今日もめくるめかない日

昔の日記(夏の)

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 朝顔が咲いた。

 のぼりはじめた日のひかりに照らされて、スカートみたいな薄いあおいろの花びらがゆっくりとひらいていった。見たことはないけれど、空気に抵抗するように一生けんめい咲こうとする姿は、赤ちゃんがはじめてつかまり立ちをするときみたい。夜が明けたばかりの時間は、ぼんやり白くなっていてなんの音も聞こえてこない。すごくしずかできれいな朝だった。私の二階の部屋にはひとつだけ窓がある。そこから手をのばせばすぐ朝顔にふれられた。朝顔の鉢を置いていたのは玄関外(とびらのすぐ横)。でも気づいたら朝顔は蔓をぐんぐん伸ばしていって、棒の支柱だけではもう支えきれなくて、ついにこの家ぜんぶを支柱にするようになった。

 朝顔が咲いた。

 私はそれを一階で寝ているおばあちゃんに伝えにいく。おばあちゃんはもう起き上がれないから朝顔を見ることができなくて、私はそれをかわいそうだと言った、おばあちゃんはかわいそうだと言う私のことをやさしいと言った、やさしいと言われてうれしかったからありがとうと言った、ありがとうと言った私の心をおばあちゃんはうつくしいと言った。きっと今にこの家はたくさんの朝顔につつまれる。まだふたつ、みっつしか花はひらいていないけど。この一階の部屋からも、たくさんの朝顔がみえるはず。だけどおばあちゃんは、もうみえなくてもいいのだと、口だけ動かしてそう告げた。さびしいなと思ったけれど、それは言わなかった。

 朝顔が咲いた。

 たくさんの薄いあおいろの朝顔が家の壁をかこってる。もう家中は蔓でぐるぐるだらけ。これから咲こうとしている朝顔が、きゅうくつそうでかわいそう、とおかあさんが言っていた。だからおかあさんもやさしい人だ。最初に咲いた朝顔もきゅうくつそうにみえたけど、一度咲いたのだからかわいそうではないねとおかあさんが笑った。この家はいっけんきれいにみえるけど、よく目をこらすと朝顔のなかにしおれたものや枯れたもの、しぼんで泣いているものもまざってる。ぎゅうぎゅうを我慢できなくて、せっかく高いところで咲いたのに、蔓からはなれて地面に逃げたものもある。玄関から外に出ると、実は朝顔のあたまがそこらじゅうにいっぱいだ。もともと朝顔を植えていた鉢はもう、ちょっとやそっとじゃみつからない。せっかく一階からも朝顔がみえるのに、おばあちゃんの目はだいぶ悪くなったみたいで、もうなんにも映らないのだとほほえんだ。

 朝顔が咲いた。

 二階の窓からみえる景色は、どちらも薄いあおいろだから、空なのか朝顔なのか区別がつかない。すこしだけ窓を開けて指をのばしてふれてみると朝顔だった。花びらは紙よりやわらかくて、なまあったかい。力をこめるとすぐにちぎれそうだった。

 朝顔が枯れた。

 夕方、花がらを摘みなさいと、おかあさんに怒られた。しぼんだ朝顔は花がらといって、のこしておくと病気になるのらしい。さっきまで咲いていたのにかわいそう。うったえたのに、病気になってしまう朝顔のほうがかわいそうだと言い返された。本当におかあさんはやさしい人なのか最近わからない。しかたがないから二階の窓から屋根をつたって、しゅんとしぼんだ朝顔のくびをぷちっ、とちぎった。花がらは、たいていきれいに咲く朝顔の花に埋もれていて、日のひかりなんてぜんぜんあたっていなかった。摘んだくびをバケツにぽとぽと入れていったらたくさんたまった。見たことはないけれど、死んでしまった人の骨をつぼにしまうときみたい。夕日が西に沈んで、たちまち昏くなって、あかるさと一緒に咲いていた花びらもとじていった。

 朝顔が咲いた。

 花がらを摘んだからまたきれいに咲くようになったのだと、おかあさんはよろこんだ。バケツに入れた花がらを、私は二階の部屋のすみに置くことにした。おばあちゃんに見せても、目をひらかなかった。

 おばあちゃんが死んだ。

 しわしわになった首すじに、水をかけるみたいに私は泣いた。おばあちゃんの亡がらに、朝顔を添えてあげることになった。バケツにしまっておいたものを出したら、きれいなものを入れなさい、とおかあさんに怒られた。おばあちゃんは骨になり、その骨はつるつる白いつぼへしまわれた。そのようすは、思っていたほど、花がら摘みとは似ていなかった。

 

 朝顔が咲いた。

 やさしいだれかが告げにくる。私の部屋は一階になり(起き上がれなくなったから)、日のひかりを浴びることもほとんどない。だからあとはしぼんでぷちっ、と千切れてゆくだけだ。昔バケツに入れた花がらは、なまあったかくて人の体温みたいだった。

 

 

 

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BFC3幻の2回戦作です。

 

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サプライズされたときの反応にいつも困る

 サプライズされたときの反応にいつも困る。最近はだれかと飲みに行くなんてこともなくなったからこの問題は発生しなくなってきているけれども、少し前までサプライズというものには悩まされてばかりだった。

 サプライズはそんなに頻繁に起きるものではない(なにしろサプライズだから)。就職祝い、結婚祝い、あとは年に一回の誕生日。友人たちと飲みに行ったとき、「おめでとうございま〜す!」と店員さんが花火刺さったケーキを持ってくるあれである。あれが登場したときの反応にいつも困る。

 

 わたしは反サプライズ主義というわけではないけれど、サプライズはとくに考えてもらわなくて結構という思想でいる。うれしくないわけではないけれど(祝われることはうれしい)、とにかく反応に困るからできればせずにいてほしい。きゃ〜!と喜べばいいんだと思うが、サプライズされること自体に魅力を感じないのできゃ〜!という反応ができない。しかもサプライズということは、事前に知らされていないということなので、とっさの反応が必要になる。

 とっさに反応、正直むりである。戸惑うしかできない。とっさにきゃ〜!と反応できる人ほんとうにいるの…?と思うけれどこれがいるのだ。わたしもそれなりに生きてきて、サプライズされるする側どちらの立ち回りも担ってきたけれども、きゃ〜!と瞬時に喜べる人は実際にいる。素直な性格をしているのだ。うらやましい。というのもサプライズはされる側はもちろん、するほうも相手の反応によって一喜一憂するもの。「きゃ~!」乃至は「え~うそ~…うれしい、ぐすっ」というちょっと感動した雰囲気がされる側からにじみ出ればもう万万歳、サプライズ企画者冥利につきるというもの。
 しかしサプライズをされたときの反応に困る人間にうっかりサプライズを仕掛けてしまうのは由々しき事態。「おめでとうございま~す!」とケーキが運ばれてきて、わたし以外の人間がなにやらにやにやとしているのを「えっあ~、ああ、えっあ、あは…」と、きゃ~!もぐすっもできず、まじでどうしていいかわからん「あは…」という中途半端な笑みを浮かべながらばちばち花火が消えていくのを眺めてしまうので、あまりに不完全燃焼な空気が漂う。い、いたたまれないあの空気。するとすかさずだれかが「ほら!誕生日だったじゃん!花火消えちゃうじゃん~(笑)ほらほらおめでとう~!」と場を取りなし大皿にのったケーキをわたしに持たせ、すかさずスマホで写真を撮るあの店員さんとの連携プレー、主役になっているはずなのにサプライズされたことの波にのれず、できあがった写真はいつも笑ってんだか笑ってないんだか中途半端な表情で「サプライズされた感」がまったくない。こんなにサプライズしがいのない人間もいないだろう……。


 急に店員さんがケーキを運んでくるパターンはまだいい。戸惑っているあいだに写真を撮るまでの連携プレーが発揮され、なんやかんやでサプライズが完了する。容赦のないサプライズは店内が突然暗くなりバースデーソングが流れてケーキが運ばれてくるあれだ。

 こ、これはまさか…一週間前に誕生日を迎えたわたしのためのあれ…と気づいた瞬間、周りの友人がにやにやしている……ここからサプライズされる側は試されている。「えっもしかして?え〜わたし?えっやだ~も~!!」というような雰囲気を出さなくてはいけない。な、なにが「え〜わたし?」だ。むりである。せいぜいが、「や、やべえ、くる、あれが…くる…っ」と覚悟を決めることしかできない。
 さらにこのバースデーソングサプライズの厄介なところは、一日に二度流れることがあるということだ。どういうことか、つまり同じ日、同じ店、同じ時間帯に、誕生日を迎えた二組の客がいるということ……。最初にバースデーソングが流れ、「や、やべえ、わたしのところにくるかもしれない……」と思っていると別の客のところにケーキが運ばれていき、わ~!おめでと~!の拍手が巻き起こり、「自分じゃなかった、よかった」とほっとするのもつかの間、なんとまた頭からバースデーソングが流れるのである……。「ちゃーんとあんたの分も用意してますよ☆」みたいな顔やめてくれ……ついさっきまで「ドモホルンリンクルをいつから使うべきか」「将来介護される側になったときのため全身脱毛をしておくがよい」といった話をしていたくせに、サプライズがはじまった瞬間、無垢な少女みたいな顔しやがって……。

 

 ときどき漫画などで、天然な登場人物がサプライズを仕掛ける本人に間違えてサプライズの内容をメールで送ってしまい、主役が「どう反応すればいいのやら、ヤレヤレ」……となる展開があるが、覚悟を決める時間やどういった反応をするべきか考えられる時間がおおいに用意されるからむしろうらやましい。

 反応に困るといっても、わたしはサプライズされることが嫌でたまらないわけではない(まあできれば避けたいが)。せっかくいろいろ用意してもらったのだし気持ちはありがたいので、やはりこちらとしても喜びたい。しかしむずかしい。サプライズじゃなくて、普通におめでとうと言ってもらえれば普通に喜ぶのに。例の花火ケーキが登場するとマジでどうしていいかわからなくなり、そそくさととにかくケーキを食べようとフォークをぶっさすがその瞬間「え、写真撮らないの…?」とちょっと悲しそうな顔までさせてしまう。いやさっきみんなで撮ったじゃん…と思うけれど、たしかにケーキ単体は撮っていない、しまったこれではサプライズ企画者冥利が…とする側の気持ちを汲みたいあまりにこっちが傷つく。サプライズって、知らんけど、もっとハッピーなもののはずでは? 

