今日もめくるめかない日

石けんの終わり・アンコウの一生

 2022年がはじまり三週間ほど、今年はじめて連絡をとる人に「あけましておめでとう!」とLINEをすると、「もう言わなくない?笑」という返事。そ、そうなんですか。2022年において「あけましておめでとう」はすでに死語であるらしい。それでも今年一発目のブログであるのでいいますけれども。あけましておめでとうございます。

 

 2022年のはじまりといいながら、石けんの終わりについて。
 最近、石けんをつかって体を洗っている。もともと石けんに並々ならぬこだわりがあるわけでもなく、ただたんにボディソープが切れたとき家に残っていた石けんをタイミングよく発見しただけで、むしろ「石けんで体を洗う」ということをこの人生でほとんどしたことがない。
 石けん。使ったことはあまりないけれど、とても体によさそうな響きである(そしてたしかに断固石けん派という友人もいた。その人は、あの牛の、赤い箱の石けんをたいへん推していたし、石けんによって人生がばら色になると心から信じていたもよう)。いろんなことに鈍感なわたしなので、実際今までのボディソープと石けんのなにが違うのかはよくわからないけれど、なんだろね、ボトル式のボディソープではなく石けんを使っているという、ほとばしる「ていねい」感。わたしにはほとほと無縁の「ていねい」感があるから、最近はなんだかほくほくした気持ちであった(ただその石けんが手洗い用なのか体洗い用なのか、本当はわからない)。

 

 しかし石けんが終わりかけになったとき、おや……と思う。家にあったのは、なぜか1ダースのものだったので、使っていた石けんが小さく薄くなった時点で新しいものをおろしたのだけれど、今まで使っていた石けんは、いつまで使えばいいんだろうという疑問。
 ふつうに考えたら、なくなるまで、だろうけど、終わりかけの石けんは、なんというか、力がない。泡立てようとしても薄いから、お風呂で体を洗うタオル(正式名称はわからない)にうまくごしごしできない。そうなると自然に新しいかたい石けんを使うことになるんだけれど、使われないまま中途半端に小さく薄くなった石けんがどうしても視界のはしでちらつく……。
 それなら新しい石けんに今まで使っていた石けんをなんとかこすりあわせて、合体させてやると思うんだけれども、深海に棲むアンコウのオスの姿が思い出されて手が止まる。アンコウは、生殖のためにオスがメスの体に噛みついて、なんとそのまま皮膚がメスの体に吸収され一体化するという。なんとも、あわわ……である。手元の石けんの大小も、まさにオスとメスの体格差にさえ思えてきて、いわんや切ない。
 そういうわけで、わたしの家の風呂場には、泡立てることもむずかしくなった小さい石けんがただ置かれている。そのうち今使っている石けんも同じような大きさになるはずなので、このままいくと新しいものをおろし、小さくなった石けんがまた増え、新しいものをおろし、小さくなった石けんがまた増え……と終わるに終われぬ石けんの一生が並べられていくのは想像に難くない。

 

 ちなみにアンコウのオスはメスと同化したあと、眼も内蔵も退化し(メスから栄養をもらうから)、精巣だけを残して生きてゆくのだという。精子もすべて放出してしまえば、あとにはなにが残るのだろう……。「自分」という感覚はあるのだろうか、動いている実感はあるのだろうか。メスは、自分以外の生き物が自分の体にくっついている、という認識があるんだろうか……。
 そういうことを思いながら小さくなった石けんをみる。あまり泡立たないけれど、アンコウの一生をおもいながら、この終わりかけの石けんを、終わりまで使うと誓う。足の指のあいだとか、おへそとか、手で泡立ててそういうところを洗うことにする。いくら薄くなろうとも、石けんとして認識しつづける、と決めた2022年のはじめ。

 

toyokeizai.net

「個性」が欲しくてしかたがなかったころ

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 投稿するということはまったくなくなったけれど、ときどき思い立ってFacebookを開くことがある。するとたいていの確率で、「○年前の思い出です!」というポップアップが、自分が投稿した写真とともに表示される。そこに写っているのはたしかに自分なんだけれど、まったくの別人のようにもみえる。

 なんだか目がきらきらしているし、肌のハリもよいみたい(当時の写真だから画像は荒いのに、肌がきれいにみえる謎)。そして今だったらぜったいにしないようなポーズをしている(舌とか出しちゃったり、目線をわざとはずしたり、頭の上でピースしていたり。なんだそのポーズは)。未知なる自信にあふれているよう。そういえばこのときは、「個性的に」「自分らしく」生きるということに必死になっていたし、そんな自分にこそ価値があるのだと信じていた。


 個性的、自分らしさ、唯一無二のアイデンティティ、独特、奇抜、などなど。十八くらいから二十代前半だろうか、「個性を大事にせよ」という教えがどこからともなくやってきて即座に蔓延、無個性というレッテルを一度貼られてしまうと、「個性的」というなにやら曖昧で厄介な、しかし多大なる支持を得る呪いに押し潰され、なんてつまらぬ人生を送っているのかと嘆かれた。
 個性的であるとか自分らしいであるとか、そういったものが苦手で仕方がなかった。だって個性って結局なによ。自分らしさとは? これを聞かれるのは趣味を聞かれることと似ている。趣味をすっと答えられてそこから話が盛り上がる人は本当にコミュニケーションの鬼。
 わたしは「趣味は?」と聞かれたらなにも答えられない人間だった。趣味、ない。人に堂々と「趣味です!」と言えるほど夢中になれるものがなかった。読書は当時から好きだったけど、なんとなく言えなかった。面倒な性格ゆえ読書が趣味と言えるほどの読書量じゃないとかそのときは考えていたし、仮に読書が趣味と言ってその場が盛り上がったことは皆無。そうなると「えーと......まあ、いろいろ......」とかまったく答えになっていないことをぶつぶつ言ってその場を白けさせることが多かった。

