今日もめくるめかない日

小説とわたし(読む)

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 小説を読むのがすきである。昔からそうだった。おもしろさを教えてくれた作品は数知れず、ただきっかけとなったのは、最年少W芥川賞受賞ということで盛り上がった金原ひとみさん「蛇にピアス」、綿矢りささん「蹴りたい背中」。わたしは当時中学生くらいだった。

 

 たぶん、物語というのが先天的にすきだったのだと思う。小さなころは絵本をひたすら読んでいた記憶があるし、小学生から高校生のあいだまで、いちばん好き/得意なのは国語だった。進学先も、のぞんで文系を選んだ。

 もちろん漫画もドラマも映画もすきだけど、小説ほど「特別」には感じない。それからノンフィクションも、あまり夢中にならない(エッセイはすきなんだけど)。

 小説のなにが特別なんだろうというのをときどき考える。小説にかぎらずだけど、「〇〇のどこがすきなの?」という問いに対して、はっきり答えられることは少ない。ためしに夫に「サッカーのどこがすき?」と訊いてみたら、「わかんないよ。ずっとやってたことだし」と返ってきた。わたしからしたら、これは納得の答えだ。いきなり訊かれても具体的な答えをすらすら言えるくらい、明確な「すき」を持っていたらどうしようとすこし懸念していた。

 

 小説のなにがすきなのか、たとえばわたしが突然そう訊かれたら、「おもしろいから」としか言えないような気がする。だけど(わたしにとって)おもしろくない小説を読むときもある。だから一概には「おもしろい」とは言えない……などとぐだぐだどうでもいいようなことを考えてしまい、結局「なにがすきか」言えなくなって、「ほんとうに自分は小説がすきなのだろうか」なんてところまで思考が行きつく。

 こんなことになってしまうのは、どこかで「小説を読む自分のことをすごいと思ってもらいたい」というようなことを考えているからではないかと、すこし不安になる。もちろんそんな自覚はなく、「おもしろいから」読んでいるわけだけど、でもときどき思うのだ。夢中になって本を買って、本棚に並べて満足して、読んだ報告をツイートして、それが目的になってるんじゃないか、とかそういうことを思うのだ。

 わたしは作品を読み終わったとき(漫画や映画でもそうなんだけど)、まずほかの人の感想を読んでしまう。自分がどう思ったか、ももちろんあるけど、答え合わせをするように、ほかの人の意見を探してしまう。これは自分自身の性格なんだと思うけど、いつもわたしは自分の発言に自信が持てない。小説を読んでいるあいだに、いろんなことを感じたりするのに、だれもそんなことを言っていないとわかったら、自分の意見を引っ込めてしまう。だから余計に「小説を読んでいるポーズ」になっていやしないかと不安になるのだと思う。

 

 小説のなにがすきなのか、そう訊かれて答えられないのは、ただ自信がないからだ。本当に自分がそう思っているのか、確証を持てないから、ごにょごにょとごまかしてしまう。

 わたしは三十年ほど生きているけど、いまだ自分のかたちをつかめない。自分がどんな人間なのか、どんなことを思うのか、どんなことがうれしいのか、どんなことがいやなのか。正直に言うと、よくわかっていない。もともと人に流されやすい性格のうえ、基本的にNOと言えない日本人なので、面と向かってだれかを責めたりすることも苦手だ。

 唯一、なんとかすこしばかりの自信を持ってすきだと言えるのが(理由はうまく言えなくても)、小説だった。小説を読むと、自分を知ることができる。どんなことを感じるのか、どんな場面にこころが動いたのか、どんな場面に嫌気がさしたのか。ただそれを発言できるほど、自分のかたちはまだできあがっていない。

 だけど間違いなく、わたしのかたちをつくってくれるのは、この世にあふれるたくさんの小説だった。わたしはわたしのかたちを知るたびに、小説のことをすきになっていくのだと思う。