 あとここでしか言えないから言っちゃうけど、お酒飲んだあとに甘いものをあんまり食べたくないんだよ、お茶漬けでしめさせてくれ。

 

 自分がサプライズをされるような人間ではないとつねづね思っているところも大きい。いつだったか、夫がクリスマスの朝、わたしの枕元にプレゼントを置いていたことがあったが(夫はベタなことを愛している節がある)、わたしはそのプレゼントに気づかずそのまま出社し夜眠るときに気づいたということがある。結婚してはじめてのクリスマス、ドン引きされた。わたしはまた企画者冥利をずたずたにしてしまった。本当にサプライズしがいがない人間だ。とにかくそれくらいサプライズをされることを想定せずに生きているのである。

 別に毎日「わたしサプライズ興味ないから」とか言い歩いているわけじゃないけれど、なんというか雰囲気的に「あの人サプライズ興味なさそう」と思われるような言動はしていると思っていた。でも違うらしい。自分が思うより他人は自分に興味がないし、サプライズはだれでもうれしいものという刷り込みも起こっている。なんてこった。


 ちょっと前にフラッシュモブという現象が流行っていたけど、あれを発言小町とかヤフー知恵袋とかで読むたび背筋が凍った(ていうかほんとに国内で起こってたの?)。背筋が凍る人の人口比率のほうが大きいと思うんだけど(発言小町でも引いたんですが…という悩みが多かった)、当時わたしのまわりに「フラッシュモブにあこがれる」と言っていた人はたしかにいた。なんてこった。
SEX AND THE CITY」でビッグが結婚式前夜、キャリーに「これは二人のための結婚じゃないのか?」というような疑問を投げかけていたけれど、フラッシュモブをされた日にはビッグの気持ちがわかりすぎてしまう(いやしてもらったことないけど…)。あの映画は最終的に親友がいればもっと最高!というハッピーなしめくくりになったけど、フラッシュモブは親友でもなんでもない、ぜんぜん知らない人が踊ったりなんやかんやしているらしいじゃないか…(だってモブだもの…)。でもそれだけお金や労力をかけてその舞台を用意してプロポーズして……ってたとえそのフラッシュモブが嫌だったとしてもその場で断れる勇気を持つ人がどれくらいいるのだろう。サプライズはされる側が主役だけれど、される側にとってもする側の面子を潰してはいけないという考えが少なからず働くと思う。サプライズは、実はする側も同時に主役になっているのでは?
 つまりなにが言いたいかというと、サプライズ=必ず人が喜ぶというのは大間違いで、サプライズするのはいいんだけど、サプライズを純粋に喜ぶ人にしてあげてほしい。でもなんか「わたしサプライズされるの苦手で」とかわざわざ言うの、まあ、変というか、逆に期待している?と思われてしまう可能性もあるし、かといって「あなたサプライズされるの嬉しい人?」とか聞くのも計画破綻の第一歩である。なんとかなってほしいこのサプライズ問題。

 

 コロナ禍によってなしになったが、もともと自分たちの結婚式には友人を招く予定だった。そのときいちばん付き合いの長い友人が、「もしかしてサプライズムービーとかつくったほうがいいの?」とか聞いてきたので「こいつ、わかってるな…」と思った。そもそもそんなことをたずねてくる時点でもうサプライズは破綻しているのだけれど、わたしはその質問に対してサプライズと名のつく一切のものは企画しないでほしいと頼むことができた。

 ただでさえ反応に困ることが予想される結婚式、さ、サプライズムービーなんてどんな顔をしてみればいいのだ……。サプライズということはわたしもその内容を知らないわけで、そんなビデオを親戚も、夫の親族もいるなかで見る……?むりである…親への手紙も絶対にやりませんとプランナーに伝えていた。親への手紙なんてサプライズを受けた両親の気持ちを考えるとなんかもういろいろむりである……。もしかしたら超喜んでくれるのかもしれないが、でもそれならあとでこっそりお礼言えばいいだけじゃん……わざわざ大勢の前で読むことなかろう。だいたいテンプレになりすぎて親への手紙もサプライズじゃなくなってるし、むしろ読まないことがサプライズなのでは……?

 まあつまり、ごたごた言っているけれど、わたしは極端な照れ屋なのだと思う。

 

 贈る、受け取る、を互いにひとしく同じ気持ちでやりとりするのはむずかしいのだ。サプライズありなしにかかわらず。ただ、喜ばせたいという気持ちはやはりいちばん大事。サプライズしたいから、が先行してしまうのはまあよろしくないだろう。サプライズは相手を喜ばせたい、のあとについてくるオプションだ。相手の性格などを考えてサプライズを喜ぶかどうかを見極めたいところ。

 

 まあつまり、長々と書いちゃったけれども結局なにが言いたいかというと、「SEX AND THE CITY」でキャリーがルイーズにヴィトンのバッグをサプライズでプレゼントするシーンがあるけど、あれめっちゃよかったよねってこと。

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生むこと(夏物語/川上未映子)

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 昔、といってもほんの数年前まで、とくに大きな疑問も持たずに、(おそらく)まわりにいる人たちが自然にそう思ったように、「いつか子どもがほしい」と考えていた。
 そういう考えは決して間違いではないだろうし、必ずではないにしろ、自然と芽生えてくる感情なのだと思う。子どもがほしい、と考えて生む(産むではなく)側の人間の状況は人の数だけあって、ほとんどの人が覚悟や責任、愛情を持って子を生んでいるだろう。

 わたしは出産を否定したくないし、自分が生まれてきたことに絶望的なほどの絶望を感じたことはない。本当は、こんなふうに考えることも怖かったけれど(それは今までの自分やたくさんの大切な人の考えを否定することになるんじゃないかと思っていたから)、それでも考えて、認めて、そしてまた考えなくてはいけないことなのだとも思う。
 出産は生む側のエゴだ。「夏物語」を読んでから、それをずっと考えている。

 

夏物語/川上未映子

books.bunshun.jp

大阪の下町に生まれ育ち、小説家を目指し上京した夏子。38歳になる彼女には、ひそやかな願いが芽生えつつあった。「自分の子どもに会いたい」――でも、相手もおらんのに、どうやって?
周囲のさまざまな人々が、夏子に心をうちあける。身体の変化へのとまどい、性別役割をめぐる違和感、世界への居場所のなさ、そして子どもをもつか、もたないか。悲喜こもごもの語りは、この世界へ生み、生まれることの意味を投げかける。
パートナーなしの出産を目指す夏子は、「精子提供」で生まれ、本当の父を探す逢沢潤と出会い、心を寄せていく。いっぽう彼の恋人である善百合子は、出産は親たちの「身勝手な賭け」だと言う。
文藝春秋BOOKSより引用)

 読んだのはもう一年前で、この本を読んでいるあいだは読むこと以外のことをするのがもったいない、というくらいの勢いでかじりつくように読んだ。それからずっと感想を書き残しておきたいと思いながら、この作品と向き合うことがうまくできなかった。自分の答えを今すぐ出す必要がないとわかっているし、その答えが必ずしも間違いになるとも思わない。子どもがほしいという思いは今もある。ただ子どもを生みたいという思いと、出産は親のエゴであるという思いがどちらもわたしのなかに沈んでいて、向き合うのが怖かった。
 先日、クローズアップ現代プラスで精子提供についての放送があり、川上未映子さんがゲストとして出演していた。その際、「どんな立場であろうと出産は親のエゴ」だとコメントしていて、やっぱりそうだよなって思った。それは決して悲観的な「やっぱりそうだよな」じゃなくて、それが大前提であると考えることからだとあらためて気づかされた。そして自分が今どう思うのか、どう向き合っていこうとしているのかを残しておこうという思いでこれを書いている。

www.nhk.or.jp

 

「夏物語」は本当に大長編! 芥川賞を受賞した「乳と卵」に出てくる人物たちのあたらしい物語になっている。豊胸手術についてのあれこれ、女子中学生がかかえる生理(身体の変化)への嫌悪感や不安、作家としての仕事、女と男、生むこと、生まれてくること、生きていくこと、本当にたくさんのことが描かれている作品だ。

 読んでいると、自分がいかに今まで鈍感にこの世界を生きてきたんだろうと思う。鈍いことはもしかしたらある意味で幸福なのかもしれないけれど、もう鈍感ではいられないし、鈍感なふりもできない。「夏物語」はこの世界に生まれること、そして生むことについて考えられずにいられない。

