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「本物」の友情を手にしたしゅんかんはいつ――柚木麻子「ナイルパーチの女子会」

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 だいたいにおいて、この世の中は不確かなものが多すぎる。正しさと間違い。幸福と不幸。感情、愛情、友情。どれも明確なかたちはないけど、あるとされているもの。指標にされるもの。そして縋りたくなるもの。
 かたちがないとはなんて厄介だろうとつねづね思うけど、「ナイルパーチの女子会」を読んで、その思いはさらに強くなった。

※多分にネタバレを含みます。

 

 

ナイルパーチの女子会/柚木麻子

books.bunshun.jp

丸の内の大手商社に勤めるやり手のキャリアウーマン・志村栄利子(30歳)。実家から早朝出勤をし、日々ハードな仕事に勤しむ彼女の密やかな楽しみは、同い年の人気主婦ブログ『おひょうのダメ奥さん日記』を読むこと。決して焦らない「おひょう」独特の価値観と切り口で記される文章に、栄利子は癒されるのだ。その「おひょう」こと丸尾翔子は、スーパーの店長の夫と二人で気ままに暮らしているが、実は家族を捨て出て行った母親と、実家で傲慢なほど「自分からは何もしない」でいる父親について深い屈託を抱えていた。
偶然にも近所に住んでいた栄利子と翔子はある日カフェで出会う。同性の友達がいないという共通のコンプレックスもあって、二人は急速に親しくなってゆく。ブロガーと愛読者……そこから理想の友人関係が始まるように互いに思えたが、翔子が数日間ブログの更新をしなかったことが原因で、二人の関係は思わぬ方向へ進んでゆく……。(文藝春秋BOOKSより引用)

 

 単行本の初版は2015年。たしかすぐ話題になって、書店で平積みされているのをよく目にしていた。なぜそのとき手にとらなかったのか、別に明確な理由があるわけでもないけど、強いて言うなら「いやな予感」がしたんじゃないかと思う。

 女子会、女子力、オトナ女子、女子っぽさ。少し昔と比べれば、今はわりと女子女子言語もなくなってきたように思うが、なんでもかんでも「女子」をつけるあの風潮に嫌気が差していたんだろう。それで「女子会」だなんてタイトルにあるし、帯など見れば「女同士の友情」といったことが書かれているのでなんとなく敬遠していた。印象に残る表紙なので、おそらく何度か手にはしているはずだ。けれどページを開くことはなかった。当時は「興味が出ない」の一言で片づけていた。それはたしかに本心だったかもしれない。ただ、あれから六年経った今、読み終わって感じるのは「あのころ読まなくてよかった」ということである。だから無意識のうちに遠ざけていたんじゃないかなあなんて思ったり。

 

二度目からの距離の詰め方

ナイルパーチの女子会」は、志村栄利子と丸尾翔子の二人が主人公である。三人称で書かれており(だけど一人称のような書き方でもある)、交互に二人の視点で物語が進んでいく。「どちらのほうが自分に近いか」ということを考えるのはそもそもナンセンスだけど、栄利子の言動や行動の原理が手に取るようにわかる、そしてわかってしまうことは、自分の過去を暴かれているみたいでとてもしんどいことだった。

昔からこういうことがよくあった。例えば、二度目のデート、二度目のキス、二度目のセックス。一度目で舞い上がり、妄想が膨らみ過ぎたあまり、肩すかしを食らったことが数え切れないほどあった。(本文より)


 そう、どうしていつもこうなってしまうんだろう。一度目はうまくいく、相手も楽しそうだった。それなのに、二度目になるとどうして距離を置かれてしまうんだろう。原因は明白だった。一度目で距離が近くなったと思いすぎて、自分から距離を詰めすぎてしまう。相手が引く。たとえばこれが恋愛事だったら、「相性が悪かった」「思ってた人と違った」と身勝手な言い分でごまかすことができる。だってもう会わないから。だけど女友達は違う。女友達に引かれること、嫌われることは自分のすべてを否定された気になる。

