をしてくれるなら聞くけども)。
 いや自分は客、つまり神様ですからとか思っているわけじゃない、それだけは信じてほしい、だけど会話が苦手すぎるから人を拒絶してしまう、わたしはいくつになってもヤマアラシのジレンマを抱えているシンジくんなんだよ、うまく話せる自信がなくて素っ気ない態度をとってしまうというわけ。だれかわたしのDSSチョーカー外して宇部新川駅から連れ出してくれや……。

 とにかくそういう、「わたし本を読んでいますから」という態度をとっているのに「今どのあたり住んでるんでしたっけ」って訊いてくるメンタル強すぎない? わたしがどのあたりに住んでたっていいじゃんか、10年近く同じ美容院通っているんだからずっとこのあたりに住んでるよ。
 ほかにも「結婚したんでしたっけ?」「はい」「だんなさんいくつですか」「六つくらい上です」「え~!すごいですね~!」……一体なにがすごいんじゃ。歳の差がすごいのか? 結婚したことがすごいのか? わからん。なにもかもわからん。どうやらその美容師さんも結婚していて妻のかたが10くらい上だという。ここでたとえばわたしが「すごいですね~!」って言ったとしたらなにが?ってなるじゃん。もし強制的に会話をしろと言われているならそのルールは見直してほしいしわたしも態度悪くてごめんだけど。
 だからもうそんなふうに話しかけてくれること、いっそあこがれるよ。ただせめて「なんの本読んでるんですか」と訊いてほしいとは思う。しかし昔それで「吉本ばななのキッチンです」と答えたら「あ〜!サラダ記念日」と言われて、「いや…それは俵万智です」と「詳しくないなら黙れ小僧」みたいな雰囲気を出してしまい、いうなればちょっとマウントとり気味で訂正してしまったことがある。ばなな、キッチンときたらたしかにサラダ記念日が浮かぶのかもしれない。なんの本を読んでいるのかと訊かれたら、わたしはまたマウントをとってしまうかもしれない、わたしはそういうしょうもない人間なんだ……と気落ちする可能性があるからやっぱり訊かないでくれてよかった。だけど、段のことを訊けないくせにマウントばっかり取ろうとしやがるわたしみたいな人間にもフレンドリーに話しかけてくれる美容師さんには、本当は本当は感謝してるんですいつもありがとう、「ああ間違えちゃったなあ!」と底抜けにあかるく美容師さんが笑ってくれたからあの日はマウント記念日……いややかましいよ。

 

 カットが終わり、どうですかと三面鏡をばばーんと広げてくれるときも、後ろから見た仕上がりにわたしは良いも悪いも評価をつけられない。三面鏡に映るわたしの後頭部には段というものが入っているらしいけれど、「で、どれが段ですか」なんて訊けた試しがない。本当は仕上がりじゃなくて、どれが段なのかを見たい。しょせんわたしは「かゆいところないですか」に対して「ないです」としか答えられない人間よ。
 ワックスつけていいですかと訊かれれば家に帰るだけのくせにつけてくださいと言ってしまう。そのとき「こうやって毛先を遊ばせるようにワックスつけてくださいね」と教えてもらうが、毛先を遊ばせる?????? ワックス×毛先の遊ばせ方なんていくつになってもわからんのだが。たまにワックス買ってみても二日使ったらあと放置で三年後とかに埃かぶって出てくるよ(なんかめちゃくちゃハードワックスになってる)。段にしろ会話の内容にしろ毛先を遊ばせるにしろ美容師言語はもう少し具体性を持ってもいいと思うんだよ。それともみんな当たり前にワックスで毛先を遊ばせてるの?

 

 まあなんやかんやでニューヘアスタイルになると気持ちもわくわくするもので、会計が終わり外に出たらスキップでもしちゃいそうな気分、わたしは前髪も自分で切れないド不器用な人間なので、美容師さんいつもありがとう! 来たときよりもちょっと世界がたのしくみえる、コンニチハ新しいわたし! とうきうき帰路につくんだけれども、結局段については知らないままのわたしである。どこが新しいわたしだ。

 それで、段って結局なんなんですか。

 

ラストゲームを読んだらやっぱりクソデカ感情を対処しきれなくてやばい

 フルバのアニメを観て襲われたクソデカ感情(フルバのアニメを観たらクソデカ感情を対処しきれなくてやばい )をどうにかしようと読み返したのが「ラストゲーム」である。そしたら結局こっちでもクソデカ感情に飲み込まれてしまって書くことで気持ちを放出しなければならなくなってしまった。
 ラストゲームは「LaLa」にて2011~2016年まで連載されていた。わたしはこちらの漫画もめちゃくちゃに好きである。あっどっちも白泉社じゃん…!

www.hakusensha.co.jp

 お金持ち・顔いい・頭いい・運動できるなどなどスーパーな要素を兼ね備えたしかし残念なイケメン柳が、人生初の挫折を経験させられた九条を10年かけて惚れさせる(自分がおもいっきり惚れてる)……というコメディ要素を多くしながらも、ときめかせるとこを外さない素晴らしい少女漫画のひとつ。ただこの漫画の魅力は柳じゃない、いや柳もいいけど、そうじゃなくて、いちばんの魅力は相馬蛍という最強の当て馬キャラである。あっまた「そうま」じゃん…!