 自分の子どもに会いたいと願う夏子に、パートナーはいない。そして夏子は選択的シングルマザーとして出産をしようと考える。国内の医療機関精子提供を受けられるのは夫婦のみ、相手のいない夏子は海外の精子バンク、またはネットで精子提供を行っている機関を探す、あるいは個人提供をしている男性から精子を受け取るという方法になる。
 個人提供をしているという男性のブログにメールを送り、その男性と会うことになった夏子。その男性は恩田といい、自分の精子をこまめに検査している、いかに自分の精子がすごいかを熱弁。そして注射器希望と伝えてあるのにもかかわらず「キットとかを一覧にした紙、わたしちゃんと作ってましてそれ渡しますからね」と言いながら「本当の強さにふれてもらいたいっていう気持ちもありますしね」と「直接」精子を渡そうとする手段をほのめかしてくる。きもちわるい。精子提供を行う人がきもちわるいのではない。たくさんの、どうしようもない事情から精子をのぞむ人間を搾取しようとする考えがきもちわるい。でもなかにはこういう人間もいるんだろう。
 
 そして恩田のような人間から精子を提供してもらい、実際に出産した人がいる。それは恩田のような人間からもらうしか方法がなかったといえるし、そうまでして生みたいと強く思う人がいるということだ。恩田と話して疲れ果てた夏子が感じた孤独、精子提供を受けての出産を「不自然な方法」だと思う気持ちに、わたしはどんどん「出産ってなんなんだろう」と考えていくようになった。
 たとえば夫婦戸籍があって、だれからも望まれるかたちで出産する人がいる。たとえば夫婦どちらか(あるいは双方)の事情で妊娠できず医療機関から精子提供を受け出産する人がいる。たとえばSNSで出会った人から精子を受け取り出産する人がいる。どんな状況であっても出産は出産で、生むということは同じで、「方法なんて本当はたいした問題ではなく」て、どんなにまわりが祝福しても、どんなに親が覚悟を決めても、生まれてくる命は親のエゴ。

 AIDで生まれた善百合子は、夏子に「あなたはどうして、子どもを生もうと思うの」と問いかける。
 生む側にはいろんな理由が、いや実際には理由はいらなかったとしても、いろんな答えがある。子どもに会いたい、育てたい、幸福を教えたい、さびしいから、かわいいから、老後の面倒を見てほしいから。

 善百合子の言っていることが極論だとしても、極論とは言えないのだよなと思った。わかってる、実際に子どもを生む多くの人たちが子どものことを考えて生んでいることを、生まれてきた子どもを愛していることを、わたしはわかっているけれど、それでもどうしても、「子どもを生む人は、みんな自分のことしか考えない。生まれてくる子どものことを考えない」という善百合子の言葉を否定できない。

 善百合子は「出産は賭け」だと言う。たとえば小さな家に、十人の子どもが眠っているというたとえ話。わたしはきっと、この話を一生忘れることはない。

 眠っている十人には喜びも嬉しさも、悲しみも苦しみも存在しない。今はただ眠っているだけだから。「あなた」はその十人の子どもを全員起こすか、全員眠らせたままにしておくか、どちらかを選べる。もし起こしたとしたら、九人は起こしてくれたことを嬉しく思う。けれど残りの一人は生まれた瞬間から死ぬまでのあいだ、つらい苦痛が与えられることがわかっている。その苦痛からは逃れられなくてずっとその苦痛のなかで生き続ける。十人のなかのだれがその苦痛を与えられるのかはわからない。子どもを生むというのは、そういうことだ、と言う。
 この答えは到底出せそうにないし、一体どうすればいいのかわからない。わたしは自分の親を恨んだことはないし、むしろとてもだいすきだし、この話のなかでいうなら、九人のうちの一人になる。じゃあそれで、「ああよかった。じゃあわたしもこの幸福な世界を知ってもらうために自分の子を生もう」と思うのは、たしかになんて身勝手なことだろう。


 善百合子は反出生主義の思想を持つ女性。川上未映子さんと永井均さんの対談で反出生主義について掘り下げられています。

web.kawade.co.jp


 この対談を読んでわたしはますます生まれること、生むことの善悪についてわからなくなり、結局作品を読んで一年、向き合えてこなかった。

 最初に書いたように、わたしは出産を否定したくないし、する気もない。今生まれて生きている人は結局みんなだれかのエゴで生まれてきた命だし、それでもわたしにはだいすきな人がたくさんいる。こうやって思う気持ちもただのエゴなのかもしれないけれど。だから善百合子が言う「賭け」も否定できない。生まないという選択をする考えも、もちろん否定したくない。ただわたしは、夏子が出した答えにとても安心してしまった。安心して、だけど少なからずつらくて、それでも安心して、なんだかよくわからない涙を流したのをおぼえている。今は、それがわたしの答えなのだと思う。

 

 わたしたちにとって最も身近な、とりかえしのつかないものは「死」であると思うのですが、生まれてくることのとりかえしのつかなさについても考えてみたいと思っていました。
文藝春秋BOOKS著者コメントより引用)

 生まれてくることのとりかえしのつかなさ。わたしはこれから、なにができるんだろうと思う。いったいなにができるんだろう。

 

 わたしは今まで妊娠の経験がない。二年前に結婚した夫と、ときどき子どもの話をする。夫は、大きな疑問も持たずに、純粋に、自分の精子とわたしの卵子で子どもができたらいいと、たぶん心から望んでいる。わたしもそれをうれしいと思い、夫が望む「方法」で子どもができたらいいと思う。


 善百合子が問いかけてくる。「あなたたちは、何をしようとしているの?」
 出産はエゴだ、そして生まれてくる子どもは他者だ。この先自分がどういう選択をしたとしてもそれを忘れないでいようと思う。エゴだからこそ、他者だからこそ、子どもの命をなによりも尊重し、子どもがなにかを望んだときの選択肢をつねに用意しておかなくてはいけない。もちろんそれでエゴが解消されるわけじゃない。それでもわたしのなかには自分の子どもに会いたいという気持ちがある。生むことについて、生まれることについて、生きていくことについて、わたしはもう鈍感でいたくない。
 
 

分断の狭間(アンソーシャル ディスタンス/金原ひとみ)

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アンソーシャル ディスタンス/金原ひとみ

 この一年半、「コロナが落ち着いたら」「コロナが収束すれば」の未来たらればを使いまくっている。それは一見、希望を捨てていないような、明るい未来を描いていますよ的な前向きな言葉に聞こえるけれど、これも「あのときああしていたら」「こうしていればよかった」の過去を悔やむたらればと同じくらいの無責任さがあるんじゃないかとふと思った。

 どこかで今の状況をまだ認めないようにしている。問題を先延ばしにしている。だれかがどうにかしてくれる、と思っている。とてつもなく「長いものに巻かれる」ように、休日の外出を控えてマスクをして消毒をして給付金をもらって検温をして予定していた結婚式を延期縮小してワクチンを打ってセルフレジを使って選挙に行って医療従事者へ寄付をしてアルコールをかけて、それから出社して「早く落ち着くといいですね」と取引先にメールを打っている。どれも自分が考えて行動していることなのに、大きいなにかに操られているような気になる。わたしはずっと、なるべく正しいことをしようとしている。

 Go Toトラベル政策の際、行けなくなった新婚旅行のかわりに国内旅行に出かけたけれど、最初は楽しかったのに途中からじわじわ襲いかかってくる罪悪感で死ぬかと思った。早く家に帰りたかった。正しいことをしようと強く思うようになったのはたぶんここからだ。

 ときどき、コロナ禍における「正義」に押し潰されそうになる。もちろん自ら「悪」を働こうとは思わないけど(たとえばマスクを外してめちゃくちゃに飛沫をとばすとか)、コロナ禍によってうまれた「正義」は、ときどきしんどい(自分がした旅行も人によっては悪だった)。Twitterのリプ欄とか引用リツイートとかヤフーニュースのコメント欄とか、なんかもはや地獄ツアー。しんどいのに、自分の意見とのすり合わせのために見てしまう。

 

 すでに多くの人が言及していることだと思うけれど、この一年半でいろんなことが分断されてしまった(あるいはもともと分断されていたけれどそれがわかりやすく可視化された)。自分がいる場所と反対にいる人のことは敵とみなしてそれぞれの正義をかかげて罵っている。分断は目に見えて起こっている。でも、分断の狭間にいる人間も多くいる。というのが金原ひとみさんの「アンソーシャル ディスタンス」を読んで思ったこと。前置き長くなっちゃった。

 

www.shinchosha.co.jp

 わたしが中学生のころ「蛇にピアス」が芥川賞を受賞し、それからずっと作品を読み続けている。なぜ読み続けているのだろう……と、ときどき考える。金原ひとみ作品はなんかすごく癖になる。共感することはほとんどない。もし本気で「金原ひとみ作品には共感しかない」と言う知人がいたら、「え、マジ……? なんかあった…?」とわたしも本気でその人のことを心配すると思う。

 金原ひとみ作品は、閉塞的なものが多い。一対一(女:男)、あるいは一対二(女1:男2、ときには男3←本妻現る)、の構造で話が進んで狭い世界のなかでいろんなどうにもならないこと、クソなことに対してクソだとわめきちらす。それが初期の作品のイメージ。


 けれどそれからどんどん作品のなかの世界はひろがっていく。一対一(女:男)、あるいは一対二(女1:男2、ときには男3)でクソなことに対してクソだと言うのはやっぱりあるんだけれど、他者が増えてくる。社会性のなかった主人公に、少しずつ社会性とか理性がついてくる。ちょっと前なら、がんがん酒飲んで意味わからないくらい理性ぶっとんでどうしようもない男とどうしようもないセックスして「このクソな男と死なばもろとも」と思っていたような女が、なんと翌日会社に行くようになったのである。自分のことをもクソ女と言っていた女が、ちゃんと起きてだるい体に鞭打って会社に……大人である……まあ会社に行くようになったからこそさらにどぎつい閉塞感で苦しめられているというのもあるんだけれど。