 人付き合いにおいて、「なにかを間違えた」と思うことは簡単だ。だけどその間違いを認めて、さらに後腐れなく関係を修復することは、なんて難しいことだろう。しかしとにかくこじれたままは嫌なのだ。女友達に、「あなたってそういう人だったんだ」と思われることは、なにより怖いことだ。同性に嫌われることは、おそろしい。

 栄利子は翔子のブログのファンである。たまたま近くに住んでいて、あることがきっかけで翔子が「おひょうのダメ奥さん日記」のブロガーだということを知った栄利子は、純粋な気持ちで彼女とコンタクトをとる。同い年の二人が仲良くなるのは簡単だった。正反対に見える二人が、友情を構築するのは、たった数回会うだけでよかった。

 しかしあるとき、翔子のブログが更新されなくなる。ただたんに、実家に帰っていたから更新されなかっただけなのだが、それまで毎日更新されていたこと、メールの返事もないことから栄利子の心配が爆発する。ブログの記事や写真から翔子の家をつきとめ、押しかけた。ブログを更新しなかったのは、たったの四日だけだ。距離の詰め方があきらかにおかしい。おかしいと思うのに、その行動の理由がわかる。

 だって友達だから。心配だから。メールの返事がないなんて、嫌われたと思ったから。そうじゃないのだと確認したいから。安心したいから。

 もしも異性に嫌われたら、諦めがつく/諦めざるを得ないと考える。だけど女友達は、「逃したくない」と思う。わたしは、女に嫌われる女は価値がないとさえ思っていた。女に好かれてこそいい女だと思っていた。打算的なくせに打算ができない、「そういう女」が、結局いちばん嫌われるのに。けれどそんな馬鹿みたいな「自分の価値」を考えている時期がたしかにわたしにはあって、だから「あのころ読まなくてよかった」のだ。きっと自分を武装している(つもりの)ものがどんどんはがれて目も当てられない姿になっていただろう。いや、違うな。それは今だからこそ感じることで、当時読んでいたら、安心を覚えてしまっていたかもしれないなと思う。

 

悪口を聞くと安心する

 翔子のブログは勢いがあり、書籍化の話も出ている。それにともなって、翔子は出版社の人間や有名な人気主婦ブロガーNORIと知り合いになる。NORIは子どもがいながらしっかり働いていて、さらに家事も完璧にこなすスーパーママ。翔子のブログはいつしかNORIの名前がよく登場するようになる。栄利子はもちろんそれに嫉妬する。「おひょうのダメ奥さん日記」はダメなところがよかったのだ。適当に、だらだらと毎日を過ごしているからよかったのだ。それなのにNORIに教わった料理を公開するなど「おひょう」らしくない記事が続いていく。そんな記事を見るたび、栄利子の胃が重くなる。そういうとき、栄利子がとった行動が、翔子のブログのアンチコメントを検索することだった。

「おひょうのダメ奥さん つまらない」ですぐさま検索をかけた。息継ぎする暇もなく、某巨大掲示板の否定的なコメントがいくつか見付かった。(本文より)


 アンチコメントを見ると「自分だけが抱えている感情じゃないんだ」「自分は正しいんだ」と安心できる。学生時代、わたしもそうだった。自分から離れていく女友達が憎くて憎くて、だけど離れていったのは自分のせいかもしれない、そう思うと憎み切れなくてどうしていいかわからないことがあった。そんな感情を持ってしまう自分は欠落人間なのだと思った。けれどだれかがその子の悪口を言っているのを聞いたとき、すごく気持ちが楽になったのを覚えている。「嫌っていいんだ」と思えることは救いだった。だけど不思議なのは「それでもわたしだけはわかってる」とどこかで女友達への思いを捨てきれなかったことだ。憎いのに、悪口を見てうれしいのに、自分も悪口を言いたいのに。仮にわたしと女友達のあいだに何本もの糸がつながっていたとして、すべての糸を切りたいわけではなかった。どれか一本だけでも、いつでも手繰り寄せられるように、糸を残しておきたかった。個人的にはこの場面がいちばんつらかった。責められてるみたいだったから。