「料理が趣味」「映画が趣味」「ライブに行くのが趣味」「サーフィンが趣味」「カラオケが趣味」「勉強が趣味」はたまた「読書が趣味」......なんでもいいけれど、趣味と言うからにはどんな質問にも堂々と迷いなくばばんと答えられる、気になることがあるのならなんでも聞いておくんなまし、という態度を取れる人だけが「趣味は〇〇」と明言してもいい、という考えがあった。なにか質問をされたとして、それに答えられなかったらどうしようという不安も相まって、ゆいいつ趣味といってもいい読書というのも口にできなかったのだ。
 そんな感じでのらりくらり趣味を答えずにいると、まわりからは「あ、そうなんだ。早く趣味が見つかるといいね」と同情的なお言葉。さも趣味がないなんて人生損してる、という物言いに、趣味って必ず持っていたほうがいいの?と思ったことは数知れず。たしかに趣味は海外旅行なんぞ言っている人たちはとても充実した人生を送っていそう。行動的な人も尊敬する。でも、「趣味は持っていたほうがいい」というあの押しつけがましい感じが、どうしても嫌だった。だからこそわたしはますます趣味を言えなくなった。だってたとえば「寝るのが趣味です!  24時間ずっと寝ていたい! ごろごろしていたい!」と言ったとしても、「あ、そうなんだ、はやく本当の趣味が見つかるといいね」とさとされるのが関の山。本当の趣味ってなんじゃい。いいじゃないか、寝るのが趣味だって。なかには「無個性っていうのもひとつの個性だよね」とか言ってくる人もいた。

 で、でた。無個性っていうのもひとつの個性論。趣味が言えない=無個性にするのもゆるせなかったし、なんなんだ、 あの無理やり個性を見出そうとしてくる感じは。趣味があるない問題と似ていると感じたのは、「個性って必ず持っていたほうがいいの?」という疑問が生まれるからだった。

 

 そもそも個性とはなにか。Wikipediaによると、特有とか持ち味とかいうもの。無理やり形成するものではなく、備わっているもの。というか生きてるあんたがもう個性。それだけで個性。だってわたしたちみんな、「個」ですもの……と思うのだけど、どうもそうとはいえない雰囲気が。

 たとえばわたしは人見知りで小心者である。それも概念から言えば個性のはずだが、実際「ああ、そういうのも個性だよね」とか妙なしたり顔で言われることもしばしば。そのたびにインドアネガティブ人間のわたしは光属性の個性に対して引け目を感じ、「ケッ、な〜にが個性的で素敵な人じゃい。ただ髪を赤くしてるだけだろがい」と心のなかでめちゃくちゃ悪口を言っていた。

 しかし十代から二十代前半、影響されやすく流されやすいわたしに、確固たる「個性」がないと、まわりの「個性」に押し潰される!という窮屈な思考が誕生した。 個性に引け目を感じていたけれど、「個性がない、フツウの人」と思われることのほうが苦痛だった。


 わたしの個性はいったいいずこといわゆる「自分探しの旅」ではないけれど、自分が好きなものを見つけにゆこうと行動するが、さすがはインドアネガティブ人間。探しにいったのは八王子市中(当時そのあたりに住んでいたから)。八王子で自分が見つかるかい。しかしわたしは田舎からの上京組、ちょびっと変わったものでもあればOKでしょ!てなかんじで出会った小さな古着屋で自分をさっそく発見(時間をかけるのが面倒だったのだろう)。「古着を着こなす自分って、かっこいいじゃんかわいいじゃん」ということで、サブカル方面に自分を探しに行った。
 サブカル方面に狙いを定めしたことといえば、まわりがnon-noやmina、SWEETなどを読むなか、ZipperやFRUiTS、CHOKi CHOKi、TOKYO GRAFFITIなど「ちょっと違う雑誌」を読むこと。ライダースジャケットに甘かわ白ブラウスにごっついブーツとか履いちゃうこと。ヴィレッジヴァンガードに通うこと(はじめてこの店に入ったときは、東京スゲェ…と心酔した)。彼氏にフラれて煙草を吸いはじめること(ベランダなどに出て、空を見上げながら煙を吐いていた…か〜っ!しかもセブンスター。ベタベタのベタである)。浅野いにおの漫画を集めること。音楽CDはすべてヴィレヴァンで購入すること。髪を赤く染めること(結局である。しかし思い通りの色にはならなかった)。おしゃれな洋画を探すこと(TSUTAYAでいろいろ借りた記憶はあるが、覚えているのはアメリペーパームーンだけ)。高円寺や下北沢、裏原などに行ってみること(竹下通りではなく裏原というのが重要だった。なにをするわけでもなかったのに緊張した)。カラオケでLove PsychedelicoやEGO-WRAPPIN'を悦に入りながら熱唱すること。なんだか動悸が激しくなってきた。でもあのころのファッションや読んだ漫画、観た映画、音楽、やっぱり今でもいいと思う。だから出会えたことはとてもよかった。ただ当時のことを思い出すと動悸が止まらない。こんなことでサブカル気取っていた自分......大丈夫大丈夫、かわいいよ!


 友達に誘われ、古着屋で買ったオーバーオールを着て六本木のクラブに行ったときも「まわりとは違うわたし」にご満悦。それもトランスのクラブだった。当時の交友関係謎すぎる。まわりがトイレにこもったり持ち帰ったりなどなにやら乱れも飛び交うなか、声もかけられず500円のオーバーオールで朝までひとりへっぽこな踊りをしていたわたし。それでも「自分」を持った気でいたので、むしろそれも個性だと糧になった。もはやなにかのお化け。
 そしてこれまた友達に誘われ、新宿歌舞伎町のホストクラブに行ったときも(例によってオーバーオール)、「なんかホストに来そうな子じゃないね」と言われて「わたし、人とは違いますから!!!」とご満悦(いったいなにが違うというのか)。思いっきり「わたしは付き添いで来ただけなので、ホストには興味ありませんので、つん!」というような態度を取っていた。嫌な客すぎる。当時接客してくれたホストたち、ごめんなさい。本当は楽しかったです。

 

 しかしわたしの「個性」はなんだか中途半端だった。好きな映画はアメリと答えておけば間違いなしと思っているようなところとか、趣味は古着屋や雑貨屋巡り(巡りってそもそもなに?)とドキドキしながら答えていたところとか。しかもバイトばかりしていたので(短大生だったとき、朝コンビニ、空き時間にコールセンター、夜は居酒屋と苦学生かといくらい働いていた。個性.....)、いったいサブカルおしゃれを目指したいのか、働きマンを目指したいのか、学校を無事卒業したいのか、夢ってなんなのか......みたいな感じだった。
 あのころ、必死に「個性的な自分」になりたかった。まわりにフツウと思われたくなかった。フツウと思われることは、若者のあいだで落第生だった。わたしが勝手に思っていただけかもしれないけれど。ただとにかく、「自分にしかないもの」を手に入れたかった。
 個性的だと思われたいという理由で個性を手に入れようとしているのだから、もちろんその個性はハリボテだった。その証拠にそんなに時間が経たないうちに、「え、あった? そんなのわたしのなかにあったのん.....?」という具合にサブカル個性は消滅。大人になるにつれ苦痛で仕方がなかった、いわゆる無個性になるが、なぜか今はそちらのほうが安心する。人と同調しているほうが、ほっとする。出る杭は打たれる、と思っているのかもしれない(出るほどの杭があるかどうかは置いておいて)。個性の呪いはいつのまにか解け、それは多分だけど、まわりが「まわりと同じ」になっていったから。
 尖って見えていたみんなの個性はどんどん丸みを帯びていき、集団、社会に溶け込んでいった。あのころ「個性的」と言われていた人も、いろんな投稿に埋もれてタイムラインの奥に消えていく。けれどわたしのタイムラインから消えたとしても、そこにはたしかにその人がいて、つまり個があって、会話があって、思想があるのだよな、と当たり前のことを思う。


