今日もめくるめかない日

「折」について

 好きな日本語はたくさんある。ことばの意味を含んで好きなものも、意味はさておき単純に響き(漢字)が好きなものも。たとえば、ひぐらし/雨模様/うたかた/紙魚百日紅/すこやか/夏至/山吹色/てろてろ……ヒィーたまらん。字だけをずっと見ていられる。中毒性がすごい。夏至って、「げ」って濁点つくのに「し」によって濁りが相殺されているというか、「げし」って響き、とにかくすごくないか。夏に至るでげしって……。エモ力高すぎである。 

 

 大事なのは、気取りすぎていないことだ。これは使う文脈によって印象が変わるところだと思うけれど、とにかくそういうのはひとまず置いて、字単体を見る。とっさの印象による「気取りすぎていない」「野暮ったくない」「口にしたとき気持ちがいい」「重すぎないけど軽すぎでもない」「繊細すぎず図太すぎず」……などなどの基準がわたしのなかにあるんだけれど、べつにその基準を数値化しているわけではない。とにかく印象や直感で基準を決めているが、なにかを書くときはこの基準を満たしたことばを選んで書くようにしている。  
 わたし自身が使うとすると、という前提だけれど、たとえば、「薔薇」「雅」「朧気」「満月」はちょっと気取りすぎ。「玻璃」「湖上」、繊細すぎて使いづらい(どういう場面で使えばよいのだ…)、「モヤモヤ」、「カタチ」、カナにするととたんに使えなくなったり、「曖昧」はよく使うけど「曖昧模糊」は使えない。もちろん本来の意味を優先したら、ぴんとこないことばでも使うときはあるけれど。

 
 そんなかんじで、きっと人それぞれことばには多少なりともこだわりがあることと思う。そしてわたしが最近ときめいてやまないのが、「折」、これはすごいよ。
 まず「おり」という響きが美しいし(か細そうにみえて繊細すぎず! 脚がある、しっかり立っているかんじがする)「折る」という動詞にしても多くの可能性を秘めている。心が折れるとかにも使うけど、紙を折る、指を折る、手折る……なんかはもう、ヒョエー! である。 折る、というしぐさがまずいい。

 さらに、折り紙、折り鶴、手折り、三つ折り、折り合い、時折り(ときおり……!? ヤッバ)、折り襟、折り返し、菓子折り、折柄………ちょっとどうなっちゃってんの? 折がつく単語すべて美しい説ある。ここまででもう美しさに息絶え絶えなんだけれども、加えて「つづら折り」。つ、つづら折り……つづら折りって……九十九折りでも、葛折りでも可……(ヤバ)。日本語や、おまえいったいどういうつもりなのん……。そこらのもふもふ動画より中毒性あるよ。

 

 さらに、さらに、折と組み合わせることにより、とんでもない美しモンスターになることばがある。それが「折に触れ(て)」。

 お、お、お、おりにふれて〜〜〜〜〜!?!?!?!? は? もう「折」のポテンシャルがすごい。どこまで美しくなろうとしてんの? なんの意識か知らんけど、とにかく意識が高すぎる(でも「折」のそういう意識高い印象を受けないところもたまらないんですけどね…)
 折に触れて、機会があるごとにといった意味だけど、機会を折にしちゃうセンスやばすぎるし(だれが考えたの?)、しかもそれに触れるって?!?!?!?!?!?! まさに折に触れてつかいたいことばである……。むしろ触れなくてもつかっていたい。ときどき仕事のメールでつかえるタイミングがくるけれど、そのときのわたしの興奮度は正直言って最高潮である。
「当時のことを折に触れ思い出します……!(三点リーダー症候群)」などと涼しげな顔でメールを打っているが、その実(おっおっおっ、折に触れてをつかってしまった、ヒィヒィ、ヒッヒヒィーッッッ!! わたし、いま、折に触れてるーー!!!)というちょっと危ない思考になっている。

 

 響きや漢字、意味合いなどを含め、とにかくわたしはいま「折」に夢中! なんだけれども、「おり」の響きでいえば「機織り」もやばい。はたおり、字が実体を持つならさわりたい。だからわたしは活字が好きなのだろう。また、「折」は「せつ」とも読むけれど(「骨折」「左折」など)、「おり」の力には届かずともやはり「折」が入っているだけで一目置いてしまう。
 骨折といえば「骨折り損の草臥れ儲け」ということばがあるけれど、(意味はおいといて)草臥れもなかなかわたしを誘惑してくることばである。


 いったいなんの話だったんだ……感が否めないけれど、とにかく日本語にはこのようにこころをときめかせることばがたくさんある。わたしは発見するたびにメモする習慣をつけ、折に触れて見返すことにしている(ヒッヒヒィー!)。