今日もめくるめかない日

文學界2021年5月号(悪い音楽・Phantom など)

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 先日8月号が発売されたけれど、やっと文學界5月号を読めた……。まあ1月号とかまだ読めてないんだけど。文學界にかぎらず、さすがに毎月は買えないけれど気になる特集や好きな作家が出ていれば文芸誌を買っている(なによりコスパがよい)。
 いつもたのしみながら読んでいるのだけれど、どの文芸誌もけっこうな読みごたえがあるので、数号遅れてくるのはもう仕方がない。とはいえ時間があまりにも足りなくないか。

www.bunshun.co.jp


 ただ文學界5月号は、本当は買ってすぐに読みたかった、というのも第126回文學界新人賞が発表された号だからだ。わたしは箸にも棒にも……だったけれど、自分も応募していた賞だったので、やはり受賞作は気になる。しかし読む前から「選評が厳しい」という意見をちょこちょこ見ていて、「ちょっとこわいな」と思っていた。いや自分の作品に言われてるわけじゃないんだから……と思うかもしれないけれど、そこにすら届いていない自分の作品があるのは事実なので、ちょっと勇気が必要だった。


 そもそも自分が出した/出さないにかかわらず、厳しい選評というのは心臓がひゅんってなる。自分の覚悟みたいなものを試されているような気になる(実際、覚悟とかそういうのがないと話にならないとは思うけど)。とりあえずは心臓ひゅんってなる覚悟が決まったので、5月号を読んだ。
 たしかに「全体的に低調」、「消極的な二作」といった言葉があったけれど、予想していたよりはやさしい(という言葉は適切ではない気がするが)選評だった。寄り添ってくれているというか、なんだろう、思ったよりへこたれなかった。むしろ「わたしもがんばるぞ……」とやる気が出たような(選評はときにぽっきり心を追ってくるもの)。


 中村文則さんの以下の言葉がとくに印象に残る。

一度、自分はなぜ小説を書きたいのか、書くことにおいて、生きることにおいて、この世界において、自分の最大の関心と問題は一体何かを、その根本的なことを一度考えるといいのではないだろうか。

 上記は最終選考に残った三作品(うち一作は受賞作品)に対しての言葉だったけれど、小説を書くことにおいてとても重要なことなのだと思う。すでにこの答えをこたえられるひともたくさんいるのだろうけど、わたしはこたえられないし、模索している最中だ。

 そして受賞作、わたしは「悪い音楽」がすきだなあ。

悪い音楽/九段理江

 偉大な音楽を父に持ち、中学校の音楽教師をしている主人公。生徒たちのことを「猿」と認識し、お世辞にも熱心な教師とはいえない。「音楽教師なんかにだけはなるな」という父に反発し(したふりという節もある)、音楽教師になったけれど、生徒の能力を見限っているし、とにかく自分優先で、実際にいたら「あんまり近づきたくないな」という人間だ。
 ひとが悲しんでいる場面なのに筋肉をコントロールできず笑ってしまったり(そのため主人公は筋肉コントロールのトレーニングを受ける)、マッチングアプリを使って若い男性と会い、従順そうな性格だったらホテルに連れ込み、生徒役をさせ芝居を打たせる。芝居の内容は、ルームシェアをしている友人いわく「最低。変態。サイコ教師」。

 

 小説を読むうえで、登場人物への共感性はさして重要ではないと思っているけれど、それでもすこしでも「わかるかもしれない」というのがあると、その作品にわっと近づくことができる。あんまり理解できない主人公だけど、わたしは以下の一節があったから「悪い音楽」をすきになった。

小さい頃から情操教育の一環で美術館にはよく連れて行かれたのだけれど、私はどのような絵画に対しても、好きとか嫌いレベルの単純な感想さえ持ったことがないのだ。たとえば五段階評価で絵画に点数をつけなければならないとしても、私には三以外の評価を下すことができない。感想は常に「どちらでもない」だ。

最低。変態。サイコ教師」ではあるけれど、実はとても凡庸な主人公であり(自分を凡庸だと思い込んでいる/凡庸だと思い込んでいることを含め凡庸)、その単調とした凡庸さが、ある生徒によって崩されていく過程がおもしろかった。次作がたのしみです。

 
Phantom/羽田圭介

 恥ずかしながら実は羽田圭介さん初読み。めっっっっちゃくちゃおもしろかった。文章がすごく読みやすい。プロに対して文章が読みやすい、などというのは不適切な言い方だと思うけれど、作品によっては文字が上滑りするというか、ぜんぜん頭に入ってこないものもあって、これは難解な言葉/表現の使用頻度が高いとかではなく、単純に文体の相性なのか、そもそもわたしの集中力や読解力が足りないせいというのもあるのだろうけれど。とにかく、すごく読みやすくて、内容がしっかり頭に入ってきたのでかなり集中して読めた。
 主人公の華美はとても合理的。株式投資をしており、将来的に自分のお金をどれくらい増やせるかということをつねに考えている。友人から結婚式の二次会に招待されても、それにかかる会費、交通費、三次会まであったときにかかる費用を算出し、そのお金(合計1万2460円)があれば配当利回り5%だとして十年後には1万6289円、二十年後には2万6533円になる……ということを考えて招待を断る(!)

