今日もめくるめかない日

失恋

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 赤い爪はあたしの自慢。あのひとがくれたシャネルのヴェルニ475番は、よく目立つ。これからどこにいっても、すぐにあたしが見つかるように、この色だけは覚えておいて。

「遺書みたい、なんか」
 ふたりでベッドに寝転び、その投稿を見た。スマートフォンのぼやついた画面だけが、この夜の唯一の光だった。
「遺書」
 友梨が軽く笑った。
「もしかして殺そうとしてる? あたしのこと」
 距離が近いから、友梨のぬるい息がすぐかかる。そんなことしないよ、と早口で答えて画面を消した。体をぴたりとくっつけて、そのまま眠りにつく。十一月になって、急に寒くなった。それでも「乾燥しちゃう」と言う友梨の意見を尊重して、ぎりぎりまで暖房はつけないつもりでいた。体を寄せ合って、なるべく寒さを紛らわす。
まぶたを閉じると、なにもかも真っ暗になった。けれどひとつだけ、ゆっくりと浮かび上がるものがある。
 真っ赤なヴェルニは、わたしが友梨に贈ったものだった。

 この一年、よく友梨を撮った。わたしの職業はカメラマンだけど雇われで、仕事を選ぶほどのことはできない。基本的には雑誌なんかの物撮りに駆り出されることが多かった。けれどわたしはずっと、生きているものを撮りたいと思っていた。動かないものよりも、動き続けるものに魅力を感じる。一瞬のたびに体のどこかが変わっていく、シャッターを切った瞬間にしか残せないもの。
 仕事として依頼されることはほとんどないため、ポートレートを撮るときはSNSでモデルを募った。自分の職業、顔写真、作品を一緒に投稿して無料だと添えれば、モデルはすぐに集まる。そのなかのひとりに、友梨がいた。

 友梨はよく笑う。わたしの五つ下で、二十四歳だった。もう大人と言っていい年齢だけど、簡単なことですぐ顔を綻ばせる、少女のような無邪気さを持っている女だった。それでいて写真を撮られるときは、自分の色気を出し惜しみせず魅せた。純真さとなまめかしさを混ぜて、友梨はいつもそれを吐息と一緒に口から漏らした。そんな友梨に、ヴェルニの475番はよく似合うと思った。
「かずらさんちに行ってもいい?」
 恋人にふられたばかりだと言っていた友梨がうちに転がり込んできたのは、三回目の撮影のあとだ。それまで恋人と同棲していたため、新しく部屋を探さなくてはならなくなったという。新しい部屋が見つかるまで、家事はできるほう、家賃も半分払う、いろいろな条件を出されて、うんとうなずいた。友梨は「やった」と子どものように喜んだ。
 実際わたしは、そんな条件を出されなくても、友梨を住まわせていたのではないかと思う。一緒に住めば、暇さえあれば友梨を撮れる。寝起き、食事中、歯を磨いているときの無防備な姿、化粧中のきりっとした目、買い物帰り、風呂上がり、眠る寸前。一目見たときから、わたしは友梨を撮りたくて仕方がなくなっていた。シャッターを切るたびに、友梨の雰囲気は少しずつ変わった。それはなによりわたしを愉しませた。
 そしてどこにいても、どんな服でも、どんなポーズをしても、どんな表情を浮かべても、友梨は、私が撮る写真のなかにうつくしく収まるのだった。
1DKと決して広くないが、友梨の荷物は少なくて、わたしの部屋が狭まることはなかった。まるで気分が明るくなる観葉植物でも置いたような、それくらいの変化だった。
 写真はどこかに出かけて撮ることも、部屋のなかでさっと撮ることもあった。わたしは友梨といるときずっと、カメラを手放せなかった。
 友梨と出会った寒い冬、クリスマスのイルミネーションが煌々と光る街のなかでも。肌寒い春先、桜よりも梅が好きだと言う友梨のために出かけた公園でも。部屋の冷房が突然壊れてしまい、扇風機とうちわで暑さをしのいだ日にも。どこにいても懐かしいにおいがするねと言い合いながら、二人で蹴り上げた落ち葉を眺めたときも。そしてまた息が白くなるこの冬も。
 日にあたるとかすかに赤く見える胸元まである友梨の黒い髪は、出会ったときよりもずいぶん伸びた。風が吹くたび、彼女の髪は違う揺れ方をする。かわいい、と言うと頬の筋肉を器用に嫌味なく動かす。一瞬しかおとずれない友梨のひとつひとつを、写真に残すのはとても楽しかった。それは、友梨と一緒にいる自分の証明にもなった。
 友梨が気に入っているのは、長くきれいな両手の指先を口元に持っていって小さく笑うポーズだった。わたしと友梨は、それを「かわいいポーズ」と呼んでいた。