 わたしはスプリットタンをしたことも実際に見たこともないし、べろべろに酔っ払って第二の人格が生まれ意味わからない錯文を書いたこともないし、「笑うな」と言う冷たい男を恋人にしたこともないし、とつぜん男に後ろから刺されたこともないし、獣姦をもくろむやべー男とルームシェアしたこともないし、クソアマ!と叫ばれたこともないし監禁まがいのことをされたこともないし無意味な領収書を店員に切らせたこともないし年下のやたら懐いてくる男と不倫をしたこともないし自分で太ももを刺すこともしたことないし超高級な服をめちゃくちゃなかんじで買ったこともないし愛人の妻のふりしてタクシーに乗ったことないし換気扇のなかに死体があるなんていう妄想をしたこともないけれど、「一歩間違えていたらわたしもそこにいたんじゃないか…?」とは思う。たぶんその「やべえかんじ」が癖になって読み続けているのだと思う。

 


 そして「アンソーシャル ディスタンス」。五つの作品が収録された短編集で、やっぱりどれも「やべえかんじ」てんこもり。しかし「一歩間違えていたらわたしはそこにいたんじゃないか…?」というより、「わたしはもしかしてすでにここにいるんじゃないか…?」と思わせるような、今までがどこか非日常(それでもリアリティえぐいのが不思議)だったのに対して、「アンソーシャル ディスタンス」はめちゃくちゃ日常を突きつけてきた。えぐいリアリティのある日常、見ないようにしていたところにあっけなく突き落とされる、ていうかその見ないようにしていたところは地獄そのもの、わたしたちは地獄と共生しているのである……ということを容赦なく叩きつけてきた。やべえ。

 

ストロングゼロ

 収録されているのは「ストロングゼロ」「デバッガ―」「コンスキエンティア」「アンソーシャル ディスタンス」「テクノブレイク」の五編。金原ひとみ作品は、酒がよく出てくるのも特徴。わたしがジントニックを昔よく飲んでいたのは間違いなくこれの影響、なに自らやべえやつになろうとしてるんだ……。若さ特有の情緒不安定期やべえ。テキーラアブサンには手を出さなかったけど。

 そしてついにストロングゼロがきた、ジントニックテキーラアブサンもだいたい店に行かなくちゃ飲めなかったけど(しかし金原ひとみ作品ではたいてい常備している)、ストロングゼロはコンビニでもスーパーでもめちゃくちゃ手軽に買えてしまう魔の酒。調子乗ってロング缶を買うと翌日マジで痛い目見るという魔の酒。

ストロングゼロ」の主人公ミナには問題が山積み、病んでなにもしなくなった同棲中の恋人行成の世話、同僚の元彼裕翔とのだらだらした浮気、編集者の雑務、読まなくてはいけない大量の原稿、うわあああもう考えただけで超めんどくさい現実。くそったれすぎる。そういうわけでミナは家でも会社でも(コンビニで売っているアイスコーヒーのカップに炭酸水だとごまかしてストロングゼロを入れて飲んでいるのである)いつでもどこでもストロングゼロを飲んで限界迎えて、でもそんななかでもやはり理性が残っている感じがしんどい。突き抜けられないもどかしさ。


 前はもっと、「もうなんでもいいわ~どうにでもなりやがれ」なやけくそ感と放棄感があって、でも勢いがあったから、はちゃめちゃだけど、なぜかそれこそ「どうにかなるのかも」という感覚があった。

 けれど「ストロングゼロ」はどうにもならない。ここまで書いて思った。みんな大人になってしまったんだ。大人になったというか、年を重ねて社会で生きていかなくちゃならなくなって、「どうにかなるのかも」は「自分がどうにかしなくちゃいけない」になってしまって、だからやるせなさだけが残ってしまうのだ。そしてそのやるせなさは自分の生活に重なって、最後の一文に心臓ひゅっとなる。鳥肌たつ。結局最初にいた場所から一歩も進めていないという現実にぞっとする。さてその一文をここで引用しても意味がないし知ってしまうと作品のおもしろさ半減、というかゼロになってしまうので(!)、気になったらぜひぜひ読んでみてね。もどかしさは突き抜けられないのに、作品はめちゃくちゃ突き抜けてる。

 

デバッガー

 金原ひとみ作品は繰り返すようだけど、とにかくクソな男やクソな女の登場比率が高い。クソの種類はいろいろあるけど、ありきたりな言葉でいうと、「その人と付き合ったら絶対幸せになれないよ……!」というようなクソだ。

 しかし「デバッガー」に出てくる男はクソじゃない、「この人なら幸せになれるんじゃない……?」と思えるような男、クソじゃなくて逆に不安になる。クリエイティブディレクターとして働く三十五歳の主人公愛菜、十一歳年下の部下の大山くんと恋仲になり、自分の肌の老化を気にしはじめて美容整形の沼にはまっていく。老化はバグ。バグを修正しようと躍起になって、「逆に不安」が二人の距離を乖離させていく。いろんなことに不安になってどうしようもなくなって、なにもかもがわからなくなって、「最終的にビールを飲んだ」。さすがである……。これが金原ひとみである。そしてこちらも最後の一文にやられた。また、一歩も進めていないむなしさを思いきり突きつけてきた……。どうしてまともになれないんだ……いい加減幸せになってくれと金原ひとみ作品に出てくる人物全員に思う。でも、そのむなしさはときにやさしさにも思える。

 金原ひとみ作品は、「生きやすそうにみえてめちゃくちゃ生きづらい人」を描いていると思う。小説の多くは、生きづらさを抱える人間に寄り添ってくれる。生きているといろんな生きづらさがある。わたしたちはときどきで、寄り添われる小説を選んでいる。そして生きづらさとはわかりやすい言葉で言えば「弱さを抱えている人」で、ていうかそんなの全員なんだけど、なかにはその弱さを自覚していない人、弱さだと気づいていない人、自分の感情に鈍感な人、それなのにめちゃくちゃだれかを求めてしまう人、求め方がわからない人、でも弱さを自覚していないから強く見える人、強く見えてしまう人がいて、そういう人に寄り添っているのが金原ひとみ作品なのだと感じる。

 強く見えてしまう人は、甘えられない(だからクソな男に甘えてしまったりするんだ…)。甘え方がじょうずじゃない人間を描くことは、同じくじょうずに甘えられない人間にとって安心する。そして登場人物たちが幸せにならないことに安心する。今までのクソな人生をなしにして幸せになるなんてひどい裏切り、ままならずどうしようもないまま作品が終わるのは、これ以上ないくらいのやさしさなのだ(でもいい加減幸せになってくれ……)。

 

コンスキエンティア

 そしてとくに「いい加減幸せになってくれ……」と願わずにいられなかったのが「コンスキエンティア」。セックスレス、会話ほとんどなしの夫から逃げるようにメンヘラ気質のある男、奏と不倫をする茜音、離婚をし奏との結婚も考えるが夜中の急な呼び出し、もう会わないやっぱり会いたいの繰り返しの超絶疲れがたまる付き合いの果てにいつしか連絡がつかなくなって、今度は友人の弟龍太と不倫に走り、かと思えばいきなり夫がかかわってきたり、奏からまた連絡がきて会いに行ってしまえば部屋がおどろおどろしいしもうどうしようもないし健全なかわいい男の子だと思っていた龍太もいつのまにか怪しい精神状態になってくるし(しかしその予感は最初からあった……)また奏から連絡が入るし、もう疲れちまうよ……終わりにしてくれこんな現実……。なのに出かける前に化粧はしっかりするし、ビジネスメールもちゃんと打つし、なんなら絶対デザイナーの男と寝るし、頼む……コンスキエンティア、これはラテン語で「意識」という意味らしいけれど、意識を、自我を、見つけてほしい……。でも見つけられず自分のもとにまいこんできた流れにのまれてながされていってしまうのが「狭間にいる人間」、そしてその狭間感はたぶん多くの人間が持っているどうにかしなくちゃいけないとわかっているのに、どうしようもできない感覚、分断されている世界のどちらかにいこうと思ってもむり、むりむり! 考えるの超めんどくせー、だからすることがはっきりしている仕事をこなすのが楽、わかる。

 そしてその狭間感を痛烈に描いているのが残りの二編、「アンソーシャル ディスタンス」「テクノブレイク」、言っておくけど、やべえ。

 

ほかの作品について

「アンソーシャル ディスタンス」、タイトルがまずやばい。完全に代表作になるこれは。いや代表作もちろんいっぱいある、もし「金原ひとみ蛇にピアスの人だよね!」などと代表作=蛇にピアスだと思っている人がまだいるなら、今すぐその価値観をアップデートしてほしい。「蛇にピアス」ももちろん代表作ではあるよ、衝撃的なデビューでしたよね。あともし「アッシュベイビー」を読んで「やべえ」と思い離れてしまった人がいるなら戻ってきて(はじめて読んだ日から十年以上たつけど、この作品はいまだに読み返せないトラウマ)。はっきり言って金原ひとみ作品は全部が代表作、毎回「きてる」作品ばかり、たとえば「憂鬱たち」の思わず生唾のんじゃうぶっとんだドエロい妄想、憂鬱が快感になる感覚、しびれるぜ。「どのウツイくんとカイズさんが好き?」だなんて話をだれかとしてみたかった……。

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憂鬱=快感! いらいらしている全ての人に

神田憂、ウツイ、カイズ。男女三人が組んずほぐれつする官能的なドタバタコメディ。現実とエロティックな妄想が交錯し暴走する!

 組んずほぐれつ、と官能的、とドタバタコメディが一緒になることある?