<結婚おめでとう! よかったね、我がことのように嬉しいよ~。
そして、本当に申し訳ないんだけど、その日出張が入っちゃってて……>

 華美が送った友人への断りメッセージ。わたしが打ってるのかと思ったわ。

 

 合理的に、お金を増やすことを考える華美とは対称的に、同じ職場で働く恋人の直幸は、お金をつかわず生きようとするコミュニティ(ムラ)にハマっていく。コミュニティ内では「シンライ」がお金のかわり。だれかのためになにかをしたことによって「シンライ」がたまり、自分がなにかをしてほしいときに「シンライ」を支払う。目に見えない「シンライ」をやりとりする直幸と、こちらも目に見えない財産「株式」を増やそうとする華美。

 

 しかしいざ成長したらどうなるか、リアルな想像はしていなかった。部屋の景観を良くするために買った植物に、自分が住むスペースを奪われ、茎の徒長したアンバランスさも手放しで美しいとは感じられない。じゃあ株でいう損切りのような行為、つまりは燃えるゴミに出したりできるかというと、そんな気にも到底なれなかった。

 部屋に置いてあるストレリチア・ニコライが成長したら、という場面。植物と株の成長を重ねて、結局どちらも邪魔になる、それによって生活が脅かされる、という想像をさせるところがすごくおもしろい。

 

最近の自分には、人からの信頼が足りない。使うべき局面で金を使えない人間は、死ぬ。そこには人間の精神の死も含まれるだろう。自分が人間であるべきかどうか問われているような気が、華美にはした。

 華美はお金を増やす、貯めることを優先としているけど、株式投資のために普段ケチくさい生活を送ったり、友人や直幸からの信頼を失っていくことで、すこしずつ意識が変わっていく。ムラに定着してしまった直幸を迎えに行くため、高いお金を支払い傭兵を雇ってムラに乗り込むところは、華美が今まで積み上げてきたものを崩すことになったけど、なんというか、すごく信頼できる姿で読んでいて気持ちがよかった。わたし自身は株はやっていないけれど、前に株主優待について調べたことがあり、ほんのりと知識があったこともよかったのかも。
 タイトルもいいよね。Phantom。まぼろし


 5月号の文學界では、詩の特集も組んでいて、もっとやってほしい~~!(自分が詩にあかるくないからこういうかたちで知っていきたい)。

雪のように溶ける詩を目指して(高橋睦郎谷川俊太郎対談)

 これも恥ずかしい話なんだけれども、本当に詩にふれてこなかったから、谷川俊太郎さんの詩もあまり知らないし、中学生のとき「春に」を合唱したのがいちばん作品に近くなった出来事なんじゃないか……。掲載されていた対談と「なぜ生きる」を読んで、つめたくないけどやさしくないというか、寄り添わないけれどそこにいてくれるというか、ちょうどいい塩梅の距離上にある作品だと思った。

いのちに理由はない
喜怒哀楽があるだけで十分だ

 諭されること、説かれること、がわたしはあまり得意じゃない。そういうのを感じ取ると、ただちにそっぽを向いてしまう性格をしているのだけれど、「なぜ生きる」、ちょうどいいところにいてくれるなあ。


異界の創造、ことばの矢印(最果タヒ・マーサ・ナカムラ対談)

 このお二方の作品も読んだことが……なく……。対談のなかに出てきた最果タヒさんの「グッドモーニング」が気になる。

(前略)「わたしは考えるとき文字にしなければいけないと思っています/やじるしをつなげていったりすると/たいへん考えることは面白いです」から始まる。一行書くと次の行が出てきて、そこに文脈が発生して、でもその文脈って自分の意図したものではなく、予想外のところに飛ばしてくれるもので。それに押し流されるように書いていると楽しいと思えます。(対談内、最果タヒさんの言葉)

 やじるし、素敵!


 あとは青木耕平さんのエッセイ「息子よ安心しなさい、あなたの親指は天国で花となり咲いている」がおもしろかった。こういうエッセイが好きなんですよ。わたしもこんなふうにブログ書いてみたい……。

 

 

 そんなかんじで取り留めなく書き、そして取り留めなく終わる。