今日もめくるめかない日

分断の狭間(アンソーシャル ディスタンス/金原ひとみ)

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アンソーシャル ディスタンス/金原ひとみ

 この一年半、「コロナが落ち着いたら」「コロナが収束すれば」の未来たらればを使いまくっている。それは一見、希望を捨てていないような、明るい未来を描いていますよ的な前向きな言葉に聞こえるけれど、これも「あのときああしていたら」「こうしていればよかった」の過去を悔やむたらればと同じくらいの無責任さがあるんじゃないかとふと思った。

 どこかで今の状況をまだ認めないようにしている。問題を先延ばしにしている。だれかがどうにかしてくれる、と思っている。とてつもなく「長いものに巻かれる」ように、休日の外出を控えてマスクをして消毒をして給付金をもらって検温をして予定していた結婚式を延期縮小してワクチンを打ってセルフレジを使って選挙に行って医療従事者へ寄付をしてアルコールをかけて、それから出社して「早く落ち着くといいですね」と取引先にメールを打っている。どれも自分が考えて行動していることなのに、大きいなにかに操られているような気になる。わたしはずっと、なるべく正しいことをしようとしている。

 Go Toトラベル政策の際、行けなくなった新婚旅行のかわりに国内旅行に出かけたけれど、最初は楽しかったのに途中からじわじわ襲いかかってくる罪悪感で死ぬかと思った。早く家に帰りたかった。正しいことをしようと強く思うようになったのはたぶんここからだ。

 ときどき、コロナ禍における「正義」に押し潰されそうになる。もちろん自ら「悪」を働こうとは思わないけど(たとえばマスクを外してめちゃくちゃに飛沫をとばすとか)、コロナ禍によってうまれた「正義」は、ときどきしんどい(自分がした旅行も人によっては悪だった)。Twitterのリプ欄とか引用リツイートとかヤフーニュースのコメント欄とか、なんかもはや地獄ツアー。しんどいのに、自分の意見とのすり合わせのために見てしまう。

 

 すでに多くの人が言及していることだと思うけれど、この一年半でいろんなことが分断されてしまった(あるいはもともと分断されていたけれどそれがわかりやすく可視化された)。自分がいる場所と反対にいる人のことは敵とみなしてそれぞれの正義をかかげて罵っている。分断は目に見えて起こっている。でも、分断の狭間にいる人間も多くいる。というのが金原ひとみさんの「アンソーシャル ディスタンス」を読んで思ったこと。前置き長くなっちゃった。

 

www.shinchosha.co.jp

 わたしが中学生のころ「蛇にピアス」が芥川賞を受賞し、それからずっと作品を読み続けている。なぜ読み続けているのだろう……と、ときどき考える。金原ひとみ作品はなんかすごく癖になる。共感することはほとんどない。もし本気で「金原ひとみ作品には共感しかない」と言う知人がいたら、「え、マジ……? なんかあった…?」とわたしも本気でその人のことを心配すると思う。

 金原ひとみ作品は、閉塞的なものが多い。一対一(女:男)、あるいは一対二(女1:男2、ときには男3←本妻現る)、の構造で話が進んで狭い世界のなかでいろんなどうにもならないこと、クソなことに対してクソだとわめきちらす。それが初期の作品のイメージ。


 けれどそれからどんどん作品のなかの世界はひろがっていく。一対一(女:男)、あるいは一対二(女1:男2、ときには男3)でクソなことに対してクソだと言うのはやっぱりあるんだけれど、他者が増えてくる。社会性のなかった主人公に、少しずつ社会性とか理性がついてくる。ちょっと前なら、がんがん酒飲んで意味わからないくらい理性ぶっとんでどうしようもない男とどうしようもないセックスして「このクソな男と死なばもろとも」と思っていたような女が、なんと翌日会社に行くようになったのである。自分のことをもクソ女と言っていた女が、ちゃんと起きてだるい体に鞭打って会社に……大人である……まあ会社に行くようになったからこそさらにどぎつい閉塞感で苦しめられているというのもあるんだけれど。