 

 また、わたしがいちばん好きな「AMEBIC」。なにがすごいってなにもかもすごいんだこの作品は。もう意味わからんが、わたしが句点も読点もない勢いありまくりのぐちゃぐちゃな文章を好むのは絶対この作品の影響。まじで出てくる錯文ずっと読んでいたいけどずっと読んでいたらなんかどっかおかしくなる。ブログの最初に金原ひとみ作品にはほとんど共感できないと書いたけれど、「AMEBIC」だけは、なんとなく、本当にちょびっとだけ、分裂していく感覚は、共感できる、気がする(断言はできない)。はきとし。

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 お子さんを出産されてから発表した「マザーズ」、本当に産んだばかりでこれ書いたの……? いや、産んだからこそなのかもしれないけれど、絶望的になる子育て話、でもわたしはやっぱり「き、きた……」と思った。初期の作品は、とにかくぶっとんでいて、かたちがどろどろしていて、ぐちゃぐちゃでつかみにくいんだけど、このあたりからわりとかたどられてくる感じがあって、それが「他者」の存在だと思う。他者は近所の人、そして夫、そして子ども、会社の人など。わたしたちが当たり前としている人付き合いは金原ひとみ作品だと圧倒的「他者感」になる。そして他者がずかずか踏み込んできてもいつも一切の手加減なく、金原ひとみはどうしようもない閉塞感をぶっこんでくる。これからも、ついていくぜ……。

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  ちなみにもし金原ひとみ作品を読んだことないという方いたら、はじめてにおすすめしたいのは「ハイドラ」です。

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アンソーシャル ディスタンス

 話が脱線してしまったけれど、とにかく「アンソーシャル ディスタンス」、最初の三篇はコロナ禍がはじまる前に書かれたもの、そして残りの二編がコロナ禍がはじまって書かれたもの。「アンソーシャル ディスタンス」は若い男女が生きがいとしていたバンドのライブがコロナによって中止になり、絶望して心中しようとする話だ。

 リスカパパ活、堕胎などを経験してきた沙南は人生に絶望している。そしてそんな沙南と付き合っている幸希もまた絶望しているが、沙南から見た幸希は、言ってしまえば絶望感が足りない。本当に自分と死のうと思っているのか? 心中を企てた二人が陥る一方的な希死念慮によって互いの距離にズレを感じる。

 あ、このズレがずっとわたしたちが抱いている分断の狭間そのものなんじゃないか? 学校が嫌だ、仕事が嫌だ、「正しさ」を集めた神経質な母親が嫌だ、なにもかも嫌だ、そんなふうに絶望している幸希だけれど、それでもなんだかんだで卒なく学校生活を過ごして内定ももらってきている。卒のない人間は、どこか強く見える。大丈夫、と思わせる。そして実際、旅行先で「生きる可能性」を提示する幸希は沙南に比べたら「大丈夫」なんだろう。だけどそれは相対的に見た「大丈夫」で、幸希は実際大丈夫じゃない、大丈夫じゃなくなる、生きるほうにも死ぬほうにもいけない分断の狭間で、渦中に埋もれていく。問題を先延ばしにして、死に傾いていた現実から狭間の現実に戻って、幸希はおそらく文句を言いながらも嫌でしかたがない仕事をする。それってすごく絶望だし、だけど希望でもあるし、今わたしたちの多くがそうやって生きているのだと思う。わたしたちは、たぶんだれも大丈夫じゃない。

 

テクノブレイク

 そして「大丈夫じゃない」の沸点を超えてしまった「テクノブレイク」。狭間から分断側に寄った主人公芽衣、感染をおそれるあまり消毒消毒消毒テレワーク外出自粛消毒消毒消毒……を守り恋人の蓮二が来訪したらしっかり手を洗うこと、外に出るときは必ずマスクをすること、個包装のものを使うこと、そのへんにマスクをぽいっとしないこと、などを余儀なくする(でもそれは「正しい」行為だ)。

 コロナ禍によって分断されたことは数え切れないほどあるが、ひとつ挙げるなら人の意識の違いだ。良くも悪くもそれぞれの本質が浮き彫りになった。この意識の違いでわたしたちは仲の良かった人と切り離されたり切り離したりが少なからず起こった。わざわざ密の場へ飲みに行く人に不信感を抱くようになった、極端な楽観的思考をする人が怖くなった、買い占めする人を敵のように思った、外へ出るなマスクをしろ営業するな「警察」と関わりたくなくなった。そして芽衣は、とても愛し合っていた蓮二が外から家に入ってくるのを見て、ウイルスだと思うようになった。

 そのどれも「間違っている」とは言えなくて、だからこそ決定的な亀裂ではなく、少しずつヒビが入り、わたしたちは分断されてきた。「テクノブレイク」では、ウイルスから自分を守るため恋人との接触を断つ。ここまでしっかり対策をする人は、狭間よりも分断された側だ。けれど結局は孤独に耐えられず再び恋人の接触を望み、狭間に落ち、けれどそこで恋人と元どおりになるわけじゃない、恋人との距離は分断されたままなのだ。ほんと、ままならねえ……なんなんだよ、なんでそんな生き方へたなんだよ、テクノブレイクって、テクノブレイクって、あまりにテクノブレイク………(意味を調べてひっくり返った)。

 

 確実に正しい場所はたぶんない。狭間だろうが分断側だろうが、わたしたちはそこに閉じ込められている。ずっとマスクをしているような閉塞感がまとわりついている。いったいこの状況でわたしたちができることなんて限られていてクソッタレと本当に思う。ただわたしは「コロナが落ち着いたら」とか、「収束すれば」に楽観的なだけの希望を込めたくない、コロナがなくなる/共生する未来を、問題を先延ばしにして他人任せにしてぽへ〜っと待っていたくない、今いる現実を現実的に見て生きていたい。

 だけどなにもかもわからなくなるときも嫌になるときも面倒になるときもあるだろう、たぶんわたしはそうなったとき、最終的にビールを飲む。

うつくしい愛のはなし(緑と楯・恋シタイヨウ系/雪舟えま)

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 凝り固まったものを取っ払って、いろんなことを自由に考えることはむずかしい。むずかしいけれど、そういうふうになるときがたまにある。なんでもできそうな気がする無敵感、どこにでも行けそうな解放感、やかましいいろんなノイズや簡単に口にできる「正義」なんかを全部なぎ倒して、これでもかというくらい身体が軽くなる感覚。
 たとえばとてもうつくしい景色を見たとき、ただ圧倒されて言葉をなくして自分のすべてが透き通って泣きたくなるときがある。悲しいわけでもうれしいわけでもなくて、ただ自分のなかの汚いものが浄化されて、きれいに涙だけが残った感じだ。もしかしたら人はそれを「感動」と呼ぶのかもしれないけれど、言葉にしてしまった途端、自分をつつむ感覚が陳腐になってしまう気がしてできない。とにかく泣きたくなる。そしてほんとうに涙を流せる自分をすこし好きになる。
 雪舟えまさんの作品を読むと、その感覚に近くなる。そこにあるのはうつくしい愛のはなし、なんて書いたらそれこそ陳腐だなあと思われるかもしれないけれど、でもほんとうにそうなのだ。うつくしい愛のはなし。あんまりうつくしくて、愛おしくて、とにかくそれだけがあって、とにかくそれが強くあって、なんにも太刀打ちできない。泣くしかできない。

 わたしが雪舟えまさんを知ったのは、早稲田文学女性号に寄稿されていた短歌だった。

 

クリスタル麺だねまるで春雨を冷やし中華にすこし混ぜると

 

ああ宇宙ふたりから生まれたごみをふたりで捨てにゆくよろこびよ

 

酔っている君が発見する俺の乳首のあいだは一オクターブ

 

ゆだんすると君が重たいほうを持つ米をよこしてガーベラを持て

 

(俺たちフェアリーている(短歌版)七十七首)

 

 いや、心臓……。心臓ぶち抜かれる。なにこのぎゅんぎゅんする短歌。はじめてよんだとき、あんまり素敵でびっくりした。最近、すすめてもらって穂村弘さんの「はじめての短歌」を読みましたが、そこには「短歌はそれ以上の感情を求めるもの」とあって、「それ以上の感情」というのはとてもしっくりくる。わたしは雪舟えまさんの短歌から、そこに書かれている文字以上のどでかい「それ以上の感情」を感じすぎてどうにかなって、しばらくその短歌のことばかり考えていてこれはいかんと思って「緑と楯」を買った。

 ちなみに早稲田文学女性号、読み応えありまくりの一冊なのでぜひぜひ。一生読める。

www.bungaku.net

www.kawade.co.jp

 

緑と楯 ハイスクール・デイズ(集英社

「緑と楯」、かなりシリーズ化されており、年表を見るとまったく全然読めていないのでこれから読み漁ろうと思います。

yukifuneemma.com

  わたしが最初に手に取ったのは「緑と楯 ハイスクール・デイズ」。

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 主役は兼古緑と荻原楯(何度でも口にしたくなる名前よ)。キャッチにあるとおり「宇宙一ピュア」! 人を好きになるのに理由はいらず、ただただ楯に恋をする緑が愛しい……。

 とにかく楯に愛されたい緑、楯の「エレエレした声」について考えるとき、わたしも一緒にエレエレした声について考えて、なんだかくるしくなる、エレエレってなに? と思うかもしれないけど、とにかく楯はエレエレした声を持つ人気者。こういう、一瞬「?」と思ってもなぜか自然としっくりくる夢みたいな表現が雪舟作品にはたくさんちりばめられていて、そのひとつひとつを読むだけでもたまらないのに、とにかく緑と楯ふたりのやりとりがかわいくて切なくて、胸がくるしいもうどうにかなるしどうにかして! 
 楯はどこかひょうひょうとしていて(だってエレエレした声を出すような男の子だもの)、ちょっとつかみどころがない。そういうところが憎らしいけどやっぱり楯っぽくて好きになっちゃうのだよね緑~~~わかる~~~!!