 わたしは当て馬男子が好きなのである。当て馬男子についてはこの記事で思いの丈をつづったんだけれども、ここに書いたように報われなくても九条を好きでいる蛍くんがそりゃもうたまんないのである。なにかがひっくりかえって蛍くんルートがあったらよかったのに……と思うけど、たぶん蛍くんにとってそれは意味のないルートなのである……悲


 最初こそ柳への嫌がらせのためだけに九条にちょっかいを出していた蛍くんだけれども、次第に「気づいたらめちゃくちゃこいつのこと好きになってしまっている」という当て馬男子の宿命ルートにはまりこんでしまい、それまで逃げ癖をつけていたのにいきなり告白とかしちゃったり「おれのこと好きになってほしい」などと顔を赤らめて言っちゃうのである……。オイオイ、こっちの心臓突き破る気か?
 九条も九条で最強な鈍い子なので、そんな鈍感さに振り回される蛍くんが、そりゃあ、もうたまらん……。もはやここまでくるととんでもないモンスター、当て馬はモンスターなんである……。
 それにしても透くんのときも思ったけれど、わたしは本来九条のような鈍ちん女子に対してイライラする性格のはずなのに、九条はかわいい、ぜんぜんイライラしないの……自分の意思をはっきり持っている人間だからなのかもしれない。透くんも透くんで、鈍そうなのに自分の気持ちをしっかり自覚し、うじうじせずに伝えようと決め行動するところもよかった……。つまり私は自立している天然が好きというかあこがれているのか?

 

 ちなみにわたしがいちばん好きな蛍くんの場面は、告白後、九条と二人で夏祭りに行き、別れるところ……。ここは偶然二人を見かけた柳の視点で話が進むんだけど、反対の道に帰っていくとき、蛍くんだけが九条のほうを振り返って、、、え、え、え、笑顔が、やさしすぎ~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!! 本当になに考えてるんだ、どういうつもりなんだ、地球侵略しようとしてんのか? マジで侵略可能なレベルだよその笑顔は。
 ああああ~~マジで蛍くんしあわせになってくれ…でも桃ちゃんと結局おさまりましたなんて展開は許さない……(当て馬がヒロイン以外のだれかと付き合う展開を望まない少女漫画メンヘラ)。

フルバのアニメを観たらクソデカ感情を対処しきれなくてやばい

 観た。ついにぜんぶ観た。なにを観たって、アニメ「フルーツバスケット」1st season~The finalしかない。わたしとなんやかんやで長く付き合っていただいている方は(ありがとう)「こ、こいつまたフルバの話してやがる」と思うかもしれない。でもなんと思われてもわたしは何回もフルバの話をする。
 フルバと出会ってたぶんもう20年(!?!?!?!?!?!?)、夾くんにハートを撃ち抜かれてから彼以上の人を見つけられないんだけど、わたしあと一体何年フルバの話するつもりなんだろマジで。むしろ本当はそろそろ耐性つけて「フフ、やっぱりいつ読んでもフルバはいいわね」とさらりと楽しみあとは普段どおりに生活したいんだけど、読んだり観たりするたびに夾くんしか勝たんというクソデカ感情に飲み込まれるゆえ実生活もままならない。この作品が存在している世界線やばい。
 しかたがないので、夾くんを忘れるためほかの少女漫画を読むという、「男なんて星の数ほどいるんだから」作戦を決行するが、クソデカ感情がそれぞれに分散されるだけで余計ダメージがひどくなった。なのでこっちのクソデカ感情も放出した(ラストゲームを読んだらやっぱりクソデカ感情を対処しきれなくてやばい
 できることといえば思いの丈をとりあえず書いて放出し、すっきりさせる、もうこれしかない。

 そもそもフルーツバスケットのアニメは2001年に放送されているが、このときは原作が連載中とのこともあり原作6巻あたりまでをアニメ化していた(全23巻)。これはこれで素晴らし~~~~~~いアニメになっているのだが(岡崎律子さんの歌声やばい)、全編アニメ化決定のニュースが2019年に舞い込んできたときには、それはもう「生きててよかった~~~!!!」と思った。
 とはいえなかなか毎週リアルタイム視聴というのも難しく、アマゾンプライムにて全話配信されているのを一気に観た。本当いつもお世話になります。

 わたしは少女漫画だいすきだけど、実は実写化とかアニメ化とかなると、ちょっと遠慮してしまうタイプで、というのもなんか観てると恥ずかしくなってしまう。キラキラしまくっていて目のやり場に困るのと、「こ、こんなときめくだけに生まれた高校生が現実にいるわけないやろがい」ってなぜか漫画では許せるのに動くものになると、急に気恥ずかしくなって「か~~~ッもう観てられんわ」と唾を吐きたくなる。
 しかしフルバは違う……。わたしの性格上、透くんの「はわわわわ、あのあの!みなさんっ落ち着いてください~~!」みたいな動きやしゃべりはイライラする傾向にあるというのに、なんだかにっこりしてしまう。あの髪のリボンだって、「こ、こんなリボンのつけかたあるかい~~!!」と突っ込んでしまう性格をしているのに(「君の名は」では突っ込んでしまった)、透くんのリボンは許せる。由希にももらったしねっ!

