今日もめくるめかない日

文藝夏季号(怒り特集、あくてえ、ふるえるのこと)

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怒ること 

 最近、家でも職場でも怒る日が多かった。夫とは喧嘩が勃発し一カ月ほど膠着状態、職場では何度言ってもわかってもらえないということが続いて、ひたすらきりきり怒っていた。
 怒る自分が嫌いである。スカッと怒るのでなく、ヒステリック気味になってしまうし、怒っているとき、嫌味が次々に出てくる。たぶん、わたしの得意技は嫌味を繰り広げることである。ぜんぜん自慢にならない。嫌味を口にするたび、なんでこんなふうにしか言えないんだろ、という自己嫌悪がすごい。しかも、なにがいやって、なんとなく、相手から「またなんか言ってるわ、やれやれ……」的な空気を感じてしまうことがいやだ。相手はそう思っていないかもしれないけれど、そういうふうに感じる。
 たぶんそれは相手がわたしと同じ熱量で言い返してこないからだと思う。まあ大人であるし、小学生のときみたいに、「ばーか!」「おまえがばーか!」みたいな言い合いはそりゃ起こらないよなと思うけれど、それにしてもただ黙って聞かれていることが多い。
 べつに自分がいつだって100%正しいなんて思っていないけれど、とくに職場でだれかに怒るときはわたしなりの正当性がある。たとえば同じことをもう百万回言ってるんじゃないか…と思っても、結局同じようなことをされる、こんな初歩的なことをどうして何度も言わなくちゃいけないのだろう、改善の余地がみられないということが何度も起こると、さすがに怒りたくなる(しかも相手はわたしよりも十も年上の上司で役職についているひとなのだ)。なにもはじめからヒステリーになってまくし立てているわけじゃない(と思う)。注意していると、相手が「はあ」みたいな反応しか返してくれないので、だんだんムキ―!となって、気づいたらどんどん怒りがわいてきて、わたしの口から嫌味がどんどん出てくる。まわりのひとだって聞いてるはずだけど、だれもとくに言ってこないのもさらに苛立たしい。「ま~たなんか言ってる」とかどうせ思ってるんだ。ただのわがままなのかもしれないけれど、わたしが怒ったら、同じように怒り返してほしい。そうじゃないなら反省してほしい。
 怒るのは疲れる。とにかく疲れる。わたしだって怒らないで済むなら怒りたくない。ただ、かわりにだれか怒ってよと思っても、だれも怒らない。こんな時代に怒って教育する、なんて下手したら炎上案件だろうけど(いやそもそもわたしが怒っている相手は教育する側なんだが)、怒らずすべてを受け止め、やさしく注意し、次は気をつけてね、でなにもかも解決するならわたしだってそうしたい。
 怒っている自分は、なんだか感情をコントロールできていない未熟な人間みたいでいやだ。できれば怒りという感情を抱かずに生きていきたい。そう思っていたけれど、文藝の怒り特集を読み、この感情も大切なわたしの一部、というかいちばん信用できる感情なのかもしれないと考えるようになった。

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「怒り」特集

 特集「怒り」の扉ページに掲載されている文言に、まずはっとした。以下抜粋。

感情だけはやつらに渡すな

怒りという感情に、真摯に向き合うことはこの社会では難しい。やりすごすか、コントロールを試みるか、諦めるか。
(中略)
ひたすら無力感に襲われ疲弊するこの日々に、何度でも自らの感情を立ち上げること、それがこの特集の趣旨であり、現在、我々が身を保つことができる唯一の方法であると信じる。

 すべての感情は正しいもの。うれしい、かなしい、たのしい、そうだ、それは正しいものだとわたしもわかっていた。それでも怒りは、持ってはいけないものだとも、どこかで思っていた。けれど怒りも含めて、「あらゆる感情が正当である」のだ。最近は、自分の感情が自分のものではないと感じることも多い。たとえばたのしい、おもしろいと感じること。だれかの評価をみたから自分もそう感じているだけじゃないのかと思うことがある。大げさに言うと、つくられた感情に感じる。けれど怒りは違う。ゆるせないこと、これはまさしく自分だけの感情である。だから信用できると思う。
 特集内には短編やエッセイが掲載されており、どれも怒りをはらんでいる。みんななにかに怒っている。それらの作品を読んで、怒りはパワーなんだと思った。社会的とか理性的とかそういうものに普段は抑圧されながら、でも、怒りを持つことは自分を捨てないことなんだと思った。
 夫との膠着状態が続いたある日、もう本当に我慢ならなくなって、わたしははじめて家出した。朝なに食わぬ顔で出勤して、その日は家に帰らずビジネスホテルに泊まった。連絡ひとつ入れなかった。普段帰りが遅いのもあるので、夫から電話がかかってきたのは深夜一時半くらいだった。寝ていた。さすがに罪悪感を抱いたが、わたしはちょっと「ざまあみろ、せいぜい心配しやがれ」と思っていた。そして、やっとわたしの怒りが少し届いた気がした。たいてい無難に生きることを意識しているので、怒りをあきらめていたら、わたしはこんな行動に出なかったと思う。わたしは一日だけの家出だけれど、怒り特集に出てくるひとたちは、みんな怒りからいろんな行動をとる。届かなかったとしても、怒りをまっとうしている。社会的じゃなくても理性的じゃなくても、正しく自分の感情によって突き動かされている。そのさまはどの作品でも圧巻だった。あと柚木麻子さんとゆっきゅんさんの対談めちゃくちゃおもしろかったよ。