 個性的、自分らしさなんてものはくそくらえだよと、当時の自分に言えるなら言いたい(たぶん聞く耳を持たないだろうけれど)。欲しくてしかたがなかった個性、個性的と言われるほど価値があると思っていた自分。けれどわたしはずっとフツウだった。そしてずっとわたしだった。今のわたしに「自分にしかないもの」があるとは思えないけれど、これから見つかるかもしれない。やっぱり見つからないかもしれない。けれどそれでも無価値ではないよと、せめてそれだけは自分に言い聞かせてゆきたい。



とてもよかった本15冊(2021年)

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写真はとくに内容とは関係ないです



 2021年も残すところあと二週間ほど、今年は本当にどこにも行かず、仕事をするか家で寝てるか本を読んでいるか、という感じだった。なのでここ数年のあいだでは、いちばん読書量が多い年だったように思う。そんなわけなので、今年読んでとてもよかった本をまとめました(ほとんど小説です)。基本わたしは読んだ本に対して「すげー!おもしれー!」と感じるし、話がもし合わなくても「この一節がちょう好き…」となったりして、そうそう「つまらない」と思うことはないんですが、そのなかでもとくによかったなと思う作品たちです。読んだ順です。

 

少年アリス・改造版 少年アリス長野まゆみ

www.kawade.co.jp

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改造版 少年アリス :長野 まゆみ|河出書房新社

 続けて二冊読み、どちらもほんとう~~~~によかった。作品内の言葉づかい(本当に言葉づかいとしか言えない…)は、改造前のほうが好きなんですが(漢字の使い方とか、読ませ方とか、組み合わせ方とか、とにかく最高だった)、全体的な話の内容は改造版のほうが好きです。アリスと蜜蜂をより身近に感じられた気がします。蜜蜂は今年のトップ3に入るいとしい男の子です。

 

文藝2021春号

www.fujisan.co.jp

 文藝は今のところ毎号買っているのですが、何を隠そう「ディストピア」というものが大好物なので、ディストピア特集であるこの号はたいへん楽しみました。そして特集関係なく、掲載作品どれもほんとうに、ぜんぶおもしろかった……。かなり豪華な号でした。残念ながら売り切れのようです(版元においては残念じゃないですね)。ディストピアアンソロジーとか出してほしいな……。

 

コンジュジ/木崎みつ子

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コンジュジ/木崎 みつ子 | 集英社の本 公式

 何回か紹介している気もしますが何度でも紹介する……。読んだときの衝撃たるや、しんどい場面の連続に息切れを起こしそうになるのに、読み進める手がまったく止まらず。帯にもありますがラストシーンが悲しくうつくしい、このうつくしさはとても残酷に感じます。読み返したいときは(つらくなるので)すごく元気なときにしようと決めています。ちなみにわたしは川上未映子さんが大好きなのですが、こちらの対談を読んでこの本を買おうと決めました。

www.bungei.shueisha.co.jp

 

レースの村/片島麦子

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『レースの村』 片島麦子|日本文学|書籍|書肆侃侃房

 一行読んだらもうとりこ、日常と隣り合わせにある不穏さを感じさせてくれると思っていたら、ささやかに幸福も感じられる短編集。「幽霊番」がとくに好きで、けっこうぞくぞくと背筋が凍る系で、とくに知らない田舎のあの独特な雰囲気が、文をとおしてめちゃくちゃに伝わってきて、不気味さがくせになります。こちらの作品は前に感想を書きました。

 

スモールワールズ/一穂ミチ

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『スモールワールズ』(一穂 ミチ)|講談社BOOK倶楽部

 もはや説明不要の短編集ですね。本当にどの話もおもしろかったし「ヒョエー!ウワー!」の連続だった。なかでもわたしは「愛を適量」が好きです。許されないところ(だけど少しだけ許している気がするところ)がよかった。あとは多くの人がそうだと思うのですが「ピクニック」で度肝を抜かれた。あと「ネオンテトラ」でも度肝どころか魂抜かれた。「魔王の帰還」もいとしいし、「花うた」「式日」は胸がつまった。全部いいね。

 

ブラザーズ・ブラジャー/佐原ひかり

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ブラザーズ・ブラジャー :佐原 ひかり|河出書房新社

 この作品についてはこの記事で語りつくしたと思っていたけれど、まだまだぜんぜん話せるね……。さわやかな十代の青春小説、けれど大人こそこの作品を読んだらいろんなことに対して他人事でいられないと思う。わかっていたつもりのことに、ぶん殴られる気持ちです。人を推し量ろうとしたり、推し量られたりするときにその実ぜんぜん量りきれてないことはたくさんあるよなとあらためて。むりに推し量ることも必要ないんだけれど。あと晴彦は今年のトップ3に入るいとしい男の子です(二人目)。

 

クララとお日さま/カズオ・イシグロ

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クララとお日さま | 種類,単行本 | ハヤカワ・オンライン

 この作品のことを思い出すとたちまちせつな愛しい気持ちになります。クララはほんとうに、愛すべき存在……。クララのことはずっと忘れたくない……。もしこれから読むというひと、今からはじめてクララに会えるのがうらやましいです。何度読み返しても色あせない作品だとは思うけれど、やっぱりはじめて出会うときの気持ちは代えがたいものだと思うので、ぜひぜひ。こちらで感想書きました。

 

kaze no tanbun 夕暮れの草の冠

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kaze no tanbun 夕暮れの草の冠(一般書/単行本/日本文学、評論、随筆、その他/) 柏書房株式会社

 どの短文もたいへんたのしめて、とても上質な時間を過ごせる一冊! 本棚にあるだけでとくべつに感じるこの装丁もいやはや……見惚れる。ずっとさわっていられるし眺めていられる。そしてとにかく「ペリカン」との出会い……私にとってちょっと忘れられない出会いです。こちらで感想書きました。

 

みじかい髪も長い髪も炎/平岡直子

www.honamisyoten.com

 歌集。切なくやさしいかんじがとてもよかった……。

手をつなげば一羽の鳥になることも知らずに冬の散歩だなんて

 

