今日もめくるめかない日

鳩の栖/長野まゆみ

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 名は体をあらわす、という言葉があるけれど、どんな名であっても、どんな体であっても、「その人」が「その人」であれば、それでじゅうぶんなのだよな、というようなことを考えている。こわがりだったり、見栄っぱりだったり、少しいじわるだったり、やさしかったり、不安定だったり、つよかったり、よわかったり。どんな体であっても、大切にしてくれる/大切にしたい、とかんじられる人と出会えることができるなら、それはとてもうれしくてやさしいことであるなあと思った。

 

鳩の栖/長野まゆみ

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 短編集である。こうやって感想を書いているのだから、すでに一冊すべて読んでいるのだろうと思われるかもしれないけれど、実は表題作の「鳩の栖」しか読めていない。時間がとれないからではない。おそらくどれも一時間ほどあれば読める作品なのだと思う。読みたくないわけではない。むしろめちゃくちゃ続きを読みたい気持ちでいっぱいである。なのに、ひとつめに収録されている「鳩の栖」を読み終わったあとの余韻をずっと引きずっており、すでに「鳩の栖」だけを五回くらい連続で読みなおしている。読みなおすたび、泣いている。

 

 うつくしい文章や描写というのはそれだけで泣けるものだ。うつくしさ、というのは人によってさまざまであるし、なにをどうもって、うつくしさが成り立つのかはうまくいえないけれど、長野まゆみさんの文章は、とてもうつくしいと思う。きれいな景色を綺麗な言葉で書いている、とかではなく、ちょっとした繊細さとか、むかし見たような懐かしい景色とか、その言葉でしかあらわせないことを知っているような言葉づかいとか。なんか長々と語ろうとしているけれど、わたしは長野作品の初心者なので、やはりちょっとうまくいえない。けれど、読んでいるととにかく泣けてくるのである。

 

 前に、「少年アリス」「改造版 少年アリス」を読んだとき、独特な表現の数々に卒倒するかと思った。これは夜の学校に忍び込む少年アリスと蜜蜂の不思議で幻想的な冒険譚。これからなにが起こるのか、どんな表現が出てくるのか、たのしくて読む手がとまらなかった。

「鳩の栖」は反対に、次の作品を読むのが少しこわい。表題作としての「鳩の栖」はおそらく原稿用紙にして二十か三十枚くらいだと思うけれど、あまりにもせつなくて、あたたかくて、ほんとうに感動してしまって、情緒がかき乱されているので、次の作品を読んだら、このページをめくったら、一体わたしはどうなってしまうのか……という気持ちがあり、読みすすめられていないのである。でもはやくほかの作品も読んでどうにかなってしまいたいとも思うので、感想を書いて気持ちをととのえようという次第。

 

 うつくしい文章は泣ける、と書いたけれど「鳩の栖」は、文章も、話の内容も、猛烈な「うつくしさパンチ」「せつなさパンチ」「あたたかさパンチ」をたずさえて、わたしたち読者を迎えてくる。そのパンチはボコボコになぐってくるような力強さがあるわけではないのだけれど、しかし確実に急所をついてくるものだ。

 物語のはじまりは、晩秋、安堂操という少年が親の転勤のため中学校に転校してきたところから。昔から転校が多く、内気で人づきあいが苦手、消極的で声が小さいという操。自分のことは「ほうっておいて呉れればまだいい」と考える操に、「教科書は前と同じだったかい。」と気さくに声をかけてくれたのが、同じクラスの樺島至剛(かわしまみちたか)。彼はクラスの人気者でまとめ役、すこしの会話だけでも操は樺島が皆に慕われているとわかる。そして操自身もそんな樺島に惹かれていく。

 たとえば、声が小さい操にたいして、樺島はいう。

「静かなのはいいことだよ。声をはりあげなくたっていい。耳を澄ませば、いくらだって聞こえるんだから。」

集英社文庫「鳩の栖」13頁)

