今日もめくるめかない日

ペリカンに出会った日/記憶に残っている、あの日(kaze no tanbun 夕暮れの草の冠)

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 ペリカンが、いきなり目の前に降りてきたことがある。動物園内などではなく、そのへんの道端である。小学二年か三年くらいのことだったか、なにか小学校のイベントのために妹と二人で歩いていた。そのイベントがなんだったのか思い出せないが(どんど焼き? ゴミ拾い? とかそんな感じだったような)、とりあえずわたしたちは海に向かっていた。

 それはもう本当に突然のことだった。驚く暇もなかったというか、今思えばとても自然に、わたしたちの目の前にペリカンが降り立った。静かな着地であった。まわりにはとくにだれもおらず、わたしたち姉妹とペリカンが、その場に立ち尽くしていた。


 ペリカン。その姿ははっきり言って恐ろしいものである。あの口、すべてを飲み込みそうな口……。こわすぎる。さらに小学校低学年のわたしたちにとって、目の前のペリカンの大きさといったら、もうほぼ化け物である。あれ、ペリカンってどんな姿してましたっけ……と思ったひとは、画像検索してみてほしい。あの口の、如何ともしがたいでかさに対して目の小ささも不気味すぎる。
 そもそもわたしは鳥のかたちが苦手なんである。あのなにも考えてなさそうな、しかし永遠に奥まで広がっていくような宇宙みたいな目、細すぎる脚、ばっさばっさひろがる翼、全体的にアンバランスな身体の構造、そして嘴……。嘴こえ~~~。鳥はどうにも、得体が知れない。


 そんな得体のしれない生き物の頂点に近いものがペリカンである。どう考えてもおかしい、あの、喉……? 嘴からびろ~んとなってる膜……? 幼いわたしたち姉妹の前に、その怪しすぎる全貌を惜しげもなく見せ、しかも身長はわたしたちと同じくらいか、すこし高いくらい。冗談抜きで食われると思った。鵜みたいにぺろんと。

 わたしたちは声も出せず、ただ全身でペリカンの存在を感じていた。一歩も動けなかった。妹のほうを見ることもできなかった。あのとき、妹はかなり幼かったはずだが、泣かなかったのは褒めるべきことだ。たぶん泣いたり少しでも声を上げていたらわたしたちは食われていた……。
 そのうちペリカンは再び飛び立っていき(そういえばペリカンも鳴いたりとかしなかった)、わたしと妹はなんとか事なきを得た。家に帰って母親にペリカンが、ペリカンがとひたすら説明したが信じてもらえず、後日地元の新聞に「動物園からペリカン脱走」という記事が載ったことでやっと信じてもらえた。

 

 強く記憶に残っているし、なんなら今でもときどき妹と「あのときのペリカンまじでこわかったね」という話をする。だから確実にあったことなんだけれども、約二十年経った今、「あの出来事は本当にあったんだっけ」と思うことがある。ことあるごとにこの話をいろんなひとにするが、大体「うそだ~(笑)」と言われてしまうので、自分のなかでも事実かどうか曖昧になっているのかもしれない。

 ペリカン事件に限らず、多くのことは時間がたつにつれて薄れていくものなのだと思う。いくら印象深い出来事であっても、記憶が記憶として作用していないというか、わたしが勝手に記憶をつくっているというか。多かれ少なかれ、記憶というものは美化されたり悲劇化されたりするものだけれど、実際の記憶とのズレが生じていく気がしているのは、すこしさびしいものでもある。

 

 ただ、読書をしていると、薄れていた記憶が突然色濃く呼び覚まされることがある。読書の愉しみ方のひとつとして「追体験」が挙げられると思うけれど、わたしは追体験というより、実際に自分の記憶を呼び起こされることのほうが多い(追体験を自分の記憶とまぜている可能性もあるが)。ふとした会話や、昔見た景色なんかがふいに思い出されると、その小説はわたしにとって特別なものになるし、忘れていたことを思い出せるというのは、不思議と新しい自分になっていく感覚がする。
 今回、このペリカン事件のことをありありと思い出したのは、「ペリカン」(蜂本みさ)という作品を読んだからである。

www.kashiwashobo.co.jp

 こちらの「kaze no tanbun」シリーズ「夕暮れの草の冠」に収録されている短文。わたしはこのシリーズをはじめて手にとったのだけれど、なんだか昔通ったような気がする、なつかしいにおいが漂ってくるような作品集だった。「夕暮れの草の冠」というタイトルがすごく合っていると思う。

 わたしは夕暮れに草の冠をつくったことはないと思うんだけど、でも読み終わった今、すごくそれを「つくったような」気がしている(これが存在しない記憶ってやつなのか……?)。

 とはいえノスタルジー全開というわけでもなく、不思議で不穏で、と思えばふいにあたたかい、何度も大事に読みたくなる作品ばかりであった(装丁もたいへん素敵!)。


 そのなかの「ペリカン」である。‭「天使が沈んでいる」と噂される池におとずれる四年生の早希子。「天使」というのは転校生で、読み方はえんじぇる(!)。ほとんど学校に来なかった天使が、親の都合でまた引っ越した、というのがついに「殺された」という噂にまで発展し、真相を確かめるべく早希子は一人池にやってきたのだが、そこで出会うのがペリカンである。

 もし、幼少期に突然ペリカンが目の前に現れたという体験をしていないひとがこの作品を読んだらどう思うのだろう。「ぺ、ペリカン!?」と急に現れるペリカンに驚くのだろうか。「なぜペリカン!?」と考えるのだろうか。それとも「たしかにペリカンがいてもおかしくないな」と納得するのだろうか。

 幼少期に突然ペリカンが目の前に現れたという体験をしたわたしは、ペリカンがそこにいるのが当たり前だと感じたし、なんかもうペリカン以外にありえないと思った。早希子と当時の自分の歳が近いのもあったのだろうか。早希子は当時のわたしのように妹と歩いているわけでもないし、そもそもわたしはただの学校のイベントに行く途中だったし、池を歩いていたわけでもなかったし、作品のなかでかぶることはペリカンが目の前に現れた、それだけだった。けれど「あ、これわたしじゃん」と思うと同時に、ぼんやりとしていた実際の自分の記憶が象られていった。

 あのとき、わたしと妹は手をつないでいたんじゃなかったか、歩いていたところは海に続くボードウォークだった気がする、ペリカンが飛び立ったあと、わたしたちは目を見合わせて、互いの恐怖を共有しあったんじゃなかったか……「ペリカンと遭遇したことがある」というだけだった記憶に色がついて、体験を追うというよりも、体験に追いついたという感覚だった。

 

 ペリカンと対峙しなにもできなかったわたしと違い、勇敢にもペリカンと悶着する早希子。そんなふうに、わたしもあのとき動けていたら、というわずかな羨望(絶対に無理だが)と、結局見つからなかった天使やペリカンの奥にいた女の子の謎、真夏の夕方にこわい夢を見るときのような不穏さを感じる「ペリカン」。ペリカンと対峙したことがなくてもおもしろいはずです。

 

 記憶に残っているあの日のことが、なにかを読むことによってさらに記憶に残る出来事となる。「夕暮れの草の冠」は、なにかを思い出したり、自分の記憶がそっと色づいたりするような一冊だった。
 
 ちなみにペリカンは今でもこわい。できるならもう二度と実物は見たくないと思っている。

 

 

 

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」