 楯が緑のことをどんなふうに思っているのか、わたしまで読んでいると不安になってくるんだけれど、たとえば楯が「おいで緑」というときのセリフに、すごく愛しさが詰まっているような感じがして(だって「おいで緑」だよ!? おいで緑……Oh……)、これが「きゅん通り越してギュン」という感情なのだとはじめて知った。

 出会うべくして出会った、という言葉が緑と楯にはすごくぴったりだ。小説の世界なんだからそらそうだろう、とかそういう野暮な言葉は本当に不要で、「緑と楯」という、ぴったり感、しっくり感、二人でつくるかたち、二人だからできるかたち、どうしてこんなにはっきりとそれが「愛しいもの」に見えるんだろう。

 

「ただいま」
 おれは荻原がただいまというのがすごくすきだ。「おかえり」

(緑と楯 ハイスクール・デイズ)

 

「愛って字は、形が花束に似てないか」

(緑と楯 ハイスクール・デイズ)

 

 なんてことない場面、会話ひとつひとつに胸がぎゅっとなる、これだけでなんだか泣けてくる。それにしても「愛って字は、形が花束に似てないか」だって!!!????????!!!!??????? に、にてる、にている……もう花束にしか見えん……。

 

「なんで俺にはおまえなんだろう」
「え?」
「ふしぎだね」

(緑と楯 ハイスクール・デイズ)

 

 本当になんでだろう、でもこれが「出会うべくして出会った」二人なのだ。その二人が一緒にいるだけで、本当にうつくしくみえる。二人が互いの名前を呼び合うだけで、自分のいる場所がきれいに見えてしまう。今までたくさんの人がつくりだしたり与えたり生み出したりしてきた愛、そのどれもただひとつしかないのだということにあらためて気づいて、愛……大きな「愛」という存在にぶっ倒れる。
 と、そんな感じで「緑と楯」にはまったわたし、次に読んだのが「恋シタイヨウ系」でした。

 

恋シタイヨウ系(中央公論社

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 わたしたちが住む太陽系とは違う「タイヨウ系」、月、水星、金星、火星・太陽、木星土星天王星海王星冥王星が舞台になっている。恋人や家族、いや関係に名前をつけなくてもつながっている人たちの連作短編集で、こちらにもミドリとタテが登場する(というか発表は恋シタイヨウ系のほうが先ですね)。
 地球から月に移住したミドリとタテ、講演をしたり、自分たちの遺灰をどこに撒くか、などということを話したり、居住区外へドライブに出かけたり、もう、二人が一緒にいるだけで、それだけで、あたたかくて幸福でやっぱり泣けてくる。
 この短編集、それぞれの作品の冒頭に短歌がついているんですが、そのどれもが本当に本当に本当にほんと~~~~~~~~~~~~~~~~に!!!!!! よいです。短歌って、ほんとうにすごくて、冒頭に書いた「それ以上の感情」もそうだけれど、本当に短い言葉のなかでおさえきれない感情が一気に爆発する。

 短編を読む前にそれぞれの短歌を一回、読んだあとにもう一回(いえできれば何度でも)ぜひ読み返してほしい。ああ本当は紹介したいけどさすがに我慢します。気になる人ぜひ買ってね……ここまでブログ読んでくださった人ならばきっと後悔はしないと思います。

「恋シタイヨウ系」はいろんなミドリとタテ、そしてほかにもたくさんの愛しい人物が登場する。たとえば「水星」、そこに行きついたのは赤ん坊のターとターを育てるリョク。二人は親子ではないのだけど、出会ったいきさつが本当に、愛、愛が過ぎる。

 

おれが生まれたのは田舎の星で、たぶんこの太陽系の人たちにはほとんど知られていない。親と離れて育ち、体が大人になりはじめ、触れあう相手を求めはじめ、さびしすぎてとてもひとりでは生きられないと思いつめていた冬のさなかに、雪の魔物と出会った。その星の人びとには理解されない方法でおれと魔物は心をかよわせ、つぎはおなじ星の人間に生まれ変わっておれとともに生きてほしいと頼んだ。魔物は願いに応え、おなじ種族の子として生まれてくれた。

(水星)

 

 わかりますか、この、うつくしさ、伝わりますか……。こんな、夢みたいな物語がここでは普通で、だけど再び出会えたことを全身全霊で喜んでいて、ものすごく愛があふれていて、だから泣きたくなる。なんにも悲しくないのに泣きたくなる。

 また、女しか立ち入りがゆるされていないとされる「金星」に出てくるカーマとヒュリの会話。

 

「カーマ」
「ヒュリのことを話すと泣きたくなってしまう」
「わたしも」
「愛してる、ヒュリ」

(金星)

 

 人を愛するって、なんでこんなに切ないのか……。あっこれ、この感覚はドリカムの「LOVE LOVE LOVE」を聴いたときと同じ……ねぇどうして、すごく愛してる人に愛してると言うだけで、涙が、出ちゃうんだろう………本当にどうしてなんですか? だれか教えてくれ……。

 

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海王星」は太陽系の底みたいな場所、「成長や発展の名のもとに必要とされなくなったものやじゃまにされたもの、寿命をまっとうできなかったものたち」が流れつく場所、水葬の星とも呼ばれる星に、ミドリとタテはキカトラとツルネとして生まれ変わる。キカトラがツルネの墨を吸い出す場面も、どうしてそんなにうつくしいの……? 忘れられて捨てられたものを「ほんとうに愛おしい」というキカトラ、愛おしいのはおまえたちだよ……。


同じ地球に生まれた奇跡サンキュー……
 

 また、雪舟えまさんをモデルにされているという穂村弘さんの「手紙魔まみ 夏の引っ越し」、こちらも教えていただいて読んだのですが、もう一体全体どういうことなのか、「まみ」はいったい、ほんとうにわたしと同じ人間なのか、同じ人間であってほしい、でもそれこそ月からやってきたんじゃなかろうかと思わせる短歌の数々、ていうか穂村弘さんに完全に憑依しているじゃないですか、この気持ちどうしたらいいですか? オーバーソウルかよ……。

 

残酷に恋が終わって、世界ではつけまつげの需要がまたひとつ

 

早く速く生きてるうちに愛という言葉を使ってみたい、焦るわ

 

「美」が虫にみえるのことをユミちゃんとミナコの前でいってはだめね

 

一九八〇年から今までが範囲の時間かくれんぼです

 

(手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ))

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「みえるのことを」が爆裂すき……もうなんなのこの世界……この作品たちと同じ世界線にわたし本当にいるの……? いるんだとしたら感謝してもしきれないよ……。

 そしてここでもういちど、「早稲田文学女性号」に寄稿された雪舟えまさんの短歌をよんでみる……。

 

ヤクルトを振りながらくれるこの人を兼古緑をだいじにしよう

 

この腕をすり抜けて裸で立ってもずくをすする荻原楯は

 

(俺たちフェアリーている(短歌版)七十七首)

 


 Oh………同じ地球に生まれて、よかったっ……奇跡か……サンキューたくさんの人、そして誕生してくれた地球……圧倒的感謝……あとはこの愛しさと切なさを抱いて愛を叫んで眠るわ。

 

尊すぎるワンチャンでウィンウィンな話(ワンルームエンジェル/はらだ)

 やべー漫画に出会ってしまった。

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 ジャンルはBLとされているけど、もし「BLだから」という理由だけで読むという選択肢をなくしているなら、もう一度読むことを検討してほしい、BLだけれども、これは人間と人間の愛のはなし、ていうか人間と天使、ていうか幸紀と天使のはなしだから…………。BLという枠超えてる、というか枠ということばをつかうのだってナンセンス、こんな、こんな物語を今まで見逃して生きてきたなんて、とわたしは思いました。

 

 実はそもそもわたしもBLには詳しくなく、はらださんという方の漫画を手に取るのもはじめて、むしろ恥ずかしながら今まで存じていなかった。知ったきっかけは、文學界1月号の「文學界書店2021」。作家たちが気になるテーマで各々10冊を選び紹介する……というコーナーで、王谷晶さんが「今年の私を支えたBL漫画10冊」として「ワンルームエンジェル」を挙げていた。
「久しぶりに漫画読んで嗚咽するほど泣いた一作」、「あまりに切なくしんどい」と紹介されていて気になっていた。

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 けれどそこですぐ買ったわけじゃなくて、どこかのタイミングで買おうと思って数カ月が経ち、なにげなく読んだ雑誌「CREA」秋号「明日のためのエンタメリスト」特集で、やはり「ワンルームエンジェル」が紹介されていた(紹介者は犬山紙子さん)。短期間で二回も同じ作品が紹介されているのを見ることってあまりないので、これは読むべきと思ってこのたび購入。

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 ここからめちゃくちゃネタバレするので未読の方、とくにこれから読もうと思っている方は先に作品を読むことを強く強く推奨します。読んだことを前提に話をはじめるのであらすじとかもとくに説明してないよ。

 

 

 

 まず天使がかわいすぎませんか? 登場シーンの美しさなに? 初読時、刺されたあと幸紀がバリバリ元気になっているタフさに笑いました。ていうか幸紀の隠し切れないいいひとオーラとか、おっさんなのにちょっと天然なところがたまらん。だって自宅のワンルームに帰ったらいるはずない天使がいて、びっくりしてるけどあんまり顔に出てなくて羽根さわっちゃったり、なにその穏やかなやりとりかわいい。あと天使がチン毛って言った。「ひもじくて…」てかわいすぎませんか?