 泣ける。こんなことを言ってくれる人を好きにならないわけがない。あまりにもやさしすぎる言葉。これだけで樺島の性格が伝わってくる。やさしすぎる人は、なんだかせつない。けれどとても好きだ。

 ……それにしても、「」のなかのセリフを書くとき、「あいうえお。」というように、鉤括弧内に句点が入っている小説(作家)は信頼できるとつねづね思っている。さらに「鳩の栖」では、句点ばかりか読点まで入っていた。基本は鉤括弧内って句点と読点がないことが多いと思うけれど、この、絶妙な余韻がうまれでる手法(?)、たまらない。

 

 今まで転校が多く友だちもできなかった操にとって、樺島のいる学校ははじめて楽しみなものになった。冬休みが明けるのを待ちわび、初詣では家族以外の幸福や健康を祈る。しかし始業式、学校に行くと樺島の姿がない。樺島ととりわけ仲の良い唐津によると、実は昔から体調を崩しやすく、今も家で静養しているという。そこで唐津を含めたクラスのみんなと、樺島の家へお見舞いにいくことに。

 

 その家の玄関には木彫りの飾りがあり、そこには二羽の鳩が並んでいる。樺島が寝ていた座敷にも、雉鳩が描かれた掛け軸がある。厄よけとのこと。そんな鳩の栖には、もうひとつ特別なものがある。庭先にある水琴窟、手水鉢の近くに敷いてある小石に水を滴らせると、中から音がするというものだ。音の響きは人によって差があって、たとえば唐津は「からっきし」、操は「いい音が響く」。床に伏せる樺島は、お見舞いのたびに操に音を鳴らしてほしいと希む。そうして時間が過ぎてゆき、春が近づいてくるなかで、「鳩の栖」はせつないラストをむかえます。

 ……ちなみに、希むで、たのむ。あの、息がとまりそうになります、こういった、はっとさせる言葉に……。

 

 一度目に読んだときは、操と樺島ふたりのことで頭がいっぱいだった。消極的で、意気地がない操が、樺島の存在があったからクラスにも少しずつなじみ、自分から話しかけることもできるようになった。べつに積極的になれということを樺島はいいたかったのではないだろうし、操にたいして「もっとこうしたほうがいいだろう」などといったアドバイスをする必要もない。ただ、操が自然に、自分から、友だちのためになにかをしたいと思えるようになったということに、胸をうたれた。

 そして普段は利発で堂々としているようにみえる樺島が、不安に駆られたり、弱気になるときもあるのだとあたりまえのことに気づかされ、そんな樺島が操が奏でる水琴窟の音を拠り所にしていたのだと思うと、やはり泣けてくる。操だから出せた音を好きになった樺島。

 

 二度目に読んだとき、唐津のことを考えて泣いた。唐津は、操が転校してくる前から樺島と親しくしていた。樺島のお見舞いにいったときの、こんな場面がある。

唐津は慣れたようすで、案内も請わず、縁側づたいに出て玄関へ向かった。しばらくして、傘をさした唐津が庭に姿を見せた。閉じていた縁側の障子戸をあけて、寒くないかと樺島に声をかけた。ふたりのさりげないやりとりは、操がこれまで培ってこなかったものの尊さを、垣間みせてくれる。

集英社文庫「鳩の栖」22頁)

 おそらくいつもは、ふざけあった言い合いなんかをする二人なんだけど、こういったときにふとわかる、距離の近さ。それは水琴窟をいくら上手に鳴らしても、操にはまだ手に入れられないものだったろうし、けれど、そんなことは本当はたいした問題ではないとも思う。

 樺島と操、樺島と唐津、操と唐津、操と樺島と唐津、それぞれ違う関係性でいいのだし、どれが優位だとかそういうことは全然なくて、そしてそれを樺島も唐津もわかっているというのが伝わってきて、この二人のそれぞれの歴史にためいきがもれる。

 何度目かに、操が水琴窟を鳴らしたときに樺島がいう。

「安堂くんは名人なんだ。いつでも、音がよく響く。優はからっきしだ。」

集英社文庫「鳩の栖」26頁)

