今日もめくるめかない日

生むこと(夏物語/川上未映子)

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 昔、といってもほんの数年前まで、とくに大きな疑問も持たずに、(おそらく)まわりにいる人たちが自然にそう思ったように、「いつか子どもがほしい」と考えていた。
 そういう考えは決して間違いではないだろうし、必ずではないにしろ、自然と芽生えてくる感情なのだと思う。子どもがほしい、と考えて生む(産むではなく)側の人間の状況は人の数だけあって、ほとんどの人が覚悟や責任、愛情を持って子を生んでいるだろう。

 わたしは出産を否定したくないし、自分が生まれてきたことに絶望的なほどの絶望を感じたことはない。本当は、こんなふうに考えることも怖かったけれど(それは今までの自分やたくさんの大切な人の考えを否定することになるんじゃないかと思っていたから)、それでも考えて、認めて、そしてまた考えなくてはいけないことなのだとも思う。
 出産は生む側のエゴだ。「夏物語」を読んでから、それをずっと考えている。

 

夏物語/川上未映子

books.bunshun.jp

大阪の下町に生まれ育ち、小説家を目指し上京した夏子。38歳になる彼女には、ひそやかな願いが芽生えつつあった。「自分の子どもに会いたい」――でも、相手もおらんのに、どうやって?
周囲のさまざまな人々が、夏子に心をうちあける。身体の変化へのとまどい、性別役割をめぐる違和感、世界への居場所のなさ、そして子どもをもつか、もたないか。悲喜こもごもの語りは、この世界へ生み、生まれることの意味を投げかける。
パートナーなしの出産を目指す夏子は、「精子提供」で生まれ、本当の父を探す逢沢潤と出会い、心を寄せていく。いっぽう彼の恋人である善百合子は、出産は親たちの「身勝手な賭け」だと言う。
文藝春秋BOOKSより引用)

 読んだのはもう一年前で、この本を読んでいるあいだは読むこと以外のことをするのがもったいない、というくらいの勢いでかじりつくように読んだ。それからずっと感想を書き残しておきたいと思いながら、この作品と向き合うことがうまくできなかった。自分の答えを今すぐ出す必要がないとわかっているし、その答えが必ずしも間違いになるとも思わない。子どもがほしいという思いは今もある。ただ子どもを生みたいという思いと、出産は親のエゴであるという思いがどちらもわたしのなかに沈んでいて、向き合うのが怖かった。
 先日、クローズアップ現代プラスで精子提供についての放送があり、川上未映子さんがゲストとして出演していた。その際、「どんな立場であろうと出産は親のエゴ」だとコメントしていて、やっぱりそうだよなって思った。それは決して悲観的な「やっぱりそうだよな」じゃなくて、それが大前提であると考えることからだとあらためて気づかされた。そして自分が今どう思うのか、どう向き合っていこうとしているのかを残しておこうという思いでこれを書いている。

www.nhk.or.jp

 

「夏物語」は本当に大長編! 芥川賞を受賞した「乳と卵」に出てくる人物たちのあたらしい物語になっている。豊胸手術についてのあれこれ、女子中学生がかかえる生理(身体の変化)への嫌悪感や不安、作家としての仕事、女と男、生むこと、生まれてくること、生きていくこと、本当にたくさんのことが描かれている作品だ。

 読んでいると、自分がいかに今まで鈍感にこの世界を生きてきたんだろうと思う。鈍いことはもしかしたらある意味で幸福なのかもしれないけれど、もう鈍感ではいられないし、鈍感なふりもできない。「夏物語」はこの世界に生まれること、そして生むことについて考えられずにいられない。

 自分の子どもに会いたいと願う夏子に、パートナーはいない。そして夏子は選択的シングルマザーとして出産をしようと考える。国内の医療機関精子提供を受けられるのは夫婦のみ、相手のいない夏子は海外の精子バンク、またはネットで精子提供を行っている機関を探す、あるいは個人提供をしている男性から精子を受け取るという方法になる。
 個人提供をしているという男性のブログにメールを送り、その男性と会うことになった夏子。その男性は恩田といい、自分の精子をこまめに検査している、いかに自分の精子がすごいかを熱弁。そして注射器希望と伝えてあるのにもかかわらず「キットとかを一覧にした紙、わたしちゃんと作ってましてそれ渡しますからね」と言いながら「本当の強さにふれてもらいたいっていう気持ちもありますしね」と「直接」精子を渡そうとする手段をほのめかしてくる。きもちわるい。精子提供を行う人がきもちわるいのではない。たくさんの、どうしようもない事情から精子をのぞむ人間を搾取しようとする考えがきもちわるい。でもなかにはこういう人間もいるんだろう。
 