 わたしはスプリットタンをしたことも実際に見たこともないし、べろべろに酔っ払って第二の人格が生まれ意味わからない錯文を書いたこともないし、「笑うな」と言う冷たい男を恋人にしたこともないし、とつぜん男に後ろから刺されたこともないし、獣姦をもくろむやべー男とルームシェアしたこともないし、クソアマ!と叫ばれたこともないし監禁まがいのことをされたこともないし無意味な領収書を店員に切らせたこともないし年下のやたら懐いてくる男と不倫をしたこともないし自分で太ももを刺すこともしたことないし超高級な服をめちゃくちゃなかんじで買ったこともないし愛人の妻のふりしてタクシーに乗ったことないし換気扇のなかに死体があるなんていう妄想をしたこともないけれど、「一歩間違えていたらわたしもそこにいたんじゃないか…?」とは思う。たぶんその「やべえかんじ」が癖になって読み続けているのだと思う。

 


 そして「アンソーシャル ディスタンス」。五つの作品が収録された短編集で、やっぱりどれも「やべえかんじ」てんこもり。しかし「一歩間違えていたらわたしはそこにいたんじゃないか…?」というより、「わたしはもしかしてすでにここにいるんじゃないか…?」と思わせるような、今までがどこか非日常(それでもリアリティえぐいのが不思議)だったのに対して、「アンソーシャル ディスタンス」はめちゃくちゃ日常を突きつけてきた。えぐいリアリティのある日常、見ないようにしていたところにあっけなく突き落とされる、ていうかその見ないようにしていたところは地獄そのもの、わたしたちは地獄と共生しているのである……ということを容赦なく叩きつけてきた。やべえ。

 

ストロングゼロ

 収録されているのは「ストロングゼロ」「デバッガ―」「コンスキエンティア」「アンソーシャル ディスタンス」「テクノブレイク」の五編。金原ひとみ作品は、酒がよく出てくるのも特徴。わたしがジントニックを昔よく飲んでいたのは間違いなくこれの影響、なに自らやべえやつになろうとしてるんだ……。若さ特有の情緒不安定期やべえ。テキーラアブサンには手を出さなかったけど。

 そしてついにストロングゼロがきた、ジントニックテキーラアブサンもだいたい店に行かなくちゃ飲めなかったけど(しかし金原ひとみ作品ではたいてい常備している)、ストロングゼロはコンビニでもスーパーでもめちゃくちゃ手軽に買えてしまう魔の酒。調子乗ってロング缶を買うと翌日マジで痛い目見るという魔の酒。

ストロングゼロ」の主人公ミナには問題が山積み、病んでなにもしなくなった同棲中の恋人行成の世話、同僚の元彼裕翔とのだらだらした浮気、編集者の雑務、読まなくてはいけない大量の原稿、うわあああもう考えただけで超めんどくさい現実。くそったれすぎる。そういうわけでミナは家でも会社でも(コンビニで売っているアイスコーヒーのカップに炭酸水だとごまかしてストロングゼロを入れて飲んでいるのである)いつでもどこでもストロングゼロを飲んで限界迎えて、でもそんななかでもやはり理性が残っている感じがしんどい。突き抜けられないもどかしさ。


 前はもっと、「もうなんでもいいわ~どうにでもなりやがれ」なやけくそ感と放棄感があって、でも勢いがあったから、はちゃめちゃだけど、なぜかそれこそ「どうにかなるのかも」という感覚があった。

 けれど「ストロングゼロ」はどうにもならない。ここまで書いて思った。みんな大人になってしまったんだ。大人になったというか、年を重ねて社会で生きていかなくちゃならなくなって、「どうにかなるのかも」は「自分がどうにかしなくちゃいけない」になってしまって、だからやるせなさだけが残ってしまうのだ。そしてそのやるせなさは自分の生活に重なって、最後の一文に心臓ひゅっとなる。鳥肌たつ。結局最初にいた場所から一歩も進めていないという現実にぞっとする。さてその一文をここで引用しても意味がないし知ってしまうと作品のおもしろさ半減、というかゼロになってしまうので(!)、気になったらぜひぜひ読んでみてね。もどかしさは突き抜けられないのに、作品はめちゃくちゃ突き抜けてる。