 優というのは、唐津の下の名前。安堂くんと名字で呼ばれても、そこにちゃんと感情がこもっているのがわかる。呼び方なんてなんでもいいのだ。そしてもちろん、「優はからっきしだ」にふくまれる、親愛の感情にも泣ける。

 樺島も唐津も、なんてやさしい少年たちなんだろう。唐津は前から樺島が病弱なのを知っていて、しかし操に「心配ないよ」と言ってくれる。心配ないよと言ってほしいのは唐津のほうだったろうし、樺島母もそうだけれど、操にとてもやさしく気をつかってくれるのである。そして操も操で、そんなやさしさを、じょうずにはできないけれどちゃんと受け取っているのである。なんてせつなくて、あたたかいのだ……。この世はきっと、捨てたもんじゃない……。

 

 水琴窟で音を鳴らす場面は、ほんとうにひとつひとつがとてもよくて、その音を実際に聞いてみたいと思わずにはいられない。きっと静かできれいな音なんだろう。しかしこの作品のタイトルは「鳩の栖」、どうして鳩の栖なのか。

 もちろん樺島の家に木彫りの鳩や掛け軸の雉鳩があるというところ。厄よけとして家に置かれている鳩のことを、樺島は最初に「心もとない」という。けれど、読んでいくうちに、樺島が鳩にたすけられていることがわかる。

「兄が、あの絵を選んで呉れてよかった。夜叉や幽霊だったら、とっくの昔に叫んでる。平静さを取り戻したいとき、ぼくはあの鳩のことや、きみが奏でて呉れる水音を思い出すんだ。静かな気持ちになれる。ありがとう。」

集英社文庫「鳩の栖」31頁)

 操は、樺島がいたから楽しい気持ちや人を大切にしたいという気持ちを知れた。樺島は鳩のおかげで落ち着いていられたけれど、操にとっての鳩は、きっと樺島自身であったと思う。樺島にとっても、操にとっても、その家は鳩の栖なのだ。そんなふうに考えて、最後の三行を読みなおしたらまた泣けてきた。

 

 樺島の下の名前は、至剛。「至大至剛」という孟子の言葉から名付けられたらしい。「どんなことにも屈せず、かぎりなく強いって意味」。これは操が転校してきたときの樺島の自己紹介だけれど、昔から具合を悪くしがちで、不安に陥り叫び出したくなるときがある彼にとって、どんな思いでこれを言ったのか…と考えてまた泣けてくる。

 至剛という名前は、それでも彼にあっている。けれど仮にかぎりなく強くなくたって、名が体をあらわさなくたって、名前がちがうものであったとしても、きっと操や唐津、多くの人が慕った樺島至剛であったのだろうなと思った。

 

 さて、じゅうぶん気持ちを放出でき満足だ……と思ったけれど、おそろしいことに「鳩の栖」という短編集には、わたしがまだ読んでいない作品があと四篇も残っている! なんてことですか、本当にわたし、どうなっちゃうんですか……。

 また、「少年アリス」に出てくる一節で好きなものがあります。それは「眩草とは、その名の通りの植物なのだ」というもの。眩草=くらら。(倒)

 毒蛇に咬まれた傷に効くという植物で、作中アリスはこれを溶かした水を飲み、「痺れるような苦味で眩暈がし」、意識を手ばなしていく。

 苦味とはちがうけど、いつもくらくらするようなすてきな作品に出会うとこの一節を思い出す。「鳩の栖」、もしかして眩草を百束くらい食べてしまったか?というくらい、くらくらしています。

 

 そして我慢できずに長野まゆみさんの本を一気に五冊ほど購入しました。一編の短編だけでこんなに情緒がかき乱されているのに、そんなに「長野まゆみ」の過剰摂取をしてしまって大丈夫なんでしょうか。わかりません。

 

 あと、長野まゆみさんのファンの方々にとったら、もしかしたら、エッいまさらそんなだれもが知っていることを…?と思うかもしれませんがどうしても言いたいので言わせてください。

 長野まゆみさんのイラスト素敵すぎませんか?眩草!!!