 そして恩田のような人間から精子を提供してもらい、実際に出産した人がいる。それは恩田のような人間からもらうしか方法がなかったといえるし、そうまでして生みたいと強く思う人がいるということだ。恩田と話して疲れ果てた夏子が感じた孤独、精子提供を受けての出産を「不自然な方法」だと思う気持ちに、わたしはどんどん「出産ってなんなんだろう」と考えていくようになった。
 たとえば夫婦戸籍があって、だれからも望まれるかたちで出産する人がいる。たとえば夫婦どちらか(あるいは双方)の事情で妊娠できず医療機関から精子提供を受け出産する人がいる。たとえばSNSで出会った人から精子を受け取り出産する人がいる。どんな状況であっても出産は出産で、生むということは同じで、「方法なんて本当はたいした問題ではなく」て、どんなにまわりが祝福しても、どんなに親が覚悟を決めても、生まれてくる命は親のエゴ。

 AIDで生まれた善百合子は、夏子に「あなたはどうして、子どもを生もうと思うの」と問いかける。
 生む側にはいろんな理由が、いや実際には理由はいらなかったとしても、いろんな答えがある。子どもに会いたい、育てたい、幸福を教えたい、さびしいから、かわいいから、老後の面倒を見てほしいから。

 善百合子の言っていることが極論だとしても、極論とは言えないのだよなと思った。わかってる、実際に子どもを生む多くの人たちが子どものことを考えて生んでいることを、生まれてきた子どもを愛していることを、わたしはわかっているけれど、それでもどうしても、「子どもを生む人は、みんな自分のことしか考えない。生まれてくる子どものことを考えない」という善百合子の言葉を否定できない。

 善百合子は「出産は賭け」だと言う。たとえば小さな家に、十人の子どもが眠っているというたとえ話。わたしはきっと、この話を一生忘れることはない。

 眠っている十人には喜びも嬉しさも、悲しみも苦しみも存在しない。今はただ眠っているだけだから。「あなた」はその十人の子どもを全員起こすか、全員眠らせたままにしておくか、どちらかを選べる。もし起こしたとしたら、九人は起こしてくれたことを嬉しく思う。けれど残りの一人は生まれた瞬間から死ぬまでのあいだ、つらい苦痛が与えられることがわかっている。その苦痛からは逃れられなくてずっとその苦痛のなかで生き続ける。十人のなかのだれがその苦痛を与えられるのかはわからない。子どもを生むというのは、そういうことだ、と言う。
 この答えは到底出せそうにないし、一体どうすればいいのかわからない。わたしは自分の親を恨んだことはないし、むしろとてもだいすきだし、この話のなかでいうなら、九人のうちの一人になる。じゃあそれで、「ああよかった。じゃあわたしもこの幸福な世界を知ってもらうために自分の子を生もう」と思うのは、たしかになんて身勝手なことだろう。


 善百合子は反出生主義の思想を持つ女性。川上未映子さんと永井均さんの対談で反出生主義について掘り下げられています。

web.kawade.co.jp


 この対談を読んでわたしはますます生まれること、生むことの善悪についてわからなくなり、結局作品を読んで一年、向き合えてこなかった。

 最初に書いたように、わたしは出産を否定したくないし、する気もない。今生まれて生きている人は結局みんなだれかのエゴで生まれてきた命だし、それでもわたしにはだいすきな人がたくさんいる。こうやって思う気持ちもただのエゴなのかもしれないけれど。だから善百合子が言う「賭け」も否定できない。生まないという選択をする考えも、もちろん否定したくない。ただわたしは、夏子が出した答えにとても安心してしまった。安心して、だけど少なからずつらくて、それでも安心して、なんだかよくわからない涙を流したのをおぼえている。今は、それがわたしの答えなのだと思う。

 

 わたしたちにとって最も身近な、とりかえしのつかないものは「死」であると思うのですが、生まれてくることのとりかえしのつかなさについても考えてみたいと思っていました。
文藝春秋BOOKS著者コメントより引用)

 生まれてくることのとりかえしのつかなさ。わたしはこれから、なにができるんだろうと思う。いったいなにができるんだろう。

 

 わたしは今まで妊娠の経験がない。二年前に結婚した夫と、ときどき子どもの話をする。夫は、大きな疑問も持たずに、純粋に、自分の精子とわたしの卵子で子どもができたらいいと、たぶん心から望んでいる。わたしもそれをうれしいと思い、夫が望む「方法」で子どもができたらいいと思う。


 善百合子が問いかけてくる。「あなたたちは、何をしようとしているの?」
 出産はエゴだ、そして生まれてくる子どもは他者だ。この先自分がどういう選択をしたとしてもそれを忘れないでいようと思う。エゴだからこそ、他者だからこそ、子どもの命をなによりも尊重し、子どもがなにかを望んだときの選択肢をつねに用意しておかなくてはいけない。もちろんそれでエゴが解消されるわけじゃない。それでもわたしのなかには自分の子どもに会いたいという気持ちがある。生むことについて、生まれることについて、生きていくことについて、わたしはもう鈍感でいたくない。
 

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