 それにしてもやはり「動く」というのはいいね。あと音楽が入るのもいい(挿入歌よかった……)。そして今回のアニメ、かなり原作に忠実につくられていて(100%ではないにしろ)、わたしは原作厨ではない、ではないけれどやっぱり原作あってこそだし、「あの場面が観られる……!」と思うとそれはもう大興奮。
 ひとつひとつのセリフを覚えているせいで、アニメ観ながら心のなかでキャラクターがセリフを言う前に自分で言ってしまう始末(いちばん興奮したのは「ほっせえなあ」です。ひぃ~~~~思い出しダメージ)。なんならコマ割りすら脳内に浮かんでいるし、原作ではフキダシ外にある作者直筆のちょっとした一言などもしっかり入っていてワーオ!テンション上がっちゃうね。ただ、紅葉が透くんのためにいつかバイオリンを弾くという約束をするとき、わたしはひとりで「星に願いを……」とうっとりしちゃったけど、アニメでは「生まれる願い」って言っていてちょっと恥ずかしくなってしまった。いろいろ事情があるんだよね。この「生まれる願い」というのが最高の挿入歌のタイトルです。
 あと「イラチ」も聞けたしね。「ん?どうした?」も聞けたしね(演出がめちゃくちゃキラキラしていてやっぱりこのシーンみんな好きなんだねって思ってうれしかった)。
 
 そういえば原作を読んだばっかりのころは、由希が透くんに求めているものをちゃんと理解できなかったけど(恋愛脳すぎた…)、今ならわかるし、わかるからこそ由希の透くんへの対応にひとつひとつ納得しながらアニメを恋愛脳じゃなかったころの自分とは違う視点で観られてそれもよかったし、リンと自分を重ねる場面なんかは本当、ほんとう全編ありがとうございましたの思いしかない。
 そして別荘編では、由希は透くんに対して「愛しい」と思うんだけど、夾くんははっきりと「好きだ」と思うんだよね、この二人の対比がすでに結末に向かっていて、そしてでもだからこそ由希が夾くんに対して複雑な感情をさらに抱くことになるのもわかるし、もうほんとどうしてくれるんだ。
 夾くんが猫憑きの本来の姿を見せてしまった場面は、ちょ、ちょっと透くんを吹き飛ばしすぎじゃない…?と思わないでもなかったですが、やはりここは少女漫画史に残る名場面。何度観ても夾くんが透くんの名前を呼ぶところがいいし、雨が上がって猫になった夾くんとちゃんと服も抱きかかえて帰ってくるのがよすぎる。猫になっているというのがよくて、これはイコール抱き合ったにつながるんですが、それを師匠があたたかいまなざしで迎えてくれるのを、セリフなしで一枚の画で描いてしまうのどう考えてもやばくないですか?
 
 あと2nd seasonのED「ad meliora」がよすぎた。十二支の亥→子まで逆順に登場していくんですが、子まで登場したあとすこし離れたところで猫と夾くんが出てきてその登場のさせ方がほんと、胸がっ……くるしい、だれかわかって。

 しかし全編とはいえ、ところどころカットされた話はあったもよう(今日子と勝也の話はまた別で制作されるようですね)。フルバには名場面がおそろしいほどあるんですが、わたしのベスト8に入るのが由希が綾女に対して「兄さんは馬鹿だけど愚かじゃない」と言う場面。これは「馬鹿」も「愚か」も「ばか」と読ませるんですが、あ、アニメでは一体なんて言うんだろ……!? ルビどおりにいけば「兄さんはばかだけとばかじゃない」だけど、でもそれだと原作を知らない人にはしっかり意図が伝わらないんじゃないの…でも「兄さんはばかだけどおろかじゃない」だとめっちゃ普通だし伝えたいことの1/3も伝わらないんじゃないの…一体どうするつもりなの……!? と思っていたら、そのシーンなかっ、た……。
 また、由希が生徒会長に就任し奮闘しているとき、由希が透くんに花壇の花が綺麗だと伝えることがあるんですが、由希くんがちょっとくじけそうになったときとか、透くんがその花壇をひとりで嬉しそうに見ている場面があって、そういうところが透くんの素敵なところで、二人で会話するわけでもないけどすごく通じ合っている感じがすごくよくて……ただアニメにはそのシーンなかっ、た……。
 また、真鍋と透くんの関係も明らかにしていなかったですね(もしかしたら今日子編でやったりするのかな……!?)。きっといろいろ事情があるのだろうし、脳内補完しているのでOKです。十分すぎるほどたのしませてもらいました。
 帽子にかかわる三人のあれこれもかなり丁寧に描かれていて、それはつまり夾くんと由希が互いに憧れあっていたことを知るあの喧嘩により胸を打たれる布石……ほんとっとんでもねえ作品だぜ……。

