昔から物にこだわることがなかった。服、靴、コート、バッグ、家電、財布、化粧品。どうしてだろう、「まあべつに、使えればなんでもいっか」という気持ちになってこだわれない。考え抜く、選び取る、決断する、というのが苦手だしできない。だからわたしが持つ大抵のものはたぶん高くて1万2000円くらい、あとは2000円から5000円くらいのものを、一年に二回くらい、思いついたときになんとなく買う。これまでの人生でいちばん服にお金をつかったのは二十歳そこそこのとき、はじめて友人の結婚式に呼ばれ、なにを着ていけばいいのかわからんとお店のひとに泣きついて、ドレス、ジャケット、インナー、ネックレス、パンプス、言われるがまま一色買ったとき。そのときはお金なんてほとんど持っていないのに、たしか全部で十万くらいした。一緒につきあってくれていた友人は、わけもわからずトータルコーディネートしてもらうわたしを見てすこし引いていたし、自分で選んだものではないからせっかく買ったのに愛着も湧かなかった。高かったから着ないとな、というプレッシャーだけがずっと衣装ケースの奥にしまわれていた。
安いものを買うからなのか、安いからぞんざいに扱ってしまうのか、そもそものがさつな性格のせいなのか、物持ちはよくない。けれど「まだ使えるからいっか」という考えで、つちふまずのところに穴があいた靴下とかずっと履いてしまったりもする(どうしてそこに穴があくんだろう?)。わたしの「使える」の基準は、人から見えないかどうかなのかもしれない。昔、ワイヤーが飛び出たブラジャーとか平気で使っていた。ついに針金が肌に刺さって痛くて当時の恋人にドン引かれて捨てた。
本当にどうもしようがなくなって、これは捨てるしかないという状態になったときも、こだわりがないのでひょいと捨てられる。身につけられる「一生もの」、そういえばまだ出会ったことがないと、はたと気づいた。
フォロワーさんが、仕事に使うバッグを探していて、とてもいいなあと思いながらツイートを眺めていたりした。なにかにこだわること、こだわりたいと思うこと、そのこだわりをもとに実際に行動すること、とても格好いいと思う(たとえばそれがなにか一つだとしても)。そしてめでたくこれだというバッグに出会えたそうで、ますますいいなあ、と思った。
こだわることは格好いい。それは信念があるからだと思う。ゆずれないな、というものが自分のなかに定まっていること、そんなひとはまっすぐに立っているような気がする。
わたしがいま使っている通勤バッグはなにかこだわりがあっただろうかと、ふと考えてこの記事を書いている。
そもそも、「通勤バッグ」なんて言葉をつかうのもどうなんだろうというようなバックで毎日出勤している。こだわらないと書いたけど、いちおうバッグはショルダーがいいという希望はあった。だって楽だから。両手はつねにあけておきたい。なにするわけでもないけど。その希望だけで買ったバッグがこれだった。
撥水サコッシュ ネイビー | ショルダーバッグ・サコッシュ 通販 | 無印良品
バッグというか、サコッシュである。これを肩からぶら下げて、わたしは毎日出勤している。縁日でも行くつもりか? 無印良品のものなので、「ていねいでシンプルを愛する女」「高価でなくても素材にこだわる女」という雰囲気が出せる気がする、という下心ありきで選んだ。実際のところ、持っている無印良品の商品はこれだけである。本当は、素材ってなに? という人間である(オーガニックコットンって結局なに?)。ときどき不揃いバウムを買っているくらい。チョコがけバナナがおいしい。
これでなにしに会社に行ってるんだろうという感じだけど、あるときバッグは小さくてもじゅうぶんということに気づいて(エコバッグを会社にひとつ常備して、外出時にもつが多くなるときはそれを使っている)、文庫が入ればいいやという基準になった。実際バッグのなかにはなにも入っていない。いやいやそうはいってもなにかしらは入っているだろうとあらためて中身を出してみると、本当にたいしたものが入っていなかった。
今日日、こどもでももっといろいろかばんに入っている気がする(そういえばこどものころは、かばんになにを入れていただろう)。いつのものかわからないレシートが突っ込まれているし。ある意味シンプルだが、たぶんこういうことではないと思う。ていねいでシンプルを愛する女が聞いてあきれる。リップもハンドクリームも、買ったはいいけどまったく使っていないので、こうやって写真に撮るまでここにあるのを忘れていた。最近はほとんどの支払いがスマホで済むので財布も実際なくても困らないと思う。あとこの財布たぶんレシートとかぱんぱんに入ってる。かろうじて名刺入れを持ち歩いているが、最近は打ち合わせも取材もオンラインばかりで名刺をわたす機会って減ったよね。久しぶりに名刺入れを出して、ウワー名刺が足りない、ということも過去にあった。猫のやつは栞。読みはじめた本に栞が挟まっていなかったとき用とか、念のため。かわいいから気に入ってるけど、素材がステンレス金属で、ガサゴソかばんを漁ると刺さって痛い。
Bluetoothイヤホン、左耳がなくなってしまって使えなくなり、とりあえずかばんに入れっぱなしである。なんとかしたほうがいい。
読んでいる本。
編プロで働く現在に至るまで、スーツをビシッと着るような職にはついたことはない。現在の職場も、服装も髪型もなんでも自由(なかには寝巻きか?というような服で出勤してくるひともいる)。だから「おまえのバッグ小さすぎね!?」とか突っ込まれたことはないけれど、よくよく思い返してみれば、みんななにげに大きいバッグを使っている。電車をみてもそう。みんな大きいバッグを使っている。あのなかにはなにが入っているんだろう、なぜわたしは大きなバッグじゃなくても大丈夫なんだろう、なぜこんなどこにも需要のなさそうな「かばんの中身」を公開しているのだろう……。こういうのも、白バックとかにして真俯瞰から撮ったりするのがいいのだろうとはわかっているけどこだわらずに適当に撮ってしまった。
ちなみにわたしは「物を持たない」ひとというわけではない。物を買っても使いこなせず結局持ち歩かないひとである(一月だけしっかり埋まる手帳)。
なにかにこだわってみたいという気持ちはある。だけどこだわりたい物がいまだに見つからない。なんといったってわたしは、上京してはじめて一人暮らしをするとき、内見せずに家を決めたのだ。内見ってよくわからないし面倒くさそうだし住めればなんでもいっか! と当時は思っていた。結婚指輪にしても、どんなものがいいのか希望を聞かれても、「なんでもいいんだが…むしろ失くしそうだしなくてもいいんだが…」と思っていた。ウェディングドレスやブーケは十分で決まった。このこだわりのなさは一体なんなのだ……。
こだわって考え抜いて選び取った物は、ぜったいに特別なものになる。過去にサボテンなら育てられるかもしれないと思って買って、しっかり枯らしてしまったわたしでも、こだわって買ったものなら大切にできる気がする。というかそんな特別なものに出会えたなら大切にしたい。
わたしにとってこだわりたいと思えるものは、バッグじゃないのかもしれない。服でも靴でも時計でも化粧品でも家電でもスマホでもイヤホンでもないのかもしれない。カーテンもティッシュもトイレットペーパーもわりとなんでもいい。家具もなんでもいい。布団もなんでもいい(楽天で買った三点セット5000円!てな代物を使っている…背中はときどき痛いけど寝られるしいっかと思っている)。
いまはないけど、いつかこだわりたいものをみつけたいと思った。それがみつかったらそこでやっと、考え抜いて選び取ることができるのだ、きっと。それがどんなものかはわからないけれど、まだみぬわたしに大切にされるかもしれないなにか、この世のどこかにあってほしい。