 

デバッガー

 金原ひとみ作品は繰り返すようだけど、とにかくクソな男やクソな女の登場比率が高い。クソの種類はいろいろあるけど、ありきたりな言葉でいうと、「その人と付き合ったら絶対幸せになれないよ……!」というようなクソだ。

 しかし「デバッガー」に出てくる男はクソじゃない、「この人なら幸せになれるんじゃない……?」と思えるような男、クソじゃなくて逆に不安になる。クリエイティブディレクターとして働く三十五歳の主人公愛菜、十一歳年下の部下の大山くんと恋仲になり、自分の肌の老化を気にしはじめて美容整形の沼にはまっていく。老化はバグ。バグを修正しようと躍起になって、「逆に不安」が二人の距離を乖離させていく。いろんなことに不安になってどうしようもなくなって、なにもかもがわからなくなって、「最終的にビールを飲んだ」。さすがである……。これが金原ひとみである。そしてこちらも最後の一文にやられた。また、一歩も進めていないむなしさを思いきり突きつけてきた……。どうしてまともになれないんだ……いい加減幸せになってくれと金原ひとみ作品に出てくる人物全員に思う。でも、そのむなしさはときにやさしさにも思える。

 金原ひとみ作品は、「生きやすそうにみえてめちゃくちゃ生きづらい人」を描いていると思う。小説の多くは、生きづらさを抱える人間に寄り添ってくれる。生きているといろんな生きづらさがある。わたしたちはときどきで、寄り添われる小説を選んでいる。そして生きづらさとはわかりやすい言葉で言えば「弱さを抱えている人」で、ていうかそんなの全員なんだけど、なかにはその弱さを自覚していない人、弱さだと気づいていない人、自分の感情に鈍感な人、それなのにめちゃくちゃだれかを求めてしまう人、求め方がわからない人、でも弱さを自覚していないから強く見える人、強く見えてしまう人がいて、そういう人に寄り添っているのが金原ひとみ作品なのだと感じる。

 強く見えてしまう人は、甘えられない(だからクソな男に甘えてしまったりするんだ…)。甘え方がじょうずじゃない人間を描くことは、同じくじょうずに甘えられない人間にとって安心する。そして登場人物たちが幸せにならないことに安心する。今までのクソな人生をなしにして幸せになるなんてひどい裏切り、ままならずどうしようもないまま作品が終わるのは、これ以上ないくらいのやさしさなのだ(でもいい加減幸せになってくれ……)。

 

コンスキエンティア

 そしてとくに「いい加減幸せになってくれ……」と願わずにいられなかったのが「コンスキエンティア」。セックスレス、会話ほとんどなしの夫から逃げるようにメンヘラ気質のある男、奏と不倫をする茜音、離婚をし奏との結婚も考えるが夜中の急な呼び出し、もう会わないやっぱり会いたいの繰り返しの超絶疲れがたまる付き合いの果てにいつしか連絡がつかなくなって、今度は友人の弟龍太と不倫に走り、かと思えばいきなり夫がかかわってきたり、奏からまた連絡がきて会いに行ってしまえば部屋がおどろおどろしいしもうどうしようもないし健全なかわいい男の子だと思っていた龍太もいつのまにか怪しい精神状態になってくるし(しかしその予感は最初からあった……)また奏から連絡が入るし、もう疲れちまうよ……終わりにしてくれこんな現実……。なのに出かける前に化粧はしっかりするし、ビジネスメールもちゃんと打つし、なんなら絶対デザイナーの男と寝るし、頼む……コンスキエンティア、これはラテン語で「意識」という意味らしいけれど、意識を、自我を、見つけてほしい……。でも見つけられず自分のもとにまいこんできた流れにのまれてながされていってしまうのが「狭間にいる人間」、そしてその狭間感はたぶん多くの人間が持っているどうにかしなくちゃいけないとわかっているのに、どうしようもできない感覚、分断されている世界のどちらかにいこうと思ってもむり、むりむり! 考えるの超めんどくせー、だからすることがはっきりしている仕事をこなすのが楽、わかる。