 

あくてえ/山下紘加 

 そして、今回文藝でいちばん怒りをおぼえた/共有したのが山下紘加さんの「あくてえ」である(特集外ではあるんですが)。
 あくてえは、甲州弁で悪口、とか悪態とかいう意味。小説家になりたいゆめ、ゆめの母きいちゃん、二人と暮らす「ばばあ」。ばばあはゆめなりのあくてえで、自分の祖母のことを心のなかでばばあと呼ぶ。ばばあは父親の母で、その父親とはすでに離婚しているのに、なぜか母きいちゃんが面倒をみているという状況。
 ばばあは高齢で、いろいろなことがままならないしわがままである。けれどきいちゃんは献身的だ。たとえば高い補聴器が欲しいとばばあがねだる、いろいろ考えて購入すると、結局ばばあは「つけてても、ガアガアいってるだけではっきり聞こえん」という理由で補聴器を自ら外してしまう。理不尽ともいえる環境に、ゆめの怒りがどんどん伝わってくる。わたしまで怒り狂いそうになる。とくに途中で出てくるゆめの父親。
 ばばあが倒れ、入院したときに顔をみせ、ばばあの世話を全部押し付けているというのに「俺が近くにいたら車で病院まで送ってやれたのに」とか言う。あと会話の内容が下品だし、とにかく無責任で、登場するたび怒りしかおぼえない男だった。そんな父親に、しっかり怒りをぶつけないゆめにもときどきわたしが怒りそうになった。そして実際に怒りをぶつけてものれんに腕押しという感じの手ごたえのなさにまた腹が立った。面倒をみる必要なんて本当はないはずなのに、献身的にばばあの世話をするきいちゃんにも腹が立った(ゆめの言葉を借りれば異常な状況なのだ)。ゆめの恋人である渉のどこかずれた考えにも腹が立った。わがままなばばあにも腹が立った。怒りはパワーと書いたけれど、そのパワーがどこにも発散できないのは、本当に虚しい。怒りをみなぎらせて、理不尽な状況に立ち向かおうとするのに、自分がもつ怒りと相手に届く怒りのかたちが変わるのは虚しい。壮絶な怒りと同じくらいの虚しさを同時にたたきつけてくる「あくてえ」、ものすごい作品です。あと、ばばあの方言で、ときどき「~ら?」と出てくるのがうれしかった。わたしは静岡出身で、甲州とは離れてはいますが「~ら?」という方言を使っていたので。
 山下紘加さんの作品、今まで「エラー」「二重奏」を読みましたが、どれも生の声、というのが聴こえてくるような作品で、それはリアリティがあるとか生々しいとは少し違う気がする。とにかく、作品のなかにたしかに人がいて、フィクションだとわかっていても、ただ、声とか息遣いが聴こえてくる感じがする。濃密よりはどちらかといえばわりとさらりとした文体だと思うのですが、それでも濃いと感じざるを得ない。推し。

 

ふるえる/彩瀬まる

 それからもうひとつ、今号の文藝でよかった作品が彩瀬まるさんの「ふるえる」。短編(掌編?)なのですが、こちらも濃い読書体験になりました。彩瀬まるさんが書くちょっと不思議な話がとても好きです。「ふるえる」では、恋をする(あるいは恋とはまだいえなくても、だれかを意識する)と、身体に石ができる。相手にも石ができていたらそれを交換し共鳴することで、恋が成就するという世界観。けれど恋愛の多くがそうであるように、自分にしか石ができないときもある。そういうときは、体内にある石を取り除くことができる。主人公であるネムはシライさんに対して石が生成されるけれど、シライさんは今まで石ができたことがないという。短いお話なのであんまり書くとすべてのあらすじを説明してしまいそうになるのでこのへんにしておきますが、なんだかとても切なく、けれどほっとあたたかくなる(それこそそれまで抱いていた怒りを忘れるくらい!)、石をこの目でみてみたいと思うお話でした。長編で読んでみたい。

 

 あと、次号の文藝の特集が今からめちゃくちゃ楽しみです。ぜったい好きしかない。