今日もめくるめかない日

海とやどかり(わたしとインターネット)

f:id:mrsk_ntk:20210720125437j:plain

 インターネットは虚構の世界だと、昔言われたことがある。

 

 小学生のときだっただろうか(当時高学年になると、視聴覚室にあったパソコンを使えた。ザ・コンピューター!って感じの)。だれの言葉だったか、前後の文脈はなんだったのかは覚えていないけれど、ただ、「虚構」というのには素直に納得した気がする。

 

 インターネットではない世界、つまり家とか学校とか、ともだちの家とか、顔や本名、住んでいるところなんかを知り合っていて、直接話したり遊んだりできることができる世界は、現実世界。一方で、顔も本名も住んでいるところも知らないインターネットは虚構世界。存在が虚構なのではなくて、溢れかえっている情報は嘘かもしれないということ、虚構だと言ったひとはそういうことを伝えたかったのかもしれないが、小学生だったわたしはインターネットそのものが虚構なんだと思っていた。

  画面の向こう側に確実にいる「人間」をうまく想像できなかった(今みたいに、動画配信とかオンラインイベントなんかがあればまた違ったのかもしれないけれど)。画面の向こう側はいつももやもやっとした影があって、その影がなぜか勝手に文字を打ち出していて、「インターネット」ができあがっているようなイメージ。じゃあ今インターネットをしている自分はなんなんだよって感じだけれど、自分本位な性格のせいだろうか、他者の存在を認識できていなかった。

 

 とはいえさすがにいつまでももやもやっとした影が文字を打っていると思いながら成長したわけではない。画面の向こう側に「人間」がいることは、中学校、高校にあがるにつれ自然と理解していった。けれどやっぱりインターネットの世界は現実ではないと思っていたのは、相手のことを知らない、そして相手が自分のことを知らない、という理由からだと思う。

「知る」っていうのは意味が広い。本名や顔なんかを知っていれば「知る」になるのかといえばそうではないし、なにを持って「知る」ことになるのかはそれぞれだけれど、当時のわたしにとって、「現実世界のわたし」を知らないひとは、わたしのことを知らないひとだった。

 

 わたしを知らない相手だからこそ見せられることはたくさんあった。たとえば小説を書くこと。わたしがはじめて小説(らしきもの)を書いたのはたぶん高校生のころで、家族にも教師にも友人にも、だれにもそれは言えなかった。単純に恥ずかしかったのだと思う。

 本を読むことは褒められたけれど、「小説を書いている」と言えば、根暗だと思われる、仲間外れにされる、思春期あるあるなんだろうけれど、そういう不安がずっとあった(むしろ友人の前で読書をするのも憚られた。学校の子たちはみんなプリクラを撮ったり、かっこいい先輩の話で盛り上がったり、遠出しておしゃれな服を買ったり、そういうことに夢中になっていたし、そうであればそうであるほど人生謳歌のパラメータが上がった。ただmixiで日記を書くこともリア充の証とされていたのは今思えば謎だ)。

 だれにも言えなかったことが、インターネットではとても簡単に言えた。現実ではない虚構の世界だから、「わたし」を特定されないから、馬鹿にされないから(一定数“荒らし”はいたように思うが)、そして同じように小説を書いている「仲間」がいたから。

 今は小説投稿サイトがたくさんあるけれど、わたしが小説を投稿しはじめたときは、多くなかったと思う(「小説家になろう」とかはあったのかも)。ただ検索力もなかったわたしは投稿サイトに辿り着くことができず、出会ったのは学生用のポータルサイトだった。すごくかわいい2chというかんじ。ハンドルネームをつくって、好きなドラマや芸能人、ゲームとかアニメとか部活のこととかただの雑談とか学校の愚痴とか、ジャンルによって掲示板をたてられて、集まったひとたちで書き込んだりする場所だった。そのなかに、小説投稿というジャンルがあったから、そこに投稿してみた。

 

 インターネットはわたしにとってやさしい場所だった。現実世界では馬鹿にされるかもしれないことを、すんなり受け入れてもらえる。だれにも言えないことは、だれかに知ってほしいことだったし、わたしにとって「本当のこと」だった。わたしを知らないひとが、いちばんわたしを知っている。その矛盾にささえられていたようにも思う。

 偽物も本物もないだろうと今なら思うけれど、当時、インターネットに身を寄せ小説を投稿していたわたしは「本当のわたし」を見つけた気がしたし、見つけてもらえた気がした。虚構といわれる世界のなかで、「本当」があるのはとても不思議なことだった。でもきっと、こんなふうに思ったのはわたしだけじゃないはずだから、結局いろんなひとの「本当」が集まってできあがったのがインターネットなのかもしれない。それならもうインターネットは虚構じゃなくて、本当のことだらけだ。表面的な情報のことじゃなくて、深層からくる本当の情報。多くのひとが「自分にとっての本当のこと」を出し惜しみせずに打ち出してくれたから、わたしもそうできたのだろう。

