今日もめくるめかない日

見ること(ミズナラの森の学校/藤代泉)

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 文藝2021夏号(河出書房新社)を読んで。
 いちばんよかったのは「ミズナラの森の学校」(藤代泉)。

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この夏は蚊帳をつらなかった。天から吹き流れるようなあの大きい蚊帳を。つらないまんまに、夏がすぎてしまった。

(中略)
ここは東北で、私は蚊帳をつったことがない。生まれてから一度も。だから、蚊帳をつらなかった、などと私が思うはずがない。でも、いつもしていたはずの何かをしないまま時の過ぎてしまった遣りきれなさは、目を覚ましても体に残っていた。
だれかの置き忘れた記憶を思い出しているのかもしれない。

 こんな書き出しではじまる「ミズナラの森の学校」。主人公のりせは、ときどきこのように自分ではないだれかの記憶というか思考が流れ込んでくることがある。
 七年前、大学三年生のときにボランティアとして友人とおとずれた教育施設に、りせ(沢渡静子、という名前が「さわた・りせこ」に聞こえることからそう呼ばれる)が再びおとずれることから物語ははじまる。主な登場人物は、一緒にボランティアをし、そのまま就職した友人の英里子、ボランティアとして来ていた数の子(無気力な大学生、だれかがつくった料理を食べようとせず、冷蔵庫にあった数の子をひとり食べたことからそう呼ばれている)、学長、こどもたち、七年前にミズナラの森の学校にいた椿。

 

 藤代泉さん、はじめて読んだ作家ですが、文体が超絶好みすぎた……。淡々と流れていくような、くどくどしい感じがまったくない文体で、表記のひらき、リズムがとっても読みやすく、全体的に描写がとってもうつくしい(舞台は北海道、季節はみずみずしい初夏)。
 たとえば、

耳を澄ましていると、たわんだ枝から雪の落ちる音が聞こえてきそうで、ドサッというその音を――今あるはずのない音を探すように湿った地面を踏んでゆく。見あげた樹々の葉は昼の光を帯びて、透過した緑の色が自分の虹彩に降りてくる。

 めちゃくちゃよくないですか………(卒倒)。

 過去と現在、いろんなことがばらばら散らばっているようなことが、重なり合っていくような、読み進めるうちに自分までミズナラの森の学校のなかにいるような没入感。雰囲気としてはものがなしいのだけど、決して後ろ向きではないところがよかった。
 見なくていいもの、知らなければよかったものを、りせは知ってしまうことになる。わたしたちの生活のなかにもそういうことってたくさんあると思う。なににたいしてもやる気を見せない数の子が、そういったものを「見る」と答えた場面が、いちばんこころに残った。

 

 ここからは自分の話なんだけれども、昔、働いていた会社に、同じくらいの歳で、とくべつ仲がよかったわけじゃないけど、それでも顔を合わせればそれなりにたのしく話していた男の子がいた。わたしがその会社をやめるとき、あいさつをして、またね(でもきっともう会うことはないだろうな)と互いに考えていたと思う。それはなんというか、たくさんのひとに思うことで、でもその半年後くらいだろうか、同じ会社にいた別の子に、「あの子自殺したんだよ」と教えられた。すごく、おどろいた。
 もう二度と会わないだろうと思っていたけれど、それは「もう二度と会わないけれど、どうか元気でいてね」、「元気でいてくれるだろう」という、なんの根拠もない願いがこめられていて、自殺したんだよ、というひとことを聞かなければ私はずっとあの男の子が元気でやっていると疑わずに今日まで生きているはずだった。二度と会わないことは変わらないのに、その事実を知ったことで、ほんとうに、二度と会えなくなってしまって、なんというのだろう。そのとき私は「知りたくなかったな」と思った。
 でも、ほんとうのことを知ることにはなにか意味があるのかもしれない。わたしにできることなんてひとつもなかったかもしれないけれど、いろんな真実にたいして、あまりに無力なことが多いけれど。

 

「見ないほうがいいんじゃないかって思うことが多いんだよね。見えなくなったものは、そのままにしておいたほうが」

 作中のりせの言葉。数の子はこれに対して「見ると思う」と「まなざしをすこしも動かさずに」答えた。