天の川はうちに作れる畳の上に一円玉を敷き詰めるだけ

 

絵葉書の菖蒲園にも夜があり菖蒲園にも一月がある

 

めをとじて この瞬間に死んでいく人がいるのを嘘だと思う

 

本阿弥書店刊 平岡直子 みじかい髪も長い髪も炎

「手をつなげば一羽の鳥になる」……!? 読んだとき「ほ、ほんとうだ……!」と気づいて興奮したし、一円玉を敷き詰めるだけで天の川をつくれるっていうのも「ほ、ほんとうだ……!」だし、絵葉書の菖蒲園にも夜があり一月がありって、「ほ、ほんとうだ……」だし、この瞬間に死んでいく人がいるのを嘘だと思いたい。繰り返してるだけじゃないかと思われそうですが、だって、それ以外に言えない。この歌集を読むまで知らなかったことがたくさんあった。

 

恋シタイヨウ系/雪舟えま

www.chuko.co.jp

 今年はわたし、雪舟イヤーだったので、出会えたことに心の底から感謝しているので……本当にどの雪舟作品を読んでも「最高……好き……」しか出てこないので……ちなみに今年のトップ3に入るいとしい男の子の最後の二人がミドリとタテです。最大限の感謝と愛と読めた喜びを詰めまくった感想

 

手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)/穂村弘

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手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ) | 小学館

 読んでいるときは、ちょっとなにが起きたのかわからなくなる歌集。な、何事……!?というかんじです。なに言ってるんだ……と思った人は、読んだらきっとわかるから……まみは上記で紹介した雪舟えまさんがモデルになっているとのことですが、そのまみが穂村弘さんにのりうつっているという、なんかもうとにかく衝撃たるや。

恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死

 

残酷に恋が終わって、世界ではつけまつげの需要がまたひとつ

 

早く速く生きてるうちに愛という言葉を使ってみたい、焦るわ

 

午前四時半の私を抱きしめてくれるドーナツショップがないの

 

夜が宇宙とつながりやすいことをさしひいても途方にくれすぎるわね

 

手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ) | 小学館

  よすぎて圧倒的感謝しか出てこない……。

 

アンソーシャル ディスタンス/金原ひとみ

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金原ひとみ 『アンソーシャル ディスタンス』 | 新潮社

 きた、きた~~~!!これからもずっとついていくぜ~~~!!!と思わせてくれる作品集。短編集で、どの作品も最後の一文にやられます。断言します、やられます。感想ここで書きました(けっこう長い)

 

偶然の聖地/宮内悠介

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『偶然の聖地』(宮内 悠介):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部

 べらぼうにおもしろいエンターテイメント冒険小説。どこを切り取っても(切り取る必要ないんだけど)おもしろい、こんなに「おもしろい」という言葉がぴったりな小説ってそうそうないと思います。感想書きました

 

同志少女よ、敵を撃て/逢坂冬馬

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同志少女よ、敵を撃て | 種類,単行本 | ハヤカワ・オンライン

 こちらももはや説明不要ですね……。これから読まれる方も多いと思いますが、なにもかもに撃ち抜かれてください。わたしはアヤが好きです。アヤが好きです。二回言う。本当は何十回でも言いたい。あの場面の衝撃、読んで時間がたっていますがいまだに頭に残っています。個人的にはラストシーンよりあのシーンがいちばんの衝撃(もちろんラストシーンもものすごい衝撃だった)。寝食忘れて読みふけることのできる一冊。怒涛の展開に息切れするし(でも立ち止まれない!)、かなしくつらい場面ではぼろぼろ涙がこぼれて止まらなかった。

 

凍土二人行黒スープ付き/雪舟えま

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筑摩書房 凍土二人行黒スープ付き / 雪舟えま 著

 繰り返しますがわたし今年は雪舟イヤーでしたので……。なんですかこの愛しさを詰めまくった作品たち……。雪舟作品の好きなところは、(わたしにとって)「サムイ会話」というのがなくて、すごく自然というか、SFなんだけれど日常と地続きで、だからいろんなことを身近に感じられたり、でもロマンチックな夢も見れたり、とにかく最高です。好き。

 

 今年はこんなかんじでした、冊数主義ではぜんぜんないですが、アプリによると130冊も読んでいた! 読んだね!紹介してもらった本もたくさんありました、ありがとうございました。

 

冬に読みたい小説など

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 十二月である!
 寒いのはとても苦手だ。起きるのもつらいし寒いというだけで元気がなくなってしまう。けれど、冬に読みたくなる小説をさがしてみれば、寒さも愛しくなるのではないかと思ってまとめてみることにした。べつに夏に読んだっていいのだけれど、読書は読んでいるときの環境も大事だよね。順不同です。

 


すべて真夜中の恋人たち/川上未映子

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『すべて真夜中の恋人たち』(川上 未映子):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部

「真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う」。わたしは、人と言葉を交わしたりすることにさえ自信がもてない。誰もいない部屋で校正の仕事をする、そんな日々のなかで三束さんにであった――。芥川賞作家が描く究極の恋愛は、心迷うすべての人にかけがえのない光を教えてくれる。渾身の長編小説。

『すべて真夜中の恋人たち』(川上 未映子):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部

 人付き合いが苦手で、いろんなことが不器用な主人公冬子と、なにを考えているのかつかめない三束さんの恋愛小説。せつないというよりさびしいと感じるお話です。冬の真夜中ってさびしくてとてもうつくしいのだよね…。表紙もとても素敵。


凍土二人行黒スープ付き/雪舟えま

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筑摩書房 凍土二人行黒スープ付き / 雪舟えま 著

近未来の、とある寒冷地。〈家読み〉のシガは逃亡クローンのナガノと出会う。独特の感性で注目の歌人・小説家が放つ異世界紀行譚。

筑摩書房 凍土二人行黒スープ付き / 雪舟えま 著

 とある寒い星で繰り広げられるいろんな愛の短編集。だれかとだれかが出会うって、なんて愛しいのでしょう…。作品のひとつでは、季節は冬ではなく、「冥」と呼ばれていて、徐冥、真冥などで季節が移り変わってゆくのです。これだけでもうたまらないよね。寒さって、もしかしてすごくいいものなんじゃない…?と思った。シガとナガノの表紙が最高です。


みずうみ/よしもとばなな

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大好きなママが、パパとの自由な恋をつらぬいてこの世を去った。ひとりぼっちになったいま、ちひろがいちばん大切に思うのは、幼児教室の庭に描く壁画と、か弱い身体では支えきれない心の重荷に苦しむ中島くんのことだ。ある日中島くんは、懐かしい友だちが住む、静かなみずうみのほとりの一軒家へと出かけようとちひろを誘うのだが……。魂に深手を負った人々を癒す再生の物語。