 それにしてもこのフルバアニメを観る人はやっぱり原作を知っている人がほとんどなんだろうか。初見でも初見じゃなくても一話からしっかりつくられているからそこはどちらでもたのしめると思うんだけど、The FinalのED、イラストは原作の高屋奈月先生が描いたんだって、最高だった……なんだけど、結末をまったく知らない人にとってはネタバレになってしまうのではないのか…!? でもFinalだしいいのか、でもいやこんなのは野暮だけどでも……と勝手な心配をしてしまった。わたしはめちゃくちゃテンション上りましたけど。あと最終話のEDで棚の内容変わってるの、もうなにもかもわかってるし感情爆ぜたわ。透くんと夾くん尊すぎて意味わからん。
 
 書いてたらちょっと冷静になってきた感じある。とりあえず感情をしずめるためにフルーツバスケットanotherも読み返したりしてたんだけど、なんか結局夾くんしか勝たん……。anotherは草摩のみんなの子どもがメインとなっているお話で、親世代は子ども同士の会話でしか出てこないんだけど、それでもみんな倖せそうなかんじだし、なにより子たちがみんないい子で、それはつまりみんなが倖せに生きているということで、由希たちの子どもがふざけたキャラなのも夾くんたちの子どもが生徒会長やってるのもその二人が仲良さげなのもエモのエモのエモーショナルでおもわずにやにやなどしちゃったりするんだけどそれはつまり結局夾くんしか勝たんというワケ。

 

fruba.jp

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まるっと32年生きてきた、今日から人生33年目に突入する件について

 この件についてはわたし以外そんなに興味ないだろうと思うけれども本日誕生日である! とくに書くことは浮かんでいないのに、誕生日であると思うとなにやら浮かれてきて、誕生日なのだしなにかを書いておこうという気分。とはいえただの誕生日、いつもどおりに仕事があるので休憩中にぽちぽちこれを打っている。

 誕生日とは不思議だ、ちょっと嫌だなぁと思うことがあっても「まあいいか、誕生日だし」と謎のポジティブ思考がうまれて元気になる。「今日誕生日だし!」の言葉の効力はものすごい。なんかもう一年に一回しか誕生日がないなんてもったいない、毎日を誕生日にしたい、とざっと自分が生きてきた日数を電卓たたいて出してみた。

 わたしは今日で満32歳、つまり365日×32年+閏年が8回あったので+8日(数学マジで苦手なんだけど合ってるよねこの計算で?!)。1万1688日生きてきたことになり、毎日を誕生日にするなら1万1688歳である!ウヒョー!魔女か!この数字にテンションが上がる。もう半分生きられたとしたら2万歳である!ものすごい魔術を使えそう。

 

 それから毎年恒例にしていることがある。同じ誕生日の有名人を調べることだ(そう多く更新されるわけではないのに……)。8月20日生まれの有名人、けっこうたくさんいるのである!(ほかの日だってたくさんいるだろうとちゃんとわかっている)

talent-dictionary.com

 

 とくにわたしは森山未來さんが好きなので、届かぬ思いだけれども、(今年もおめでとう、わたしと未來!)と勝手に誕生日を祝っている。

 そしてTwitterで「今日 誕生日」と検索し、今日誕生日だとつぶやいているユーザーへ片っ端から心のなかで(おめでとう!わたしも今日誕生日だよ!)とお祝いの念を送るなどしている。おめでとう!世界中の今日誕生日の人!

 

 それにしても誕生日というのは、なぜこんなにわくわくするものなんだろう……。もう歳をとりたくないなんて考えることもそれはもちろんあったけど、最近愉しいエッセイを読んでいる影響か、「30代なんて若すぎるしなんなら40代も50代も60代も若いしていうか地球の誕生に比べたらみ〜〜〜んな若いしー!太宰治だって30歳成人説をとなえてたし、夏目漱石も40歳になってから小説書いたしー!!」というなんかよくわからない愉快な思考になっているためか、純粋に誕生日を楽しんでいる。まあ会社行って帰るくらいしか予定はないが。

 そして会社に行くだけなのに、ずっとしまってあった普段着ない花柄ワンピースを着ていくなどして「今日わたし誕生日なんだ〜!!」とこの愉快な気持ちを分け与えんという精神で触れ回っている。見事な浮かれっぷりである。しかし良い大人といわれる年齢なので、周りは「あ、そうなんだ、おめでと〜」というわたしのテンションとの落差がありすぎるさっぱりしたおめでとうだが、おめでとうはおめでとう、ありがとう会社の人!

