今日もめくるめかない日

おいしいごはんが食べられますように/高瀬隼子

 職場での暗黙のルールというのはいつのまにかできている。「こうしよう」とだれかが口にしたことはないはずなのに、いろいろなことが「そういうふう」になっている。「そういうもの」だと思わなきゃいけないことになっている。
 どんな職種についても思う。仕事は面倒だ。働くのは面倒だ。でも働かないと生活できないし、働いていない時間はなにをするんだろうというぽっかりと不安になる疑問もわくし、私は仕事を「絶望的に嫌だ」と思っていないから、働いている。だけどこれまでに、仕事を「絶望的に嫌だ」と感じてしまう人とたくさん出会ってきた。
 今の会社につとめて四年くらいが経つ。そのあいだに入社した人はたしか五人くらいいた。だけど全員「メンタルが……」という理由でばっくれるようにやめてしまった。長く働いていた人が突然やめることもあった。そのたびに残った人の作業が増え、残業が増え、休日出勤が増え、徹夜が増えたりした。たしかに超ホワイトな職種とはいえない、残業もあるし休日出勤もある。パワハラモラハラ、セクハラの類は当然ないけれど、職場の人間関係がうまくいかないことだってあるだろう。だから疲れてしまう気持ちもわかる。私も疲れる。
 無理させてはいけない、はひとつのルールだ。根性みせろとか絶対に言えないし(ていうか私が言われたくない)、傷つきやすい人はケアすべきだし、叱って育てるなんて時代遅れだし、言ってしまえば血反吐吐いてまで一生懸命働かなくたっていいのだ。血反吐吐く前に休んだほうがいい。疲れるのはだれだって嫌なんだから。心と体がなにより大切。
 だから「体調が悪いので早退したい」の申し出には心配するし「こっちは大丈夫だからゆっくり休んで」と言う。「調子が悪いので休みたい」というLINEにも、「無理せず休んでください」という一言と「むりしないでね」とか書かれているスタンプを送信する。「玄関を出ようとすると吐き気がするんです」と言われてしまえば私たちが間違っていたのだと相手を責めず自省する。「どうしても会社に行けない」なら「しばらく休ませたほうがいい」という判断をくだすしかない。
 そういうことに対して、文句なんて言ったらいけない。本人は一生懸命やっているし、きっとこんなはずじゃないって思った人もたくさんいたはずだ。わかっている。だれだって無理なことはある。そんなの当たり前だし責める気もない。だけど思う。どうして私は体調が悪くならないんだろう。どうして「無理しないでね」と言いながら、自分が無理しているんだろう。どうして無理しない人がいるぶん、無理する人が出てきてしまうんだろう。

 職場というのは不思議だ。同じクラスにいても絶対なかよくならなかっただろうなという人とごはんを食べたりお酒を飲みにいったりする。理解できない人がいても、我慢して、そういうものだ、で片づけることが往々にしてある。これはお互い様だとは思うけど。
 一時間に一回は煙草を吸い、定時ぴったりに帰る人。毎日のように5分から10分遅刻してくる人。給料はほぼ同じだけど、効率が悪いから作業量が人よりあきらかに少ない人。作業が終わらなかったことを忙しかったという理由だけで片づける人。いつも体調が悪くなってしまう人。人それぞれ能力の差とか許容範囲とか頑張れる度合いとか精神状態とか、そういったものが違うのだから全員を尊重したほうがいい。そういうものだ。私はべつに心配されたいとか、いつもがんばってるねとか、言われたいわけじゃない。だれかを責めたいわけじゃない。ただ、もう少しだけでもそれぞれの負担が平均的になったらいいのに、とか、弱さって強いよな、と思ってときどきいやになるだけだ。

 

 前振りが長くなってしまいましたが、そんな職場でのもやつくことを絶妙に描き出して、心をざわつかせてくれたのが「おいしいごはんが食べられますように」(高瀬隼子)です。第167回芥川賞候補作(結果は七月に発表)。

『おいしいごはんが食べられますように』(高瀬 隼子)|講談社BOOK倶楽部

 タイトルをみると、ほんわかしたお話なのかなと思います。しかしほんわか要素はないです。むしろ「おいしいごはん」にうんざりしている人たちのお話です。ネタバレしてます。

「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」
心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。

職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。
ままならない人間関係を、食べものを通して描く傑作。

 

 だれかにとくべつ嫌われることもなく、仕事ができないわけでもなく、いるととりあえず安心するよね、というような存在の男性社員の二谷。前の会社でハラスメントのようなものを受けていたらしく、声の大きい男の人が得意ではない、無理すると体調が悪くなってしまう女性社員の芦川さん。そんな芦川さんにもやつく女性社員押尾さん。芦川さんと二谷は恋人のような関係で、押尾さんと二谷はときどき二人で飲みにいき、押尾さんが芦川さんの愚痴を言ったりするという仲。