 なんやかんやで一緒に暮らしはじめる天使と幸紀、そうか最初から天使は「飛べるようになるまでつきあってもらっていいですか」と言ってたんだな……。

 たぶんこの作品を読んだ大体の人がそうしていると思うんですけど、読み終わったらすぐ二回目読みたくなるんですよ。そうすると、たとえば幸紀が刺されて店長がやってきたところなど、二回目になると「あっあっああああああああ゛あ゛あ゛!!!!!」ってなると思うんですよ。わたしはなりました。一回目は気にしてなかったけど、血の量が、幸紀が刺されたにしては多すぎるし、パァンて天使があらわれた音じゃなくて、落ちた音だったのかと思うとくるしくて、でもきっと幸紀にはさ、パァンが天使があらわれた音に聞こえたはずで、あっあああああ~~~~~~~~~~~~~ってこんなふうにシーンごとにもだえる。

 

 警察署から出てきたとき、すでに幸紀は天使のことをなんとなく知っているということになるわけで、だから元気がないわけで、天使を見る目がちょっと複雑そうなのがもう、くるしくてくるしくて……「警察あんまり得意じゃなくて」だけが元気のない理由じゃないじゃん、そのあと天使が「すぐお伝えしたほうがマシ」って言ったのに対して幸紀が「おまえはそうなのね…」ってつぶやくじゃないですか、一回目のとき気に留めてなかったんですけど、二回目、幸紀が天使のことを知ってしまったからこそ「いつ言うべきか」を考えているというわけで、だから幸紀はほんとうにいいやつなんですけど、このときからすでに葛藤があったんだと思うと、あああああ~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!
 ていうかそのあと脈絡もなくはじめる「まんじゅうこわい」、最初は「かわいい~ほのぼの」って気持ちで読んだけど、高科さんとのやりとり知ったあとに読んだら、おい……あまりに切なすぎやしねえか……? 記憶がないのに酔っぱらうたび聞かされてた「まんじゅうこわい」の枕がぱっと出てくるんだよ……もうむり泣いてる。

 

 天使のパーカー姿かわいすぎか~~~~~!!!????
 天使が屋上から飛ぼうとするとき、いや結局飛べないんですけど、「どうしても飛ばなきゃいけないような気がして」と言っていて、無意識ながらに自分の役割というか幸紀と自分のための役割を感じているってことなんだ……ずっとここにいてって思っちゃうよ……。

 

 あり紗からの電話のシーンも好きなんですけど、ほぼ怒鳴り散らかしてるのに、合間に小声で「生きてて良かったよバカ」って言うのいとおしすぎませんか……。
 天使は幸紀が欲しい言葉をいつもくれる、それは同時に天使が生きてたころ欲しかった言葉だったんだよね、だれかが天使に言ってあげられたらよかったという言葉ばかりで、でもその記憶がないからこそ天使は幸紀にそういう言葉をあげられるわけで、おい〜〜〜〜!!!!!どこまで切なくさせれば気が済むんだよ~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!エンジェル係数ってかわいすぎか~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!

 

 エアロとの喧嘩のときも切ないんですけど、あの羽根が落ちてしまうところ……ここ店長もエアロもタカコも天使の姿は見えていないと思うんですが、タカコだけは、もしかしたら幸紀と天使ふたりの後ろ姿が見えたんじゃないかって思う。まぼろしだとしても、なにかを感じていたと思う。それからタカコもいろんな葛藤と戦って、きっとタカコもタカコのくるしみがあって、それは天使が言っていた「罰」なのかもしれなくて、でもそのくるしみと生きていて、だからこそお線香をあげにきて、決して簡単な選択じゃなかったはずで、みんないろいろ間違えてしまうことあるよね、でも、間違えたからといって必ず悪になるわけじゃない、間違えることだって、あるんだよ……。気づける人になりたいよ……。
 
 天使が自分のことを知ってしまうところ、だれの目にもうつっていないところ、記憶がないにしてもしんどいことだと思うけど、でも幸紀がいたから絶望的にはならなくて、でもやっぱりさみしいとかあったんだろうなって思うと天使だきしめてやりてえ~~~~でもそれは幸紀がしてやれるから……。

 あとここの会話で幸紀がイマジナリーフレンドの可能性を示唆されたことに対して「可能性を否定しきれん」って言うんですけど、この「可能性を否定しきれない」って前に天使が言っていた言葉でもあって、口癖がうつるというか、同じ言葉を無意識のうちにつかっている感があって、二人の距離が縮まっている気がしてわたしはこのワンシーンがかなり好きです。

 

 高科さん出てくるだけで泣く。まんじゅうこわいを口にしたときの幸紀の天使を心配する顔に胸がしめつけられる……。結局なにも思い出さなくて、自分の父を「高科さん」という天使、でもその高科さんが悲しんでいる姿を見ると「すごーく悲しい」と言う天使、この「すごーく」のオンビキに、天使のいろんな思いが詰まりまくってる、「ー」の長さが、たぶん短すぎず長すぎず、とにかく「ー」に詰まっているんだ。だれがなんと言おうと天使は天使だよ……かわいい天使だよ……。

 天使が幸紀に言った「価値を見出すのは貴方」「人生なんて開き直り」「優しい言葉が欲しいでしょう」「貴方は悪くない」……本当にぜんぶ、つらかったときの天使に言える人がいればよかったのにと思わずにいられないよ……。天使悪くないよ。高科さんも悪くないよ。A君は馬鹿だよ……。


 天使のえが、お………………(倒れた)

 

「もっと笑ってほしい!」って、思うよね、わかるよ。それはすごく愛だよ。天使にも伝わってる……。「めっちゃ好き」の天使、まじ天使じゃん……いとおしすぎか?幸紀の気持ちが天使に伝わってるのは、流れ込んでるんじゃなくて、流れ込まなくてももうぜんぶ伝わってる……「めっちゃ伝わってきてる」から……!

「僕もう飛べそうだなあ」からのっ……むり。言語化むり。何億回でも泣ける。つらい。こんな、わたしですらこんなにつらいのに幸紀のつらさ計り知れないんだが……。インスタの写真一人になってるのむり……。幸紀は天使のことめちゃくちゃ大切に愛してたんだよ……。あり紗の「気持ちを共有できるやつに会いに行け」って、なんて的確で優しい言葉なんだ……。優しい言葉だよ、天使からだけじゃない、幸紀はまた優しい言葉をもらったんだよ……それはすごく素敵なことだよ……。

 

 なにかを失うとあまりに悲しみが大きくなるし、与えてもらったものはその悲しみに上塗りされる。でも高科さんも幸紀も与えてもらったものを思い出せて、それはきっと一人きりじゃできないことで、気持ちを共有できるだれかがいるからこそ思い出せることで、だって独りだと与えてもらったものを思い出しても悲しくなるだけだから、でも高科さんも幸紀もちゃんと与えてもらったものを大事にしようとして……天使はたくさん与えてたんだよ……まじで天使なんだよ……。そして幸紀も天使にたくさん、たくさん与えてたんだよ……。

 

 ここまでで涙がやべーことになってるんですけど、最後の、書き下ろしの「であい」、いやどんだけ泣かしてくるの……?こんな、たった、8ページで、え……?な、なにこの書き下ろし……?え?なにが起きたのってくらいこの8ページでわたしの心が破裂したんですけど、おい、おい、わたし生きてるかっ…?ってなるんですけど。

 

 天使のTwitterのアカウントはじゅげむじゅげむ、パスワードは「ごこうのすりきれ」、あらためて「五劫のすりきれ」を調べたんですが、

天女が時折泉で水浴びをする際その泉の岩の表面が微かに擦り減り、それを繰り返して岩が無くなってしまうまでが一劫とされ、その期間はおよそ40億年。 それが5回擦り切れる、つまり永久に近いほど長い時間のこと。(Wikipedia

寿限無 - Wikipedia

 

「もっとゆっくりでもよかったのに」とか「思ったより早かった」とかつい強がりを口にしてしまう天使、本心では幸紀が長生きすればいいってもちろん願っていたはずだけど、でもやっぱり待っているあいだはさみしさがあったと思うし、だからこそ「もっと早く来ないかな」なんて思っちゃうし、それはぜんぜん悪いやつだからじゃないし、幸紀を待つ時間はそれこそ「五劫のすりきれ」くらい、永久に近いほど長い時間に感じたんじゃないかって想像する。でも、年をとった幸紀が天使のもとにやってきて、その会えなかった時間すらも大切に思っていたっていうのが天使の笑顔でわかって、ていうか幸紀の後ろ姿だけで「悪くない人生」を送ってきたんだなっていうのがばちばちに伝わってくるのなに?よくわたしの心臓かたちを保ってると思うわ。

 互いに会えない時間が永久に近い時間だったとしても、今また幸紀と天使のままの天使にこれから楽しく暮らせる時間がおとずれて、それこそがきっと永久の時間になるんだと思ったら、ああああああああああああああああ~~~~~~~~~~~もう泣きすぎて無理~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 わたしは本作品を電子書籍で買ったんですが、その特典として、書き下ろしとは別に幸紀のセリフ入りのネームが収録されていました。もちろん幸紀のセリフは想像できるからこそ天使のセリフだけでも十分に最高な仕上がりになっているんですけれども、幸紀のセリフをあらためて読んで、ほんとっああああ~~~~~~~~~~もお~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!! たのしく暮らしてくれ~~~~~~~!!!!!!!!
 ていうか第一話とこの書き下ろしのタイトルがどちらも「であい」なのがほんとうにたまらないし、QRコードのIDとパスワードが、粋すぎぃ……………倒