 

 悲しいことやしんどいことが最近多いし、こんな浮かれっぷりだけれどもわたしもまたいつまで生きられるか神のみぞ知るだし、でもとりあえず今日まで生きてこれたことにありがとうと思ってまた自分の仕事しようと思う(よく事あるごとにいろんな人に感謝する人がいるけど、その気持ちがなんとなくわかった)。

 というわけで今日から人生33年目に突入です。これからもどうぞよろしう。本当に中身のない記事になってしまったので、この浮かれっぷりに乗じて今まで書いた気に入ってる記事を載せていくぜ!ウヒョー! 

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愉快な黒歴史

 

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愛をこめた(実はこのブログで圧倒的アクセスがあるのがこの記事です)

 

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わたしのなかで「めちゃくちゃおもしろく書けた……!」と思っている(今はもう最新刊まで読んだよ)


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「折しも」もあった!ウヒョー!

 

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まさかペリカンに出会えるとは思ってなかったよね……

 

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書いたばっかりだよ!

 

地図が読めることはもはや思いやり、話しかけられ率が高いなら本当はスマートに道案内をしたい

 平均的な「話しかけられ度」がどんなものかよくわからないからこれは私感でしかないけれど、わたしは見知らぬ人に話しかけられ率が高いと思う。とはいっても「ヘイ! よかったらお茶しない? イエーイ!!!!」みたいな声のかけられ方をされたことはない。たいてい道案内、もしくは謎の褒められが発生する。


 たとえば、わたしは短大生のころ八王子のセブンイレブンでバイトをしていたのだけれど、そこにお客さんとしてやってきたザ・ギャル!なイケイケお姉さん。その人のレジ打ちをしていたら突然、「えー! まつげ超長くないっすか!? それ地ですかあ!? つけまですかあ!?」という具合に話しかけられた。もちろん顔見知りではなく、わたしは戸惑うばかりである……。たしかにたまに「あんたはまつげが長いね」と褒められることはあったけれど、見知らぬ人にいきなりまつげを褒められたのは初めてのことであった。「地まつげです」と答えるとお姉さんはわたしのことをたいそう羨んだ。その日から、わたしの身体のなかでいちばんの自慢できるのはまつげになった。

 

 また、一人で電車に乗っていたとき……あのころはシュシュというヘアアクセサリーが流行りに流行っていた時代であった(なんか2021年も流行っているらしい。調べたら思った以上にシュシュがでけえ)。

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 わたしがしていたシュシュはもう少し小さいやつだったんだけど、とにかくそれをつけていたら電車内で、突然おばあさんに「まあ~~!! 素敵な髪ゴムねえ!」と話しかけられた。知らないおばあさんであったが、話しかけられるままなぜか会話に花が咲く……。

 

 ほかにも数年前、社員旅行で沖縄へいざ行かん、老若男女で飛行機を待っているとき、なぜかピンポイントで「今からどこへ行くのですか?」と見知らぬおじいさんに話しかけられるなど。「沖縄です、うふふ」と答えると、「おっいいねえ」なんて返されたけれども、同じ沖縄行の便を待っているのだからあなたも今から沖縄でしょうに(ご家族と旅行という風であった)。

 

 また、新宿駅を歩いていると、突然若い男性に「え? よしこ? よしこー!!」と呼びかけられたり(わたしはよしこという名ではない。よしこがだれなのかは謎のままである)。


 このように妙ちくりんな話しかけられ方をすることもあるけれど、基本的には道案内が多い。わたし自身は圧倒的なこじらせ人見知りのくせに、話しかけやすいオーラみたいなのが出ているのだと思う。
 しかしわたしは道をよくたずねられる人間にとって致命的な欠点を抱えていた。地図を読むのがマジで苦手なのである。

 

 昔、地図の読めない女なんていう本が売れたことがあったけれど、どうも女性が空間把握能力に欠けるのは幼少のころブロック遊びをしてこなかったからなのでは、なんていう説もあるようだけれど、女とか男とか関係ないさ、ただとにかくわたしは地図を読むのがマジで苦手なのである。
 正直言ってGoogleマップがないとどこにも行けない(このアプリがなかったころわたしはどうやって生きていたんだろう?)、まずiPhoneを体の前に出して目的地と方向が合っていることをいちいち確認、五秒に一回は立ち止まってGoogleマップで現在地を確認、目的地が近づいてきたが目的地が見つからないときに、「到着しました」とアナウンスされてしまった日には、まだ案内を続けて体はまだついていないのよと絶望的な気持ちになってしまうくらい、とにかく地図が読めないというか方向音痴なのである。
 
 このご時世で話しかけられ率は若干低くなった気がするが、それでもやはり話しかけられる。先日も通勤中に「もし、○○幼稚園に行きたいんですけれども」と四十代ほどの女性に話しかけられた。その女性が手にしていたのは、紙の地図である……。おそらくGoogleマップを印刷してきたもので、「ここに行きたいの」と地図上の目的地を指さされるが、まず現在地をぱっと見つけられない。Googleマップのあの青いアイコン降ってきて……。
 話しかけられたときは音楽を聴いていたのでとっさに右耳のワイヤレスイヤホンを外したが、左耳はタイミングを逃し装着したままである。流れてくるのはCoccoのカウントダウン。スマートに道案内ができず、左耳からめちゃくちゃ急かされているような、鬼気迫る状況である。仮に道案内ができなくても鼻はへし折らないでくれ。

