今日もめくるめかない日

石けんの終わり・アンコウの一生

 2022年がはじまり三週間ほど、今年はじめて連絡をとる人に「あけましておめでとう!」とLINEをすると、「もう言わなくない?笑」という返事。そ、そうなんですか。2022年において「あけましておめでとう」はすでに死語であるらしい。それでも今年一発目のブログであるのでいいますけれども。あけましておめでとうございます。

 

 2022年のはじまりといいながら、石けんの終わりについて。
 最近、石けんをつかって体を洗っている。もともと石けんに並々ならぬこだわりがあるわけでもなく、ただたんにボディソープが切れたとき家に残っていた石けんをタイミングよく発見しただけで、むしろ「石けんで体を洗う」ということをこの人生でほとんどしたことがない。
 石けん。使ったことはあまりないけれど、とても体によさそうな響きである(そしてたしかに断固石けん派という友人もいた。その人は、あの牛の、赤い箱の石けんをたいへん推していたし、石けんによって人生がばら色になると心から信じていたもよう)。いろんなことに鈍感なわたしなので、実際今までのボディソープと石けんのなにが違うのかはよくわからないけれど、なんだろね、ボトル式のボディソープではなく石けんを使っているという、ほとばしる「ていねい」感。わたしにはほとほと無縁の「ていねい」感があるから、最近はなんだかほくほくした気持ちであった(ただその石けんが手洗い用なのか体洗い用なのか、本当はわからない)。

 

 しかし石けんが終わりかけになったとき、おや……と思う。家にあったのは、なぜか1ダースのものだったので、使っていた石けんが小さく薄くなった時点で新しいものをおろしたのだけれど、今まで使っていた石けんは、いつまで使えばいいんだろうという疑問。
 ふつうに考えたら、なくなるまで、だろうけど、終わりかけの石けんは、なんというか、力がない。泡立てようとしても薄いから、お風呂で体を洗うタオル(正式名称はわからない)にうまくごしごしできない。そうなると自然に新しいかたい石けんを使うことになるんだけれど、使われないまま中途半端に小さく薄くなった石けんがどうしても視界のはしでちらつく……。
 それなら新しい石けんに今まで使っていた石けんをなんとかこすりあわせて、合体させてやると思うんだけれども、深海に棲むアンコウのオスの姿が思い出されて手が止まる。アンコウは、生殖のためにオスがメスの体に噛みついて、なんとそのまま皮膚がメスの体に吸収され一体化するという。なんとも、あわわ……である。手元の石けんの大小も、まさにオスとメスの体格差にさえ思えてきて、いわんや切ない。
 そういうわけで、わたしの家の風呂場には、泡立てることもむずかしくなった小さい石けんがただ置かれている。そのうち今使っている石けんも同じような大きさになるはずなので、このままいくと新しいものをおろし、小さくなった石けんがまた増え、新しいものをおろし、小さくなった石けんがまた増え……と終わるに終われぬ石けんの一生が並べられていくのは想像に難くない。

 

 ちなみにアンコウのオスはメスと同化したあと、眼も内蔵も退化し(メスから栄養をもらうから)、精巣だけを残して生きてゆくのだという。精子もすべて放出してしまえば、あとにはなにが残るのだろう……。「自分」という感覚はあるのだろうか、動いている実感はあるのだろうか。メスは、自分以外の生き物が自分の体にくっついている、という認識があるんだろうか……。
 そういうことを思いながら小さくなった石けんをみる。あまり泡立たないけれど、アンコウの一生をおもいながら、この終わりかけの石けんを、終わりまで使うと誓う。足の指のあいだとか、おへそとか、手で泡立ててそういうところを洗うことにする。いくら薄くなろうとも、石けんとして認識しつづける、と決めた2022年のはじめ。

 

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