 とりあえず書きだすことですこしすっきりしました……まじでこういうおもしろい作品がありすぎるこの世っていったいなんなの……? 読み終わった今、たとえば「この作品を読んだから元気になった」とか「生きる希望が湧いた」とか「私も楽しく生きていこうと思う」とか、そういう気持ちはない。いやそういうことを感じる人ももちろんいると思うんだけど、わたしは単純に、天使と幸紀の物語をものすごく楽しめた、自分のことどうでもいい、こんなに純粋に作品そのものを好きになるって実は案外なくて、どうしても自分の経験とかに重ねたりとかそういうのがあると思うんだけど、わたしの入る隙間とか微塵もない、ていうか入れられない、天使と幸紀の物語でいい……。こ、こんな、こんな尊すぎるワンチャンでウィンウィンな話ほかにある?ない。

スカートと絶滅(スカートのアンソロジー/絶滅のアンソロジー)

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 アンソロジーや文芸誌など、一冊でいろんな作家の作品を愉しめるものが好きだ。もともと短編も好きだし。なんだかとても贅沢だし、お得なかんじがする。それでアンソロジーは同じテーマに対していろんな作品があつまるわけで、当たり前だけど(これが当たり前となるのもすごいんだけど)、それぞれぜんぜん違う作品がうまれるのは、やはりわくわくする。
 それで今回読んだのが、「スカートのアンソロジー」、「絶滅のアンソロジー」。

www.kobunsha.com

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 まず「絶滅」というワードにかなりこころ惹かれるものがある、わたしはSFとかディストピアとか、実はそういった破滅的(?)ジャンルが好きなので(絶滅が必ずしもそのジャンルになるわけではないが)、テーマからしてもうたまらん。そしてたくさんの可能性を秘めてはためかしてくれるスカート、あれまあ、こういう企画もっといっぱい欲しいです。
 とくに気に入った作品の感想をちょこちょこ(このほかにも作品は収録されています)。

 


スカートのアンソロジー

明けの明星商会(朝倉かすみ

高卒、短大卒、大卒の新卒で入社した同期3人の話。とはいっても現在の年齢は50歳すぎ。一番年上のコマちゃん(60歳くらい)が亡くなり、マリッコとアヤチョで形見分けをする。わたしはマリッコたちほど人生長く生きてはいないし、長く付き合っていた友人を亡くしたこともないけれど、「たかまり」のところはなんだかすごくわかる気がした。たぶん友情とひとくちに言ってもそこにはいろんな感情がそれぞれあるだろうし、たのしい思い出だけじゃなくて嫌な気持ちとかも積み重なってたりするんだろうし、そういういろいろが、そこまでのたかまりにならなかったり、マックスのたかまりを感じたりにあらわれていたりするんだろうけど、でも、いろいろあっても友だちは友だち。どうしてずっと友だちだったのかとか、理由とかもいらなくて、コマちゃんにとってはマリッコとアヤチョは明けの明星だった、ってことを知っているだけで、それでとりあえずいいよねって思った。

 

そういうことなら(佐原ひかり)

主な登場人物は3人。主人公の吉野。高校の制服の自由化がはじまり、スカートをはきはじめた吉野の彼氏の水谷。それから「リリちゃん」をいつも胸ポケットに入れている師匠(リリちゃんとは人形)。とりあえずこんな言葉を使ってしまうけれど、まあみんな「いろいろある」わけだ。ただ、男の子がスカートをはくこと、働いていない男の人が少なくとも中学生のころから同じ人形を持ち歩いていることは、まだ「ふつうとかそういうものの埒外」にある。多様性っていうけれど、そうじゃなくて、「多様性」という一言で水谷をまとめてしまうのではなくて、たぶん大切なのは「スカートをはく水谷」と「タイ米みたいな気持ち悪いゼロを書く」水谷は同じ水谷ということ。水谷や師匠、そして吉野を形成するいろんなことは対等であること。スカートをはく理由はどうでもいいけど、スカートをはこうと思った水谷のことはどうでもよくないこと。そういうことなら、というタイトルと「たましいのレシピ」にしびれる。わかってる感はいらないよね。いろんな一面が、水谷や師匠や吉野をつくっている。それでいいし、すべてを無理に知る必要もないと思う。目立つ一面があったとしても、その一面が必ずしもその人の価値を脅かすことにはならない。著作である「ブラザーズ・ブラジャー」を読んだときもそんな思いになりました。好き。

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くるくる回る(北大路公子)

ひとりで暮らす七十歳のマチコと、マチコをおれおれ詐欺から救ったナナヨ(本当は、マチコは詐欺だとわかっていたけど)。どこか地に足つかないようなマチコに、すこし不安になる。この妙な不安はなんだろ…と読んでいるときなんか心もとなかった。それはマチコの諦めとか後悔とかにずっとあてられていたからなのかなと思う。マチコはきっとナナヨを恨むことはしないんだろうけど、わたしは自分の両親にはいろいろ後悔させたくない、というかもしなにか悔いていることが今でもあるんだったら、とくに悔いる必要もないよと言いたい。

 

スカート・デンタータ(藤野可織

おもしろかった。藤野可織さんの書くとんでもない世界がいつもおもしろいです。デンダータってなんだろと思ったら、そういう民話があるんですね。スカートが牙をむいて痴漢の手首を食いちぎる。痴漢がスカートをおそれる、スカート用の歯ブラシも発売される、男性も穿くようになりもはやスカートは自衛、スカート穿いていないなんて危機管理能力なさすぎ。痴漢が最後、自分もスカートを買って自分でスカートの歯を磨くことがルーティンになる、というのにまったく同情できなくてよかった(今までは痴漢することがルーティンだった。あらためて痴漢はクソ!)

 

半身(吉川トリコ

おわーーー「半身」ってそういうこと……。「唯一絶対の正解をだれかに教えてもらいたい」というのすごくわかるし、周りの意見に同調して生きていくのはすごく楽。言いなりになっているわけじゃないけど、望まれていることを察してそのとおりの言動をしてしまう。子どもを自分の半身として扱っているんじゃなくて、自分の半身ということにしたい、子どもが望むことが自分の望むこと、ってそれはすごく綺麗な言い分だし多くの親がそうであるのかもしれないけど、きよみにとったら楽な生き方としての望みなのかなあと思った。

 

本校規定により(中島京子

学生の制服のスカート遍歴と生きてきたタメジ。わたしはスカートの下にジャージをはいた世代でした。なつかしい、そういえばみっともないって先生にも親にもよく怒られた。そして金八先生ではじめて知ったこともあった。だけどスカートをはくのがいやな人もいる、ということは知っても自分のまわりにそういうひとがいるかも、とまでは考えが及ばなかった。結局当時はドラマのなかだけの話だったけど、タメジみたいな先生がいたら、学校をもっと好きになる生徒がわたしのまわりにもたくさんいたのかもしれない。受け入れることを強要するのはむずかしいけど、想像することは当たり前になってほしいと思う(自分も含めて)。

 


絶滅のアンソロジー

 

絶滅の誕生(東山彰良

好きな話。絶滅とは、つまり滅びること、なくなること、だけど世界の誕生、それから嘘や愛、嫉妬の誕生……と絶滅とは反対の位置にある誕生を描いた話。「嫉妬は愛の腹から生まれたことになる」の一文が好き。絶滅の誕生過程にいろんなものが生まれるけど、結局絶滅が誕生して、それはつまり誕生の絶滅ということなのかも。

 

梁が落ちる(河﨑秋子)

なにか事故があったとき、スマホで写真を撮る野次馬が少なからずいる、はずなのにそういった人が一人もいない、それどころか黙祷をささげる人がいたり、ふらりと入ったラーメン屋で、なぜか先に入っていた知り合いでもない客が自分の分の会計までしてくれたり、「善良すぎる」人ばかりが出てくる話。明確な悪意が見えなくなったが、「何かが決定的にずれている。あるいは、抜き取られている」。ジェンガみたいに、工事現場の足場がとつぜん崩れるように、なにかが変わっている。かたちが見えない変化は不安になるし、その変化を拒否してもその変化には大抵否応なく巻き込まれていくもの。けれどわたしたちが今いる場所も、なにかが書き換わって変化した場所なんだと思う。
河﨑秋子さん、現在「小説TRIPPER」で「介護者D」という連載もされていて追いかけているんですがこちらもおもしろく、騒がしくなく静謐な不安をあおるような文章がとても好みです。

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〇〇しないと出られない部屋(王谷晶)

ウイルスに感染しないよう、人間が触れ合うこと、寝食をともにすることをやめて二百年ほど。感染症の研究の一環として、「謎めいた行為」であるキスの意味を探るため、ある部屋で60日間一緒に過ごすことになったDとR。研究の内容は最初の30日間は同じ空間で過ごし、互いの肉体を同質なものに近づけ、残りの30日間で徹底的に脳波や内臓器官を検査したうえでキスを行う…というもの。他人と一緒に過ごすということがすでにありえないの連続だけど、そこから互いを意識しはじめる過程を飽きることなくたのしめる。Rはツンデレ

王谷晶さん、「ババヤガの夜」もおもしろいです。

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桜を見るかい?――Do you see the cherry blossoms?(平山夢明

ああ~~~~~、桜を見るかい?って、ああ、そういうことか。笑 「ア嘘」の表記がおもしろかった(本当は嘘は反転しています。意味わかる?)。配役は置いておくとしても、完璧な人間をつくろうとするユートピアディストピアな世界において、強姦によってできた命を守ろうとするのは「桁外れに狂った」行為。でもいろいろあってみんな幸せに暮らすならいいのか、って、捨てられた命にとってはたまったもんじゃない。桜を見てる場合じゃない!!

 

 

どちらもまえがきからあとがきまで愉しい一冊になっているんですが、真藤順丈さんのあとがきにあった「物語は、小説は、あなたを絶滅させないためにあるのだ。」
かっっっっっこよ……。