 友梨は、わたしに撮られた自分をSNSにアップしている。きれいで、輝いている自分を見てもらえるのが嬉しいと言う。友梨のフォロワー数は特段多いわけでもない。けれどときたま粘着質なコメントを寄せるひともいた。わたしは友梨に注意した。
「本名とか、撮った場所がわかるような写真は載せないほうがいいんじゃない?」
「大丈夫」
「言い切れないよ」
「恋人に撮ってもらってるって言ってるから」
「……そういう」
 そういう問題じゃない。叱ろうとしたら、友梨に口をふさがれた。突然だったので、かちと歯が当たった。友梨は、へへへと舌を出してもう一度キスをしてきた。
「かずらさん、あたしのこと好きだよね」
 友梨は、ずるい言い方をした。自分の気持ちを言わないくせに、わたしに気持ちを認めさせようとした。わたしは、うなずく以外の意思の示し方を見つけられなかった。
 友梨はとてもかわいかった。今まで、女を恋人にしたいと思ったことはない。なのに、友梨はとてもかわいかった。もしかして、友梨が同棲をしていたという恋人は、女性だったのかもしれない。今度はわたしから友梨にかぶさりながら、そういうことを考えた。ぎこちない動きだったから、友梨に小さく笑われた。
 友梨は、わたしが撮った写真をそれからも投稿し続けた。

 ヴェルニを贈ったのはその一週間後だ。友梨は保険のコールセンターでアルバイトをしていたから、ネイルが許される環境にいた。
「主張激しいね、なんだか」
 友梨は溜息まじりにそう言ったが、まんざらでもなさそうだった。右手と両足の爪をひとつひとつ丁寧に赤に染めていってから、わたしに左手を差し出した。
「塗って」
「誰かに塗ったことないから、失敗するかも」
「いいよ。あたし左利きだから、こっちはうまく力が入らないの」
 友梨はよくわがままを言った。わたしは、そのわがままを聞くのが好きだった。しょうがない子どもをあやしているような気になった。ふと思いついて、左手の薬指にだけ赤を塗ったら、「かずらさん、やると思った」と友梨がけたけたと笑った。
「主張が激しいっていうのは、色じゃなくてかずらさんのこと」
 まだ乾ききっていない赤い爪に構わず、友梨がわたしを抱きとめる。マニキュア特有の、人工物のにおいがした。
「首輪みたいな赤だと思ったの」