 

 わたしが少しでもわからぬ雰囲気を出すと、道をたずねてきた人は不安になってしまう。わたしは道を聞かれた者としての責務を全うしたい、必ずやこの女性に○○幼稚園までの道を教えてしんぜよう。そしてなぜか道をたずねてきた女性も女性で、「この人に聞いたのだからこの人が道を示してくれるまで待つ」という引き下がれない感を出してくれているような気がしなくもない。
 とにかく聞いた者、聞かれた者の責務のため、わたしたちは○○幼稚園への道を二人で探したんである。
 
 まあその時間は実際三分程度で、結局最後はGoogleマップで幼稚園を検索したんだけれども。あ、この角を曲がってまっすぐ行けばあるはずですと説明できてたいへん感謝された。よかった。

 

 人と(物理的に)距離を取りなさいといわれるこのご時世、それでも思いやりは忘れずに生きてゆきたい。道や乗り換えを聞かれたらそれはもちろん力になりたい。
 先日は幸いにも自分が住んでいる町でのことだったので、なんとかなった感があった。しかしわたしははじめて行く土地でも道を聞かれることが多い。どこに行っても地元民面をして歩いているのだろうか?(Googleマップを手離せないはずなのに!)とにかく話しかけられ率が高い人間として、少しくらい地図は読めるようになりたい。Googleマップを使わずとも東西南北、ハイヨユー!てな感じで道案内をしたい。地図が読めることは、もはや思いやりなのだ。
 ただしかし、道案内をするよりGoogleマップをインストールしてもらったほうが万事スムーズにいくのではないかと思わなくもないけれど。

 
 

光る小説(ムーンライト・シャドウ/吉本ばなな)

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 小説は、ときどき光る。まばゆく光るのではなくて、ぼんやり暗がりのなかできれいに光る。もちろんこれは比喩だけれど、でもそういう一冊が、本棚のなかにいくつかある。何度も読み返したくて、きっと簡単には手放せないものなのだろうなと思う。

 

 そんな本のうちの一冊が、吉本ばなな「キッチン」。有名ですね! はじめて刊行されたのは1989年……わたしが生まれた年だ。三つの作品が収録されている短編集(表題作である「キッチン」がデビュー作)。ちなみに下記のリンク先は新潮社で、通常の文庫の表紙だけれど、この記事の写真に使ったわたしが持っている文庫は福武文庫&2021年新潮文庫の100冊で買ったプレミアムカバーのものです(福武文庫、97年刷りだった…)。

www.shinchosha.co.jp

 収録されているのは「キッチン」、「満月 キッチン2」、「ムーンライト・シャドウ」。「キッチン」と「満月」は連作、「ムーンライト・シャドウ」は「キッチン」とは独立している短編だ。ただ、どれも共通していることがあり、それは大切な人との死別を経験したあとの話になっているということ。

  

 実は「キッチン」だけでなく、吉本ばななさんが書く作品の多くは、死や別れを扱っている。この世界にはそうしたものを扱う作品がそれはもうたくさんあり、それぞれの作品における最適解(必ずしも答えではなく)が書かれていると思う。どんな作品のどんな最適解が自分にぴたりとはまるのかは人によってもちろん違う。わたしの場合は、「キッチン」がずっと最適解だ。

 死や別れを扱っている……なんて暗いのでは? と思われそうだけれど、読んだあとにどよーんとした気持ちにはならない。ただ、「明日に向かって生きていこう!(キラキラ)」みたいな前向きすぎる答えがあるわけでもない(ときにはそういう前向きさも必だけれど)。

「キッチン」をはじめとして、わたしにとって吉本ばなな作品は、最初に書いた「ぼんやり暗がりのなかできれいに光る」ような、なにかに迷ったときや元気がなくなったとき、ちょっとした目印になることが多い。そしてそれは、とても「ちょうどいい」ものだ。

 

 今日ひさしぶりに読み返した「キッチン」、というのも収録されている「ムーンライト・シャドウ」が映画になるらしいじゃないか、観たい〜〜めちゃくちゃ観たい。の気持ちがふくらんだので、読み返したのである。「キッチン」、そして「満月」も、本当に本当にだいすきな作品なんだけれども、今回は「ムーンライト・シャドウ」について(映画のリンクは下記にて)。

moonlight-shadow-movie.com

 

 突然、恋人の等を事故で失ってしまった大学生のさつき、同じ事故で恋人のゆみこを失ってしまった等の弟の高校生の柊、そして謎の女性うららの三人がメインとなる短編。等、さつき、柊、ゆみこは四人でなかよく遊ぶことが多く、その事故はたまたま等がゆみこを車で家まで送っていた途中の出来事だった。