 他者は自分の鏡なんていうけれど、パソコンの画面に映っていた自分は、世界のどこかにいるだれかでもあったのかもしれない。

 

 すこし話は変わる。その小説を投稿していた掲示板には、もちろんわたし以外にもたくさんの学生(自称ではあるけれど)がいて、多くの作品が投稿されていた。不思議と掲示板内でも派閥というかグループみたいなのができあがり(教室みたい)、親しくしてくれたひとも何人かいた。そのなかのひとりの作品で、今でも忘れられないものがある。読んだのは、もう十五年くらい前のことだ。

 タイトルは「やどかり」、書いたひとの名前ももちろん憶えているけれどここでは割愛。彦二という阿呆な少年が出てくる話だった。今まで商業、非商業とわりかし多くの小説を読んできたと思うけれど、その作品がとくに強くこころに残っている。単純にすごくおもしろかったのだろうし、わたしもこんな話を書いてみたいと思った。いま、わたしがぽつりぽつり書いているのは、あの作品から受けた影響が少なからずある。

 現在そのひとがどこでなにをしているのか全然知らないし、すごく勝手に「なにかを書いてくれていたらいいな」と思う。けれどそれをたしかめる術はわたしにはないし、もしそのひとが仮に書く仕事についていたとしても、文章だけで気づけるかといったらさすがに自信はない。ただまたあのひとに会いたいなあと思う。顔も本名も年齢も住んでいるところも連絡先も知らないけれど。虚構の世界で、「本当のわたし」と出会ってくれたひと、「本当のわたし」を引き出してくれたひとに会いたいなあと思う。 

 

 ネットサーフィンという言葉があるけれど(もう死語?)、たしかにインターネットは海だ。途方もない海。わたしはときどきその海を小さな筏であてもなく旅しているような気分になる。文字、写真、動画。いろんな情報で水面ができあがっていて、ある程度のゆきさきしかわからないままただそこを漕いでいる。手が届くところの情報には溺れないけれど、とおくに手を伸ばそうとすると、すこし危ない。いかんせん、わたしは漕ぎ方が下手なのでときどき無理して転覆することもある。太陽に近づこうとして燃えてしまったり(舟が大きければ大きいほど鎮火するのに時間がかかる)。

 手にした情報は、それでもいつか離れて過去の水面になる。別のだれかがそれにふれるかもしれないし、だれの目にもとどまらないかもしれない。そんななかで「やどかり」は、なんだかずっと、筏の端にいてくれている気がする。途方もない海にいても、流れずついてきてくれるものもたしかにあって、それはわたしにとって憶えておきたいもので、指針でもあるのだと思う。

「本当」にふれること、「本当」にふれてもらうこと。温度がないはずの文字に、水を掬うみたいにふれること、ふれてもらうこと。虚構の世界も現実の世界も、どちらも本当の世界ではあるけれど、「ふれあい」は、わたしはインターネットのほうが多かったし居心地がよかった。

 ただその一方で(やどかりのことを考えていたからかもしれないけれど)インターネットは宿でもあるんじゃないかとも思う。宿借り。インターネット上にいる自分が海を放浪しているのなら、現実世界のわたしは海が詰まった箱を宿にして生きている。箱のなかの海は、なるべく漏れ出ないといいな、と思う。隠しておきたいというより(もちろんそれもあるけれど)、そっとしまっておきたい。

 

 わたしは何者でもないから、だれかに影響を与えるということはそう多くない。ただ、何者でもなかったひとが書いた「やどかり」が、今もわたしの筏にあるように、インターネットという広く深い海のような場所で、いつかだれかが漂流したときに、急に現れる小さな島みたいに、わたしが書いた一文を、この先だれかが思い出してくれるといいと思う。

 

 ちなみに久しぶりに件の学生掲示板を検索してみたら今年三月に閉鎖されていた。「やどかり」を読む機会は、おそらくこの先ないだろう。時間が経つにつれ記憶も薄まってゆくと思う。けれどわたしが「やどかり」に出会ったことは虚構ではないし、この先も虚構にならない。

「文学」という言葉は広義的だし、なにをもってして「文学」とするのかはいろんな意見があるところだと思うけれど、単純に、心を動かしてくれたもの、特別なものとしてインターネット文学をわたしが挙げるなら、今までも、この先も「やどかり」であるだろうなと真に思う。

 

 

 

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」