 そしてその狭間感を痛烈に描いているのが残りの二編、「アンソーシャル ディスタンス」「テクノブレイク」、言っておくけど、やべえ。

 

ほかの作品について

「アンソーシャル ディスタンス」、タイトルがまずやばい。完全に代表作になるこれは。いや代表作もちろんいっぱいある、もし「金原ひとみ蛇にピアスの人だよね!」などと代表作=蛇にピアスだと思っている人がまだいるなら、今すぐその価値観をアップデートしてほしい。「蛇にピアス」ももちろん代表作ではあるよ、衝撃的なデビューでしたよね。あともし「アッシュベイビー」を読んで「やべえ」と思い離れてしまった人がいるなら戻ってきて(はじめて読んだ日から十年以上たつけど、この作品はいまだに読み返せないトラウマ)。はっきり言って金原ひとみ作品は全部が代表作、毎回「きてる」作品ばかり、たとえば「憂鬱たち」の思わず生唾のんじゃうぶっとんだドエロい妄想、憂鬱が快感になる感覚、しびれるぜ。「どのウツイくんとカイズさんが好き?」だなんて話をだれかとしてみたかった……。

books.bunshun.jp

 

憂鬱=快感! いらいらしている全ての人に

神田憂、ウツイ、カイズ。男女三人が組んずほぐれつする官能的なドタバタコメディ。現実とエロティックな妄想が交錯し暴走する!

 組んずほぐれつ、と官能的、とドタバタコメディが一緒になることある?

 

 また、わたしがいちばん好きな「AMEBIC」。なにがすごいってなにもかもすごいんだこの作品は。もう意味わからんが、わたしが句点も読点もない勢いありまくりのぐちゃぐちゃな文章を好むのは絶対この作品の影響。まじで出てくる錯文ずっと読んでいたいけどずっと読んでいたらなんかどっかおかしくなる。ブログの最初に金原ひとみ作品にはほとんど共感できないと書いたけれど、「AMEBIC」だけは、なんとなく、本当にちょびっとだけ、分裂していく感覚は、共感できる、気がする(断言はできない)。はきとし。

books.shueisha.co.jp

 


 お子さんを出産されてから発表した「マザーズ」、本当に産んだばかりでこれ書いたの……? いや、産んだからこそなのかもしれないけれど、絶望的になる子育て話、でもわたしはやっぱり「き、きた……」と思った。初期の作品は、とにかくぶっとんでいて、かたちがどろどろしていて、ぐちゃぐちゃでつかみにくいんだけど、このあたりからわりとかたどられてくる感じがあって、それが「他者」の存在だと思う。他者は近所の人、そして夫、そして子ども、会社の人など。わたしたちが当たり前としている人付き合いは金原ひとみ作品だと圧倒的「他者感」になる。そして他者がずかずか踏み込んできてもいつも一切の手加減なく、金原ひとみはどうしようもない閉塞感をぶっこんでくる。これからも、ついていくぜ……。

www.shinchosha.co.jp

 


  ちなみにもし金原ひとみ作品を読んだことないという方いたら、はじめてにおすすめしたいのは「ハイドラ」です。

www.shinchosha.co.jp

 

アンソーシャル ディスタンス

 話が脱線してしまったけれど、とにかく「アンソーシャル ディスタンス」、最初の三篇はコロナ禍がはじまる前に書かれたもの、そして残りの二編がコロナ禍がはじまって書かれたもの。「アンソーシャル ディスタンス」は若い男女が生きがいとしていたバンドのライブがコロナによって中止になり、絶望して心中しようとする話だ。