 恋人を失ってジョギングをはじめたさつき。ゆみこの形見であるセーラー服を着て学校に行く柊。二人はそれぞれの方法で悲しみを紛らわしている。

 うららとの出会いは唐突で不思議だ。さつきがジョギングの最中、等との待ち合わせにもよく使っていた川で熱いお茶を飲んでいると、うららに声をかけられる。面識のない女性に声をかけられびっくりしすぎて水筒を川に落としてしまい、後日うららが水筒を弁償する、という約束が取り交わされ二人は知り合いに。

 

 なんだかこう書くと、「なにその怪しい人……」感が出るかもしれないけれど、なぜか当たり前のようにうららの存在を受け入れられる、それが吉本ばななの真骨頂、わりと突飛なことが起こっても、不思議と「こういうことありそう」とすんなり思えるのだ。作品全体の雰囲気がそうさせるのかもしれない。

 大切な人を失った悲しみを互いに理解しながらも、たとえばさつきは柊とおいおい泣き合ったりはしない。どんなに悲しいことがあっても、その悲しみと共生していくのはただ自分だけしかできないのだということを、読んでいると思う。

 吉本ばなな作品はやさしげな作風のイメージもあるかもしれないけれど(実際文体はやさしく感じる)、すごく残酷でつらいことも書かれている。だからこそ、柊とさつきが互いを大切に思い、力になりたいと考えていることも伝わるし、自分以外のだれかに感じるいとおしさとか美しさが、たんなる綺麗事に見えないのだと思う。

 

 うららに誘われて朝五時に出かけた川で、さつきはある光景を目にする。百年に一度、いろんな条件が重なって見えるかもしれないといわれた光景。それは本当にかなしくて、つらくて、いとしくて、美しい。

 

「キッチン」に収録されている三作品に共通することがもうひとつある。それは、おいしいものを食べていること。「キッチン」ではラーメン、「満月」ではカツ丼、「ムーンライト・シャドウ」ではかきあげ丼。おいしいものを一緒に食べることで、気持ちがつながったり、すこし前向きになったりする。わたしたちが生活するうえで、すごく大切な行為だと思う。

 

ひとつのキャラバンが終わり、また次がはじまる。また会える人がいる。二度と会えない人もいる。いつの間にか去る人、すれ違うだけの人。私はあいさつを交わしながら、どんどん澄んでゆくような気がします。流れる川を見つめながら、生きねばなりません。

(「ムーンライト・シャドウ」より引用)

 

 

 とてもかなしいことがあったとき、再び歩き出すことはすごく難しいことだ。無理に歩き出す必要はないし、歩き出せるタイミングはきっと人それぞれだろうし、歩き出せない人だっていると思う。ただわたしはこの言葉を、ひとつの答えとしてずっと抱いてこれからも生活してゆきたいと思う。暗いところで迷ったときに、きっと光ってくれると思うから。

 

 

 

ペリカンに出会った日/記憶に残っている、あの日(kaze no tanbun 夕暮れの草の冠)

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 ペリカンが、いきなり目の前に降りてきたことがある。動物園内などではなく、そのへんの道端である。小学二年か三年くらいのことだったか、なにか小学校のイベントのために妹と二人で歩いていた。そのイベントがなんだったのか思い出せないが(どんど焼き? ゴミ拾い? とかそんな感じだったような)、とりあえずわたしたちは海に向かっていた。

 それはもう本当に突然のことだった。驚く暇もなかったというか、今思えばとても自然に、わたしたちの目の前にペリカンが降り立った。静かな着地であった。まわりにはとくにだれもおらず、わたしたち姉妹とペリカンが、その場に立ち尽くしていた。


 ペリカン。その姿ははっきり言って恐ろしいものである。あの口、すべてを飲み込みそうな口……。こわすぎる。さらに小学校低学年のわたしたちにとって、目の前のペリカンの大きさといったら、もうほぼ化け物である。あれ、ペリカンってどんな姿してましたっけ……と思ったひとは、画像検索してみてほしい。あの口の、如何ともしがたいでかさに対して目の小ささも不気味すぎる。
 そもそもわたしは鳥のかたちが苦手なんである。あのなにも考えてなさそうな、しかし永遠に奥まで広がっていくような宇宙みたいな目、細すぎる脚、ばっさばっさひろがる翼、全体的にアンバランスな身体の構造、そして嘴……。嘴こえ~~~。鳥はどうにも、得体が知れない。


 そんな得体のしれない生き物の頂点に近いものがペリカンである。どう考えてもおかしい、あの、喉……? 嘴からびろ~んとなってる膜……? 幼いわたしたち姉妹の前に、その怪しすぎる全貌を惜しげもなく見せ、しかも身長はわたしたちと同じくらいか、すこし高いくらい。冗談抜きで食われると思った。鵜みたいにぺろんと。

 わたしたちは声も出せず、ただ全身でペリカンの存在を感じていた。一歩も動けなかった。妹のほうを見ることもできなかった。あのとき、妹はかなり幼かったはずだが、泣かなかったのは褒めるべきことだ。たぶん泣いたり少しでも声を上げていたらわたしたちは食われていた……。
 そのうちペリカンは再び飛び立っていき(そういえばペリカンも鳴いたりとかしなかった)、わたしと妹はなんとか事なきを得た。家に帰って母親にペリカンが、ペリカンがとひたすら説明したが信じてもらえず、後日地元の新聞に「動物園からペリカン脱走」という記事が載ったことでやっと信じてもらえた。