よしもとばなな 『みずうみ』 | 新潮社

 話のなかでは「冬!」って感じではないのだけど(明確に季節は出ていなかったと思う)、でも冬に読みたい。表紙のイメージも強い。繊細で臆病でも、だれかと一緒にいたいとか話を聞いてあげたいとか聞いてほしいとか、そういう気持ちを感じ取れるのはやっぱり夏より冬のほうが濃いと思う。


ざらざら/川上弘美

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川上弘美 『ざらざら』 | 新潮社

風の吹くまま和史に連れられ、なぜか奈良で鹿にえさをやっているあたし(「ラジオの夏」)。こたつを囲みおだをあげ、お正月が終わってからお正月ごっこをしているヒマな秋菜と恒美とバンちゃん(「ざらざら」)。恋はそんな場所にもお構いなしに現れて、それぞれに軽く無茶をさせたりして、やがて消えていく。おかしくも愛おしい恋する時間の豊かさを、柔らかに綴る23の物語のきらめき。

川上弘美 『ざらざら』 | 新潮社

 短編集。とくに表題の「ざらざら」はお正月すぎ、仕事がはじまる前日に読みたい。それで休みを惜しく感じて、でも「よし、人に会いに行くか」などと思ったりしたい。

 

星の子/今村夏子

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朝日新聞出版 最新刊行物:文庫:星の子

ちひろは中学3年生。病弱だった娘を救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込み、その信仰が家族の形をゆがめていく。野間文芸新人賞を受賞し本屋大賞にもノミネートされた、芥川賞作家のもうひとつの代表作。
《巻末対談・小川洋子

朝日新聞出版 最新刊行物:文庫:星の子

 一度読んだらちょっと忘れられない印象的なラストシーン。あの場面だけでも、冬の切なさ、きれいさ、残酷さ、などが詰め込まれている気がする。あとやっぱり表紙のイメージが冬(自分のセンス、わかりやすいなと思う)。また、小川洋子さんとの対談もとてもよかったです。


雪ひらく/小池真理子

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愛する術も、思い切る術も、ひとりで生きる術も識っている。だからこそ……。女たちの心が胸に迫る、小池真理子の恋愛作品集第3弾

文春文庫『雪ひらく』小池真理子 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS

 短編集。表題の「雪ひらく」は恋にやぶれた聡子が父のいる実家に帰ってきて、新年を迎える……というような話なんですが、ひとりでぼうっとテレビを観ながら大晦日の夜を過ごしている場面が印象的です。年明けまでの、ゆく年くる年を観ているときのような静かな時間。


岸辺の旅/湯本香樹実

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文春文庫『岸辺の旅』湯本香樹実 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS

あまりにも美しく、哀しくつよい傑作長篇小説
なにものも分かつことのできない愛がある。時も、死さえも――ミリオンセラー『夏の庭』、名作絵本『くまとやまねこ』の著者が描く珠玉の物語

文春文庫『岸辺の旅』湯本香樹実 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS

 三年前にいなくなった夫が突然家に帰ってくる、というところからはじまる話。ただ夫は、自分の体は蟹に喰われたという。こちらも明確には季節は書かれていないと思うんですが(たぶん晩秋から冬のはじまりくらいなのかなあと思っている)、最初から最後までただよう不安定さは、夏よりも冬に読むほうが没入できる。海とかみずうみとかが出てくる話だと、冬のイメージに直結しがちなのかもしれない。

 

薄情/絲山秋子

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絲山秋子 『薄情』 | 新潮社

地方都市に暮らす宇田川静生は、他者への深入りを避け日々をやり過ごしてきた。だが、高校時代の後輩女子・蜂須賀との再会や、東京から移住した木工職人・鹿谷さんとの交流を通し、徐々に考えを改めていく。そしてある日、決定的な事件が起き――。季節の移り変わりとともに揺れ動く主人公の内面。世間の本質を映し出す、共感必至の傑作長編。

絲山秋子 『薄情』 | 新潮社

 舞台は群馬県高崎市あたりの地方都市。話のなかの季節は冬なので、たいてい雪が降っていて読んでいると寒くなる。ままならなさとか、うまくいかない人付き合いとか、自分の評判とか、あたたかくないものが淡々と描かれていくので、より寒い。色鮮やかではないけど、冬は、名前のつけられない多くのものが残されていく季節だなあと思う。

 

キリンの子 鳥居歌集/鳥居

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「キリンの子 鳥居歌集」 鳥居[ノンフィクション] - KADOKAWA

歌があるから、生きられた――マスコミで話題沸騰の女性歌人、初の歌集
目の前での母の自殺、小学校中退、施設での虐待、ホームレス生活。拾った新聞で字を覚え、短歌に出会って生きのびた天涯孤独のセーラー服歌人の初歌集。解説:吉川宏志いとうせいこう氏&大口玲子氏(歌人)推薦。

「キリンの子 鳥居歌集」 鳥居[ノンフィクション] - KADOKAWA

 歌集。つらくなるものも多いですが、それでも出会えてよかったと思える一冊です。

水槽の魚のように粉雪を見ている家に帰れぬ友と


ほんとうの名前を持つゆえこの猫はどんな名で呼ばれても振り向く

(キリンの子 鳥居歌集)


同志少女よ、敵を撃て/逢坂冬馬

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同志少女よ、敵を撃て | 種類,単行本 | ハヤカワ・オンライン

第11回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作。独ソ戦、女性だけの狙撃小隊がたどる生と死。
独ソ戦が激化する1942年、モスクワ近郊の農村に暮らす少女セラフィマの日常は、突如として奪われた。急襲したドイツ軍によって、母親のエカチェリーナほか村人たちが惨殺されたのだ。自らも射殺される寸前、セラフィマは赤軍の女性兵士イリーナに救われる。「戦いたいか、死にたいか」――そう問われた彼女は、イリーナが教官を務める訓練学校で一流の狙撃兵になることを決意する。母を撃ったドイツ人狙撃手と、母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために……。同じ境遇で家族を喪い、戦うことを選んだ女性狙撃兵たちとともに訓練を重ねたセラフィマは、やがて独ソ戦の決定的な転換点となるスターリングラードの前線へと向かう。おびただしい死の果てに、彼女が目にした“真の敵"とは?