 ヴェルニは、ゆっくりと減って いった。日が長い夏の夕暮れみたいだと思う。ただ量が減っても、瓶全体に液がついているから、実際どれだけ残っているのかはよくわからなかった。
「もうすぐなくなりそうなんだよね」
 夜、友梨が右手の爪に赤を塗り直している。わたしは寝室の入り口でそんな友梨の姿を撮った。蛍光灯を替えたばかりだったから、不自然に明るい写真になった。
 新しいものを一緒に買いに行こうかと提案すると、かぶりを振った。友梨の髪の毛先が跳ねる。さっきシャワーを浴びたばかりだから、まだ少し濡れていた。
「結婚するんだよね」
 マニキュアがなくなりそうなことを報告するときと同じ声色、温度、音程。少しも違わず友梨は言った。だから最初、他人の話でもしているのかと思った。だれの話、とたずねた。
「あたし」
「友梨?」
「うん」
「友梨が結婚するの」
「うん」
 時間をかけて、友梨が右手の指先を染めていく。寝室にはひとつだけ窓があった。住宅街にひっそりとたたずむこのアパートからは、暗い夜の様子はよく見えない。安っぽい蛍光灯のあかりと、まぶしく発色する赤い爪。この空間だけが、世界から切り取られたような、動いていたものがぴったりと止まってしまったような。
「嘘でしょう」
 カメラがずしりと重かった。今まで友梨を、数えきれないくらい撮ってきたカメラ。
「塗って、かずらさん」
 右手の爪がすべて赤くなったとき、友梨が左手を差し出した。
「全部塗って」
 友梨のわがままを聞くのが好きだった。わたしがいないと、友梨はなにもできないのだと思えたから。けれど逆だったのかもしれない。友梨がいなくなったら、わたしはなにもできなくなる気がした。
 親指からマニキュアを塗っていくわたしの手が震えている。嘘でしょう、結婚なんて。何度も訊いたが、友梨は答えなかった。
 薬指の爪を、なんとなく塗れなかった。飛ばして小指の爪に刷毛を当てると、友梨はあいまいな顔をした。目はとても悲しそうに細めているのに、口では笑おうとしている。そんな表情は、はじめて見た。けれど写真は撮れなかった。かたちに残しておきたくない顔だった。
「あたし、かずらさんが好きだから、結婚するの」
 友梨を手放したくないと思っていた。友梨を撮れなくても、一緒にいたいと思うようになっていた。そんな気持ちになるのは、友梨だけだった。
「かずらさんも、あたしが好きなら、結婚して」
 友梨が、わたしの手首を力強くつかんだ。持っていた刷毛の先の赤い液が、友梨の手の甲にぴっと付着する。
 友梨は、そのまま残っていた自分の薬指の爪に赤色を塗った。何度も重ねて、はみ出ても気に留めず、分厚く、塗った。
「撮って」
 友梨がかわいいポーズをする。左手の薬指だけがやけに赤い。友梨が言ったとおりのことをするなら、これが最後の写真になる。わたしたち二人の最後の写真。友梨の目が、いつまでも悲しそうだったから、口から上は写さなかった。
 友梨がSNSに投稿する写真には、友梨だけしか映っていない。けれど彼女は、わたしたちを大勢に見せていた。わたしたちが一緒にいたことを、不特定多数に、教えていた。顔も名前も知らないひとたちだけが、わたしたちを知っている。身近な人間になればなるほど、わたしたちのことを知らなかった。数で解決できることなら、わたしと友梨は、これからも一緒にいただろう。
 友梨は、最後の写真を投稿した。ふたりでベッドに寝転び、その投稿を見た。スマートフォンのぼやついた画面だけが、この夜の唯一の光だった。

 友梨がわたしの家を出ていくまでに新しいマニキュアを買ってやろうと思ったが、ヴェルニの475番は廃盤になっていた。代わりに528番を買った。475番よりも、鮮やかな赤に見えた。
 もうかずらさんは塗ってくれないのに。
 自分から別れを切り出したくせに、友梨は最後まで、ずるいことを言うのだった。
「マニキュアのお返し」
 そう言って友梨がくれたのは、わたしの真似でもしたつもりなのか、シャネルのルージュだった。その場で繰り出すと、おもちゃみたいに綺麗な赤が顔を出す。56番、わたしがあげたマニキュアにも劣らない赤。
「首輪みたい?」
 友梨がいたずらっぽく笑う。その表情なら、何度も見た。離れても、すぐに思い出せるだろう。
「わたしは、赤い糸とか言ってほしかったんだけど」
 友梨の両手の赤い爪は、すでに少し剥がれていた。彼女は、本当はひとりで左手の爪にもマニキュアを塗ることができる。けれどひとりで写真を撮ることはできない。
「結婚式には呼ばないよ」
 少ない荷物を持って、友梨が家を出ていく。
「だからあたしを覚えていてね」
 結婚するということが、真実なのか嘘なのか、友梨は結局告げずに去っていった。どちらにしても結婚式に呼ばれないなら、友梨の姿をわたしが決めればいいだけだ。最後までずるい友梨。
「わたしも呼ばない」
 友梨が見えなくなってから、ひとりでつぶやいた。目をつぶると暗闇になる。そこに思い浮かぶのは、友梨の笑顔ではなく、彼女の真っ赤な爪先だった。

 友梨のSNSは、まったく更新されなくなった。わたしが撮った最後の写真が、ずっと最新の投稿になっている。三百を超えるいいね、粘着質なコメント、かわいいポーズをする友梨、左手の薬指だけ濃い赤色になった爪。あのときたしかに動いていたものは、もう髪の毛一本すら動かない。友梨の連絡先は変わってしまい、メッセージのひとつも送れない。
 友梨がいなくなっても、わたしはちゃんと生活できた。けれどなにもできないかもしれないと思ったあのしゅんかんは、まるで写真のようにわたしの脳裏に飾られている。
 最近は、日が長くなった。いつまでも名残惜しそうに夕方はあかるさを灯している。それでも毎日夜はおとずれた。
 SNSの画面を閉じて、かたちをなぞるように唇に赤を引く。いつかのヴェルニのように、わたしがもらった口紅は、ゆっくりゆっくり減っていった。