 

 強く記憶に残っているし、なんなら今でもときどき妹と「あのときのペリカンまじでこわかったね」という話をする。だから確実にあったことなんだけれども、約二十年経った今、「あの出来事は本当にあったんだっけ」と思うことがある。ことあるごとにこの話をいろんなひとにするが、大体「うそだ~(笑)」と言われてしまうので、自分のなかでも事実かどうか曖昧になっているのかもしれない。

 ペリカン事件に限らず、多くのことは時間がたつにつれて薄れていくものなのだと思う。いくら印象深い出来事であっても、記憶が記憶として作用していないというか、わたしが勝手に記憶をつくっているというか。多かれ少なかれ、記憶というものは美化されたり悲劇化されたりするものだけれど、実際の記憶とのズレが生じていく気がしているのは、すこしさびしいものでもある。

 

 ただ、読書をしていると、薄れていた記憶が突然色濃く呼び覚まされることがある。読書の愉しみ方のひとつとして「追体験」が挙げられると思うけれど、わたしは追体験というより、実際に自分の記憶を呼び起こされることのほうが多い(追体験を自分の記憶とまぜている可能性もあるが)。ふとした会話や、昔見た景色なんかがふいに思い出されると、その小説はわたしにとって特別なものになるし、忘れていたことを思い出せるというのは、不思議と新しい自分になっていく感覚がする。
 今回、このペリカン事件のことをありありと思い出したのは、「ペリカン」(蜂本みさ)という作品を読んだからである。

www.kashiwashobo.co.jp

 こちらの「kaze no tanbun」シリーズ「夕暮れの草の冠」に収録されている短文。わたしはこのシリーズをはじめて手にとったのだけれど、なんだか昔通ったような気がする、なつかしいにおいが漂ってくるような作品集だった。「夕暮れの草の冠」というタイトルがすごく合っていると思う。

 わたしは夕暮れに草の冠をつくったことはないと思うんだけど、でも読み終わった今、すごくそれを「つくったような」気がしている(これが存在しない記憶ってやつなのか……?)。

 とはいえノスタルジー全開というわけでもなく、不思議で不穏で、と思えばふいにあたたかい、何度も大事に読みたくなる作品ばかりであった(装丁もたいへん素敵!)。


 そのなかの「ペリカン」である。‭「天使が沈んでいる」と噂される池におとずれる四年生の早希子。「天使」というのは転校生で、読み方はえんじぇる(!)。ほとんど学校に来なかった天使が、親の都合でまた引っ越した、というのがついに「殺された」という噂にまで発展し、真相を確かめるべく早希子は一人池にやってきたのだが、そこで出会うのがペリカンである。

 もし、幼少期に突然ペリカンが目の前に現れたという体験をしていないひとがこの作品を読んだらどう思うのだろう。「ぺ、ペリカン!?」と急に現れるペリカンに驚くのだろうか。「なぜペリカン!?」と考えるのだろうか。それとも「たしかにペリカンがいてもおかしくないな」と納得するのだろうか。

 幼少期に突然ペリカンが目の前に現れたという体験をしたわたしは、ペリカンがそこにいるのが当たり前だと感じたし、なんかもうペリカン以外にありえないと思った。早希子と当時の自分の歳が近いのもあったのだろうか。早希子は当時のわたしのように妹と歩いているわけでもないし、そもそもわたしはただの学校のイベントに行く途中だったし、池を歩いていたわけでもなかったし、作品のなかでかぶることはペリカンが目の前に現れた、それだけだった。けれど「あ、これわたしじゃん」と思うと同時に、ぼんやりとしていた実際の自分の記憶が象られていった。

 あのとき、わたしと妹は手をつないでいたんじゃなかったか、歩いていたところは海に続くボードウォークだった気がする、ペリカンが飛び立ったあと、わたしたちは目を見合わせて、互いの恐怖を共有しあったんじゃなかったか……「ペリカンと遭遇したことがある」というだけだった記憶に色がついて、体験を追うというよりも、体験に追いついたという感覚だった。

 

 ペリカンと対峙しなにもできなかったわたしと違い、勇敢にもペリカンと悶着する早希子。そんなふうに、わたしもあのとき動けていたら、というわずかな羨望(絶対に無理だが)と、結局見つからなかった天使やペリカンの奥にいた女の子の謎、真夏の夕方にこわい夢を見るときのような不穏さを感じる「ペリカン」。ペリカンと対峙したことがなくてもおもしろいはずです。

 

 記憶に残っているあの日のことが、なにかを読むことによってさらに記憶に残る出来事となる。「夕暮れの草の冠」は、なにかを思い出したり、自分の記憶がそっと色づいたりするような一冊だった。
 
 ちなみにペリカンは今でもこわい。できるならもう二度と実物は見たくないと思っている。

 

 

 

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」