同志少女よ、敵を撃て | 種類,単行本 | ハヤカワ・オンライン

 言わずもがな……という感じもしますが、やっぱり夏より冬に読みたい。本当に圧倒されるのでみなさまぜひ…。

 

私の男/桜庭一樹

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文春文庫『私の男』桜庭一樹 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS

堕ちていく幸福を描いた衝撃の直木賞受賞作
狂気にみちた愛のもとでは善と悪の境もない。暗い北の海から逃げてきた父と娘の過去を、美しく力強い筆致で抉りだす著者の真骨頂

文春文庫『私の男』桜庭一樹 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS

 この爽やかさの一切ない仄暗い小説はやはり冬が似合う……。多くの人が寝静まった夜にひっそり夜通し読んでそのまま寝てあやしげな夢でも見たい。

 

 
 おそらくまだまだあるとは思いますが、ぱっと浮かんだのはこのあたり。冬のおすすめあったら教えてください。これから来る冬にそなえて、「フーン、冬も案外いい季節ジャン」と思って乗り切りたいです。

 

 

「麦」について

 以前、「折について」という記事で折ということばのヤバさについて語ったけれど、わたしはまたとんでもないことばを発見してしまった。それは……「麦」……。麦……。ヒィ~~~!


 なんといっても麦は字が書きやすい。

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 バランスが絶妙。たとえば書きづらい字といえば、「国」とか「西」とか「四」とかがある。つまり口があることによって全体のバランスがおかしくなるんだけれども、「麦」は柔軟。風にそよいでいる感じがする。下手に書こうとしても下手にならない(気がする)。なんでも受け入れてくれる。「国」「西」「四」はなんか閉鎖的すぎる。麦、推せる……。

 さらに「むぎ」という響きがこれまた憎らしい。「むぎ」て……かわいすぎか…? なにしろ「む」がすでにヤバイ。む、かわいい。なんなんだその、丸い部分は。

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 そして「麦」を画像検索してみてほしい。心が…意味わからんくらいやすらぐ……。田舎のおばあちゃんに会いたい……(実家にはとくに麦畑とかないけど……)。

www.google.com

 

 麦がつく名前にも超あこがれている。リアル名前に麦がつく知り合いはいないけど(もしいたら嫉妬のあまり狂っていただろう…うらやましすぎる)、作家の名前だったりインターネット上の名前だったり漫画や小説に出てきたり、最近では「花束みたいな恋をした」の主人公が「麦」って名前だったらしいじゃないか……。わたしまだ観ていないけれど、とりあえず胸きゅんキラキラときめき映画じゃないことだけは知ってる。でも菅田将暉さんが「麦」という男の子を演じているという事実だけでわたしはもうダメだ……。なんかもうすべてがうらやましい。麦って名前が似合うのうらやましい。アルファベットで書いたら「mugi」?かわいすぎか?

 

 麦といえば、「冷や麦」のヤバさもつねづね感じている。素麺と冷や麦の違いはその麺の細さにあるようだけど、正直わたしはどっちがどっちだかわからん。でも、「今日のお昼は素麺を食べた」というより「今日のお昼は冷や麦を食べた」というほうが、だんぜんカッコイイ。冷や麦ということばを覚えたてのころは、素麺を食べたくせに「今日冷や麦食べた」とかしれっと嘘ついていた。あと「蕎麦」で「そば」って読ませるの卑怯すぎない?かわいさとかっこよさを兼ね備えた「麦」…おまえなんなん……。「むぎ」でかわいさアピールしながら「ば」「ばく」とも読ませワイルドアピールですか。

 

 あと「小麦粉」、おまえ……。だいたい「小麦」っていうのがまずもってヤバイ。自分の名前が小麦だったらって今少し妄想してみたけどヤバイたのしすぎる。好きなひとに「こむぎ」とか「むぎちゃん」とか呼ばれてみたかった。でもおそらく実現しないので、とりえあず小麦粉のことを調べてみた。

 小麦を挽いて作った穀粉である。主に食用で利用されており、うどん、パン、パスタ、ケーキなど、様々な食品の材料として使用されている。

小麦粉 - Wikipedia

 こんなかわいい名前してなんでもできるなおまえ……。万能……。

 

 さらに「歴史」の項を見てみた。

古代エジプトの壁画にも小麦の収穫の模様が描かれるほど、人類と小麦の歴史は古く、人類初の作物のひとつとされる。

小麦粉 - Wikipedia

 小麦ヤバ。


 せっかく筆名を用意しているのに、なぜ自分の名前に「麦」をつけなかったのか後悔もしている(今さら…)。そこで「折」と「麦」を組み合わせた名前とか激ヤバなんじゃないかと思って、今すこし考えてみた。
・折原麦
・折田麦
・折崎麦
・折谷麦
・伊折麦

 だ、だれだおめぇ……。ちなみに「折」がつく名字を検索したらまたそのヤバさにぶっ飛びそうになったのでここらへんでやめておきます。いつか自分で「折原麦」か「折原小麦」という主人公の小説を書こうと思います。

 

kakijun.com

hana-koi.jp

 

 

 

ブレークポイント設定!デバッグスタート!(偶然の聖地/宮内悠介)

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 パーカーのフードを深くかぶって、伸ばしっぱなしの前髪からときおり見せる鋭い目、それじゃあ視力低下待ったなし、というくらいの真っ暗な部屋で、パソコンのモニターだけが青白く(あるいは黄緑色とかに)光っていたりして、そのモニターの前でなんかぶつぶつつぶやきながら(ここは…そうか、いや違う……ああオーケーそういうことか、的な)、キーボードかたかたかたかたかたかたかたかた……エンターキー!ターン!!!みたいなシチュエーション、「目立たないあいつが実は天才ハッカーだった」という設定にわたしはすこぶる興奮する。
 そういう、中2的なアレな心をくすぐってきたり、しかし極上エンターテイメントともいえる冒険譚に少年のように(中2ではなく)わくわくできたり、なんかバックパック背負って海外旅行に行きたくなったり(三駅先の町に行くのも面倒くさがるくせに!)、とにかくいろんな「おもしろさ」が詰め込まれたとんでもない一冊を読んだ。おもしろすぎる。おもしろすぎて途中何度もひっくり返った。

bookclub.kodansha.co.jp

 地図にはない、検索にも出てこない架空の山「イシュクト山」。それぞれの理由でその山をめざす四組の冒険譚。主要人物は全部で八人だ。
 まずアメリカに住む十九歳の怜威。失踪した祖父に隠し子がいたことが判明、その子どもが「イシュクト」にいるのだということを弁護士に聞かされる。どうにも信じられない話だけれども、現地に行って確かめてみようと友人のジョンとともに怜威はイシュクトへ向けて旅立とうとする(夏休みだった)。しかしだれもイシュクトへの道を知らない……が、ユーチューバーとしてゲーム実況配信をしていた父勇一の動画視聴者に情報提供され、イシュクト山へ行ったことのある人を教えてもらい、テレビ通話で情報を入手。そしてバックパッカーであったジョンとともにイシュクト山をめざしパキスタンへ出発する。

