クラスで浮いた存在にはなりたくないけれど、くだらない慣れ合いはしたくない。侮られたくない。見下したい。わかった気でいたい。わかられたくない。
学生のころ感じていたことを驚くほどの高解像度で思い出してしまうのが綿矢りささんの「蹴りたい背中」です。もはや説明不要の名作で、「い、いまさら感想を!?」という感じもありますが、いつ読んでも何度読んでもいいものはいい。
さびしさは鳴る。
読んでいなくてもこの一文は知っている、という人も多いでしょう、あまりに有名な冒頭ですが、この「さびしさ」は余りものにされたさびしさ。
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを千切る。
とにかくまず冒頭が完璧すぎる……。あらためて考えるとすごくないですか、文章で胸がどきどきするの。何度読んでも完成度というか表現力の高さに驚く。さびしは鳴る、という衝撃的な一文からまったく浮くことなく、つまりどういうことなのかをきれいに描写。ハツの性格を思うと、「胸を締めつけるから」というのがまたいいんですよね。
冒頭の場面は授業中のこと。高校生のハツは突然のグループ分けを命じられて余りものになってしまう。そのさびしさを悟られないようプリントを千切っているのだ。
すごく身に覚えがありませんか、ないですか、私はめちゃくちゃあります。あのときの感覚を思い出して身体がすり減りそうになる。「蹴りたい背中」は、そんな「身に覚えがある」の連続。この装画も大好きで、その昔私は“ぽい”ベンチをみつけては両腕を少しうしろに置いて意味もなく座り視線をはずし周囲の景色をなんとなく眺めるという行為をしていたのであります(早口)。
騒がしくおしゃべりするクラスメイト、顧問に甘えて練習をじょうずにサボろうとする陸上部員、まわりに合わせて空気を読んでくだらないことで笑う「なかよしグループ」。全部くだらないな、と斜に構えるポーズを確立させようとする自分。ハッ。ていうこのスタンス。
余りものになるのはいやだけど、グループになるのもいやなハツ。中学のころからの友人、絹代と行動をともにしようとするが、絹代は新しい友人グループを形成してしまう。絹代に誘われてもグループになじもうとせず、中途半端な立ち位置にいるから、授業中の突然のグループ分けで余ってしまう。
そしてハツと同じく余りものになったのがクラスの男子、にな川。プリント千切りで時間を埋めていたハツに対し、にな川はバリバリの女性ファッショ誌を堂々とひろげている。それをみて、「負けたな」と思うハツ。同じ余りもの同士でも、にな川はハツよりも変わっているし、しっかり「余りもの」だ。
にな川はオリチャンというモデルのファンで、オリチャンのことになると我を失いがち。中学生のころハツがたまたまオリチャンを見かけたことがある、と言ったことでにな川とハツの距離がなんとなく縮まっていく。
距離が縮まるといっても、にな川はオリチャンにしか興味がない。ハツもにな川に惹かれているというわけではない(むしろにな川が集めた&制作したオリチャングッズをみてわりと引いている)。二人の距離はちょっと奇妙だ。
ハツはにな川に興味を持つけれど、にな川はハツ自身に興味を持たない。いつだってオリチャンありきの関係性になっている。
ハツからみたにな川は、すこしまぶしい。きらきら輝いているわけではないのに(むしろじめじめしている)、オリチャンという芯が一本通っているからか、くだらないと吐き捨てたくなるクラスメイトや部員とはどこか違ってみえる。そんなにな川に認められたい、自分をみてほしいと思う心理は痛いほどわかる。ええ痛いほど……。
にな川は、ハツに興味がないのに、あっさりとハツを見破る。低俗な会話をしたくないから、一人でいるのは「人を選んでいる」とハツがにな川に説明する場面がある。
「で、私、人間の趣味いい方だから、幼稚な人としゃべるのはつらい。」
「“人間の趣味がいい”って、最高に悪趣味じゃない?」
鼻声で屈託なく言われて、むっとなる。
「でもおれ分かるな、そういうの。というか、そういうことを言ってしまう気持ちが分かる。ような気がする。」
にな川の言葉は求めていたものではなかったけれど、「不思議に心が落ち着いた」ハツ。だれも自分をわかってくれない、そんな気持ちを溜め込んでいるときに「わかる」と言葉をくれるのは、どんな種類の同意でも心強いことなのかもしれない。
けれどそんなにな川に対して、ハツは「痛めつけたい」「かわいそうになってほしい」と考えるようになっていく。これはにな川を嫌いとか憎いとか思っているからじゃなく、ただ「認められたい」「自分をみてほしい」の延長にある感情だ。
にな川のことを知っていたい、にな川に頼られたい。それは自分の存在を確立することにつながるのだと思う。だれかに必要とされたい、ほかでもない自分が必要とされたい、さびしさが鳴らないくらいに、「だれか」に埋め尽くされたいと、昔私は思っていた。
自分が見下していたはずのクラスメイトたちが、本当は自分よりもいろいろなことを考えてくれていたのかもしれないと気づいてしまったときの恥ずかしさ、侮っていた教師が自分をみてくれていたことを知ったときの安堵感と情けなさ。そんな感情におそわれて逃げ出したくなった先にあったのが、にな川の背中だったのだと思う。
学生のころのことを思い出すなんて書いているけど、いまだって、だれかに必要とされたい、認められたいという気持ちを抱いて私は生きている。
にな川や、にな川の背中みたいな存在は、私にあっただろうか、もうあんまり思い出せないけれど、きっと私もなにかを蹴っていた。そしてこの先も、気づかれないように、だけど「強い気持ち」で、なにかを蹴りたくなることは、きっとずっとあるんだろう。
それにしても、あらためて「蹴りたい背中」を調べてみたら、単行本127万部、文庫32万部突破*1と書いてあってギョエー!となっている。いま、10万部売れたと聞くだけですごいとなるのに……。今後も本がたくさん売れたらいいなあと思います。