 

たとえ永遠でなくても「本物」の友情はあるのか

 女友達がたくさんほしかった。だけど、男の子といるほうが楽だった。「もしも異性に嫌われたら」と前述したけど、恋愛感情が絡んでいない男の子に対して「嫌われたらどうしよう」と思うことなんてなかった。男の子からは、嫌われないと思っていた。嫌う嫌わないじゃない。興味がある、ないなのだと考えていた。
 女の子は嫌う。嫌だと思うと、嫌う。女の子から嫌われないように一挙一動に神経をとがらせるのは疲れる。だからきっとわたしは、一度目が成功したら気が緩んでしまうのだ。

 栄利子も翔子も女友達がいない。どちらもうまくつくれないのだ。だから少しでも自分に気持ちを寄せてくれたと思う出来事が起こったら、相手の気持ちを考えずに自分の気持ちを押し付ける。栄利子が会社の年下の派遣社員の女の子に言われた「今度、色々相談に乗って下さい」、翔子がNORIに言われた「いつでも連絡して。どんな相談でも聞く」という社交辞令を、二人は本気で信じて相手に過度な期待を寄せる。

 もうやめてくれ、と読みながら何度も思った。つらくてしょうがない。心臓がもたない。どうしてこんなにも人付き合いが下手になってしまうのか、どうしてそんなに「女友達」に依存してしまうのか。どうして、すこし考えればわかることなのに執拗な態度をとってしまうのか。
 それは支えを持っているか、持っていないかの違いなのだと思う。仕事、パートナー、立場、人気度、女友達、信じられるもの。客観的に見れば、栄利子も翔子も「持っている」。栄利子は優等生でバリバリのキャリアウーマン、翔子は穏やかな夫と結婚し、書籍化の話もくるほどブログが人気。それなのにこの二人には「何もない」のだ。寄りかかれるものがない、あるいは寄りかかってもすぐ倒れてしまう(と思い込んでいる)ものしかない。せっかくできた女友達に寄りかかったら、お互いを支えきれなくて結局二人とも倒れてる。倒れた先で助け合えればいいのに、それができなかったのは、友情のかたちを描けなかったからだ。自分ひとりだけで理想の友情を思い描き、相手も同じかたちを思い描いていると信じ切っているからだ。
 ひとりでは友情は成り立たない。自分と他者がかたちをつくっていかなくてはいけない。かたちの見本があるなら、どんなによかっただろう。

「男女の友情は成立しない」なんてよく言うけれど、「女同士の友情が必ず成立する」わけではない。嫉妬して、わからないのにわかったふりをして、共感して、(ちっとも共感していないのに)共感して、ときどき独り占めしたくて、認められたくて、優位に立ちたくて、心配したくて、知らないことはなくしたい。それらは本当に、本物の友情なのか。永遠に続くことのほうがはるかに少ない友情は、偽物なのか。そんな問いに対する答えは、終盤、最後の最後にあった。

 永遠につくられなくても、いっしゅんだけ、たとえば自転車を二人乗りしたときに手に入れたような無敵感を共有したしゅんかん、それを永遠に持っていけるなら、それはもう本物の友情なんじゃないかって、圭子との会話を読んで思った。

 理想的な、うつくしい友情を築き上げるのは難しい。女同士の友情を疑問視したばかりだけど、女友達をつくるのはときに怖いけど、だけどまだどこかで言われ続けている、「女の敵は女」、「女同士ってどろどろしてる」、「女は結局友情よりも男をとる」、「女ってマウントとりまくってるんでしょ?」……こんな意見に対して真っ向から否定したい、だれかとの友情を見せつけてやりたいと思う自分もいたりする。