 二谷は普段、カップ麺とかコンビニ弁当とか「体に悪い」ものを食べている。そういう食べ物のほうが、しっかりつくられたごはんよりも安心するというかしっくりきている。大勢で食べる食事の場面では「おいしい」と言わなくてはいけない、野菜をいっぱい食べないといけない、栄養を摂らなくてはいけない、そういう一種の同調圧力に二谷はうんざりしている。
 芦川さんは、よく会社を早退する(ついでに研修もドタキャンする)。悪気はない。具合が悪くなってしまうからしょうがないのだ。芦川さんは優しいので、早退して迷惑をかけているからといい、お詫びの印に手作りのお菓子やケーキを頻繁に会社に持ってくる。

 最初に言ってしまうけど、私は芦川さんのような人がすごく嫌いだ。ぜったいいやだ。頼んでもないのに手作りのケーキ(しかもそのうち、芦川さんに申し訳ないから材料費として社員とパートから月に二回お金を集めようという話が出てくるのだ!あほか!)。

 こちらとしては早退してつくったケーキなど全然いらない。ケーキつくる暇あるなら仕事しろよ、ていうか体調悪いなら寝てろよと思ってしまう。考えただけで胃がもたれる。でも嫌ったらいけないことはわかっている。芦川さんは純粋な好意でやっている。そういう人に「なんかいやだな」という感情を抱きながら、まわりが「すごいね」「気がきくね」「おいしい」「ありがとう!」と口々に言っているのをきいて、うんざりして、食べたくなくて、でもそんなこと言えなくて、それはやっぱり同調圧力で、ほとほといやになる。だから押尾さんは「芦川さんにいじわるしませんか」と言うのだ。
 でも、押尾さんのいじわるは、いじわるじゃない。芦川さんを無視するとかデスクにゴミをぶちまけるとか、そういうしょうもないいじめじゃない(後々糾弾されるようなこともしてしまうが)。ただ、まわりの人が気をつかって芦川さんの負担にならないようにまわしていない仕事をまわしているだけだ。それってめちゃくちゃ普通のことだと思うんだけど、芦川さんという存在を考えたら普通ではなくなるらしい。芦川さんに無理をさせる押尾さんは悪者である。無理の基準は人によって違う。ざわつく。

「おいしいごはんを食べてほしい」と思っている芦川さんと、そんな芦川さんを見くびりながらも恋人関係を築く二谷。この話のなかで二谷はいちばんずるいところにいると思う。芦川さんのことを馬鹿にしながらもかわいいと思う感情はあって(言い方は悪いけど、それは“飼いならせる”という感情も含まれていると思う)、本音を隠しながら自分の欲だけを解消している。
 二谷は芦川さんがつくったご飯を食べたあと、隠れてカップ麺を食べたり、押尾さんから芦川さんの悪口を聞いたり(自分からは言わないのだ)、芦川さんがつくったケーキを残業後にぐちゃぐちゃにして会社のゴミ箱に捨てたりする。それでも結局芦川さんのことを「容赦なくかわいい」と思う。最後に本当のことを口にした押尾さんと比べてずいぶんずるい。でもそれは二谷が「そういうものだ」で済まされるだけの存在でしかないのかなと思った。退職を決意した押尾さんは、芦川さんのことも二谷のこともあきらめたんだなと思った。
 結局ずっと職場でもやつくのって、改善してほしい、少し変わってくれたらうれしいというような気持ちがあるからだから(本当に少しだけでいいのだ、そしたら私ももっともっと本当に優しくなれるんじゃないかって思うのだ)。でももうそれもなくなったんだなと思った。押尾さんは、だれかがおいしいと言うからおいしいんじゃなくて、自分でおいしいと思えるごはんが食べられたらいいなと思った。

 また、本作品は二谷と押尾さんの視点で話がすすみますが、押尾さんは一人称視点、二谷は三人称視点です。二谷のほうは内側をみせないようにしているというあらわれなのかなとも思いました。


 ざわつく場面がたくさんある作品です。好きな部分を引用します。

「そういえば、結婚式も飯食うんだよなあ」
 うんざりしたような表情を浮かべて、二谷さんがつぶやいた。
「人を祝うのも、飲み食いしながらじゃないとできないって、だいぶやばいな」

 たしかにやばいかもしれない。飲み食いがなくなったら、私たちはとたんに手持無沙汰になる。ごはんがないと、人と会話ができない。そういうごはんって、おいしいものだっけ、となんだか、がーんとなった。

 

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