 そして実際にイシュクト山へ行ったことがあるというティト・アルリスビエタ。この人が怜威にイシュクト山の情報を提供した人である。イシュクト山は地図にのっていないので、さまざまな偶然が起こることによってたどりつける場所。昔ウルディンという相棒といろんな国を旅していたティトは、パキスタンのギルギットという都市にて偶然出会ったレタとフアナという旅行者とイシュクト山に登頂することになる。イシュクト山はのぼった人の願いを叶えるが、かわり大事なものを失う山とされていて、ティトは相棒のウルディンを滑落により失ったかわりにたくさんの成功を得て、レタは片足を失ったかわりにフアナの肩に触れられた(肩?ってなると思うけど詳しくは作品読んで!)。それから長い月日が経つが、運命を捻じ曲げるため、ティトとレタは再びイシュクト山をめざし出発する。

 怜威が出発したあと、なんと怜威の部屋から謎のミイラ遺体が発見される。刑事ルディガーとその相棒バーニーは、容疑者怜威を追うためパキスタンへ。自然とイシュクト山の真実に向かうことになる。ちなみにミイラを発見したのは父勇一であり、怜威が殺人を犯したなんてことは微塵も思っていない(ユーチューブでもそう配信していた)。このミイラの謎も読んでいくうちに解明されていくんだけれども、それがもうわくわくしっぱなしだった。これが…エンターテイメント…

 そしてわたしがなにより興奮した二人組、その名も「世界医」。まず世界医って肩書きが興奮を誘う。世界医って……やば……。世界医、ロニーと泰志はすごくざっくりいうと「世界に起こっているバグを修復する人」。世界に起こっているバグを修復する人~~~~~!!!!????かっけェ~~~~~~~~~~~~。最近、金原ひとみさんの「アンソーシャル ディスタンス」に収録されている「デバッガ―」という作品を読み、バグを修復する人のことを「デバッガ―」と呼ぶ、ということを知ったのだけど、そのときすでにわたしは「バグを修復する人」というかっこよさにしびれていた。そしたらまさか「世界医」なんてものが出てくるなんてね……。
 世界のバグはそれはもうたくさんあるらしい。たとえば人々を悩ませている「旅春」。秋のあとにおとずれる短い春のこと。これはたいへんなバグである。秋のあとに春がくるなんてバグとしかいえない。また、寺院でふるまわれるカレーの味に微妙な違和感があると思えばそれもバグ。バグなんだ……。

「偶然の聖地」ではプログラミングにかかわる用語がそれはもうたくさん出てくる。わたしは高校生のころ情報処理という授業を受けていたがなにがなにやら、ありとあらゆる匙を投げたくらいであり、それは今もまったく変わっておらず、なんかそういうプログラミング言語的なものは脳が理解を超絶拒否する……のだけれど、なぜ……「偶然の聖地」はばんばんプログラミング言語や理論が出てくるのに、ぜんぶわかる……わかる、というか、全部おもしろさに変換される……これわたしのバグも修復されてる……やば……。世界医は、なにもメスとかつかってバグを修復するわけではない。だってバグだもの……プログラミングをあれしてこうして修復する。「ブレークポイント設定」して「デバッグスタート」という合図で修復を開始する。
 このブログをここまで読んでくれた人……わかってくれる…?「ブレークポイント設定」「デバッグスタート」だよ!!!????かっけェ……。わたしも言いたい…。だから記事のタイトルにした……。世界医まじやべえ。

 なぜプログラミング用語がおもしろさに変換されるのか、それはもちろん大前提に内容がおもしろい、先が気になる展開という要素が相まっているのだけど、この作品のでかすぎる魅力のひとつ「註釈」の存在。註釈といえば、だいたい巻末に補足説明としてなされるあれ。しかしわたしはつねづね思っていた。巻末に註釈があると都度ページをいったりきたりしなくてはならない。しかもそのあいだに読んでいた部分のことを忘れてしまうということにもなりかねない(バグだ……いやただ集中力がないだけか?)。もちろんそのページ内に註釈を入れてくれるものもあるけれど、註釈って、なんというか事務的というか堅苦しいものばかりである。しかし「偶然の聖地」の註釈は違う。なんかエッセイになってたり豆知識や旅行の必需品を教えてくれたり、くすっと笑えるものばかり。

 

 たとえばティトが自分の説明をする場面。

ティトはそれからも自分はサンスクリット語をはじめ八ヵ国を話すことができるだの、カルタゴハンニバルの生まれ変わりを称する政治家の秘書をやったことがあるだの、(後略)

講談社文庫「偶然の聖地」16頁。傍線は原文の通り。註釈部分に入るのだ)

に対する註釈。

サンスクリット語をはじめ八ヵ国語を話す】吉祥寺の夜の路上で、見知らぬおっちゃんからそんな感じのことを訴えられたことがある。

講談社文庫「偶然の聖地」16頁)

 笑う。作者である宮内悠介さんの実体験がこのようにちょこちょこ註釈として登場する。

 

 また、怜威とジョンがパキスタンへ飛行機で向かう場面。

窓際の席が取れたはいいものの、景色は翼で遮られて見えなかった

 

【景色は翼で遮られて見えなかった】ぼくは必ずこの席にあてがわれる。

講談社文庫「偶然の聖地」130頁)

 わかる(笑)

 

 さらに、ある章タイトルに「メタフィクションにおけるダイヤモンド継承」というものがあり、いっけん、「???」となるのだけど、ここにも註釈。

メタフィクションにおけるダイヤモンド継承】この呪文についてはあとでちゃんと説明します。

講談社文庫「偶然の聖地」217頁)

安心する(笑)そして実際に説明がはじまった部分の註釈。

【ダイヤモンド継承】説明はじまります。好きなかたのみで大丈夫。

講談社文庫「偶然の聖地」222頁)

 読まなくても差し支えないよとのことだった。でも実際は図式も用いてわかりやすい言葉で説明があるので、なんとなく(あくまで私はなんとなく。もっと詳しい人や理解の早い人ならより楽しめると思う)概要をつかめて、しかもこの小説全体にかかわるメタ的なあれなので読むのをおすすめします(メタって意味はなんとなくわかるけど、いざ使おうとすると使い方いまいちわからなくなる)。

 

 このような註釈が全部で321個! 321個もあるんですよ。註釈がなくても十分おもしろい作品だと思いますが、この註釈によっておもしろさが無限大にひろがり続け、それはもうまさにバグか?というくらいとどまることを知らない。でもこのバグは修復しないでほしい。