 リスカパパ活、堕胎などを経験してきた沙南は人生に絶望している。そしてそんな沙南と付き合っている幸希もまた絶望しているが、沙南から見た幸希は、言ってしまえば絶望感が足りない。本当に自分と死のうと思っているのか? 心中を企てた二人が陥る一方的な希死念慮によって互いの距離にズレを感じる。

 あ、このズレがずっとわたしたちが抱いている分断の狭間そのものなんじゃないか? 学校が嫌だ、仕事が嫌だ、「正しさ」を集めた神経質な母親が嫌だ、なにもかも嫌だ、そんなふうに絶望している幸希だけれど、それでもなんだかんだで卒なく学校生活を過ごして内定ももらってきている。卒のない人間は、どこか強く見える。大丈夫、と思わせる。そして実際、旅行先で「生きる可能性」を提示する幸希は沙南に比べたら「大丈夫」なんだろう。だけどそれは相対的に見た「大丈夫」で、幸希は実際大丈夫じゃない、大丈夫じゃなくなる、生きるほうにも死ぬほうにもいけない分断の狭間で、渦中に埋もれていく。問題を先延ばしにして、死に傾いていた現実から狭間の現実に戻って、幸希はおそらく文句を言いながらも嫌でしかたがない仕事をする。それってすごく絶望だし、だけど希望でもあるし、今わたしたちの多くがそうやって生きているのだと思う。わたしたちは、たぶんだれも大丈夫じゃない。

 

テクノブレイク

 そして「大丈夫じゃない」の沸点を超えてしまった「テクノブレイク」。狭間から分断側に寄った主人公芽衣、感染をおそれるあまり消毒消毒消毒テレワーク外出自粛消毒消毒消毒……を守り恋人の蓮二が来訪したらしっかり手を洗うこと、外に出るときは必ずマスクをすること、個包装のものを使うこと、そのへんにマスクをぽいっとしないこと、などを余儀なくする(でもそれは「正しい」行為だ)。

 コロナ禍によって分断されたことは数え切れないほどあるが、ひとつ挙げるなら人の意識の違いだ。良くも悪くもそれぞれの本質が浮き彫りになった。この意識の違いでわたしたちは仲の良かった人と切り離されたり切り離したりが少なからず起こった。わざわざ密の場へ飲みに行く人に不信感を抱くようになった、極端な楽観的思考をする人が怖くなった、買い占めする人を敵のように思った、外へ出るなマスクをしろ営業するな「警察」と関わりたくなくなった。そして芽衣は、とても愛し合っていた蓮二が外から家に入ってくるのを見て、ウイルスだと思うようになった。

 そのどれも「間違っている」とは言えなくて、だからこそ決定的な亀裂ではなく、少しずつヒビが入り、わたしたちは分断されてきた。「テクノブレイク」では、ウイルスから自分を守るため恋人との接触を断つ。ここまでしっかり対策をする人は、狭間よりも分断された側だ。けれど結局は孤独に耐えられず再び恋人の接触を望み、狭間に落ち、けれどそこで恋人と元どおりになるわけじゃない、恋人との距離は分断されたままなのだ。ほんと、ままならねえ……なんなんだよ、なんでそんな生き方へたなんだよ、テクノブレイクって、テクノブレイクって、あまりにテクノブレイク………(意味を調べてひっくり返った)。

 

 確実に正しい場所はたぶんない。狭間だろうが分断側だろうが、わたしたちはそこに閉じ込められている。ずっとマスクをしているような閉塞感がまとわりついている。いったいこの状況でわたしたちができることなんて限られていてクソッタレと本当に思う。ただわたしは「コロナが落ち着いたら」とか、「収束すれば」に楽観的なだけの希望を込めたくない、コロナがなくなる/共生する未来を、問題を先延ばしにして他人任せにしてぽへ〜っと待っていたくない、今いる現実を現実的に見て生きていたい。

 だけどなにもかもわからなくなるときも嫌になるときも面倒になるときもあるだろう、たぶんわたしはそうなったとき、最終的にビールを飲む。