 イシュクト山の謎、怜威のひみつ、大きなバグが修復されたとき世界に起こる影響、そして世界医二人をはるかに上回ってわたしの推しになったある人物(お、お、おまえー!!やるじゃないかー!!ってなった。この記事内にすでに名前が出てきていますがぜひ作品を読んでこの気持ちになってね)。

 そういえば、作中怜威が麻雀をする場面があり、七対子和了るんですが、七対子は対子(同じ牌をふたつ)を七組そろえなきゃいけない。つねに二人一組で動くこの作品のよう…と思ったときわたしはやはり人知れず興奮していた。

 

 おもしろさをちゃんと伝えられたのか不安だけど、とにかく読めばわかる、これに尽きる。そして読んだあとは絶対デバッグスタートって言いたくなってる。

 

10年前は恋愛するしかやることなかった

 10年前、わたしは22歳だった。こうやって書いてみてびっくりする。わたし22歳だったんだ。
 当時の自分がなにを思ってどんなふうに生活していたの思い出すために、Facebookをさかのぼったら2012年が最初の投稿だった。でも本当はFacebookを見なくてもわかっている。10年前のわたしは恋愛しなくちゃ死ぬ病にでもかかっていたのかというくらい、恋愛したくてしかたがなかった。
 恋愛はたのしかった。そらもうべらぼうにたのしかった。当時は居酒屋でバイトしているちゃらんぽらんなフリーターであり、近くの店と交流があったりなかったり、そこから歳の近い人と出会えば恋愛沼にすぐはまっていた。しかしなぜかダメンズウォーカーの気があったわたし、沼に沈む相手は彼女あり、だったり、付き合おうという決定的なひとことを絶対に口にしない人だったり、酒が入ったら暴力的になる人だったり、金があまりにもない人(酒にすべてつぎこむ)だったり、書いててかなしくなってきたが、ザ・難!な人ばかりだった。しかしなぜだろう、わたしは夢中だった。相手のことを好きだと思っていたし、ザ・難!な人を守ってやりたいと思える自分も好きだったし(…)、恋愛しているという状況そのものが好きだった。思い返すとおそろしい、隙あらばポエミーメール送ってしまったり健気女を演じたり。ほかにやることなかったんだろう。
 そんなふうに恋愛しなくちゃ死ぬ病だったわたしが、いつからか恋愛しなくても死ななくなった。なぜこの病気が治ったのかよくわからないけど、たぶんうまくいかない恋愛に疲れすぎてあきらめることが身についたのだと思う。どうせうまくいかないし、どうせふられるんだしと考えて(自分にももちろん非はあったが実際に28歳くらいまでうまくいかなかった。oh……)、もう自分のタイプを信じないと決めた。幸いなことに(?)仕事が忙しくなって、恋愛どころではないサイクルに突入したのもあって、恋愛脳から解放された。

 

 恋愛だけではなく、この10年でいろんなことをあきらめるようになってきたなとは思う。あきらめるというか、わかった気になることが増えたというほうが近いのか。熱をあげてもうまくいかないことのほうが多い、努力は実らないことのほうが多い、夢はかなわないことのほうが多い。でも、大抵のことは「そういうものだ」と思うようになった。大人になったといえば聞こえはいいのかもしれないけど、10年前の、うまくいかないことをおそれずにがむしゃらにポエミーメールとか送っちゃう自分を少しうらやましいとも思う(今送れと言われたらそれは無理なんだけどさ)。

 当時は今より自信があったし、自分のことが大好きだったのだと思う。Facebookを見ていたら、まったく美脚とはいえないのにすごく足出てるスカートはいてたりしてるし。めちゃくちゃキメ顔でプリクラ撮ってるし。「ケータイ紛失しちゃったので用事ある人メッセンジャーください」とか投稿してるし(友達少ないので頻繁に連絡なんてほぼないのに。その数時間後に「ケータイ新しく買いました!」とか投稿してるし)。でもたぶん、そういうのがたのしかったんだろうな。どうせうまくいかないから、恥をかくのがいやだから、などという理由をつけてドライぶっているのは、たしかにあんまりたのしくない。
 ただだからといって、今すぐ当時の自分みたいにはっちゃけよう!とかさすがに思えない。歳をかさねるごとに自分の行動に自信を持てなくなくなってきている、あるいは慎重になってきている。やっぱりそこは、わたしの変化した部分なんだろう。だけどこの変化を嘆くのではなくて、変化した自分につきあって「たのしい」の落としどころをまた自分で見つけていくことで、30代の基盤みたいなものができていくのかもしれない。こんなことを考えているなんて、恋愛のことしか頭になかった10年前の自分は思いもよらないだろう。

 

 それにしても頻繁に投稿していたわけではないけれど、Facebookはなかなか魔境である。自分のタイムラインだけみても、「なんだこれ」という投稿がちらほら。恋愛に疲れ切っていたわたしに、友人から「誕生日おめでとう!マジになるって切ないね」とかメッセージが届いてたり(余計なお世話だ)、なかには実の母親から「地元で街コンが開催されるって!いかが?」というシェア情報がわたしのタイムラインに反映されていたり。いかが?じゃねえわ、マジで余計なお世話すぎる(しかも2回もいかが?投稿があった)。ブルーノートに行ったり恵比寿で肉食べていたりと(自分基準の)オシャ活してたり(そんなところへわざわざ出かけるなんて信じられない。この10年でインドアにも拍車がかかった)。唐突に塗り絵を披露してたり。27歳のことを「マジサー」とかいっていたり(ぜんぜんマジじゃねえわ)。
 10年前、一緒に写真を撮っている友達と、今はもうほとんど会わないし連絡もとらないけれど、ひとりふたり今でもなんとなく会う人もいる。とりまく環境、考え方など10年で別人のようになったわたしたちだけど、10年前から変わらず友達のままでいることもできているんだなあ、変わらないこともあるのだなあとしみじみ。当時の自分が恋愛だけしていたわけじゃなかったみたいで少し安心する。そしてそんな存在がいる今の自分のことも、当時ほどじゃないけど、好きだなあなんて思ったりもするのである。

 

f:id:mrsk_ntk:20211111094037j:image10年前、台湾に行っていたらしい。旅人風に撮ってとかリクエストしたのを覚えてる。髪傷みまくりの旅人。

 

f:id:mrsk_ntk:20211111094919j:imageあと10年前のインカメの画質がいとしい。ピースの仕方なんなんだよ。

 

 

 

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

10にまつわる4つのお題10年で変わったこと・変わらなかったこと