ここ最近、読んだ本のまとめ記事を書いてなかったな~。最後に書いたのいつだっけ?と調べてみたら2024年の年末でした。
いつもあれも読んだねこれも読んだねとなんだかんだ10冊以上まとめっちゃったりしているのですが今回は短めにする!
上半期に読んだ本でとくに印象的だった3冊です。
(そういえば、源氏物語下巻はずっと止まってる…………今年中に読めるのだろうか)
上半期とまとめるには時期的に少し早いような気もしますが、書こう!と思ったが吉日、読んだ順です!
(想定以上に長くなってしまったので目次を置いておきます。これをさいごまで読んでくれた方がいたら、あなたは自分が思う以上にすごい人です)

雪舟えま「辺境恋愛詩」
で、出た~~!と思った方はすっかり私のブログ読者です。ありがとう!
まず!この!!書籍ページを!!!!見てください!!!!!
soyogobooks.jp
ありがとうございました…………………(完)
うそです、完しない。完しません。
なにこの作品の世界をめいっぱい表現したページ!!!!!!
辺境恋愛詩の舞台は星から星への旅、きらめく宇宙、とっても広い世界で繰り広げられる小さな小さな二人。広大な世界観と思いきや手を伸ばせば届きそうな距離にあるこの物語に、私はどれだけ胸を打たれ続ければいいのでしょう。
雪舟えまさんの作品って、根底にめちゃくちゃ「愛」があるのですけど、そもそも愛って、なかなか発するの恥ずかしいというか、愛について考えるというのもなんだかくすぐったいというか照れくさいというか、いやいや~愛って…へへっとついごまかしてしまうものではないですか、少なくとも私はそうなんです、永遠の愛とか言われても、へえ……?という反応をしちゃうことがあるんです。でも雪舟えま作品を語るとき、「愛」を語ることは避けて通れないんです。で、その描かれている愛がめっちゃきれいなのに白々しくないんです、これってすごくないですか!!!!!??????????
辺境恋愛詩に出てくるふたりは家読み(家の声を聴く仕事をしている人間)のシガと、人間をもとにつくられたクローンのナガノというのですが、このふたりには、ぶっちゃけ、障壁みたいなものがないのです。恋愛小説って、こう、ふたりが出会い、ぶつかり合い、ときには別れ、その大切さを知り、気持ちを確かめる……みたいな流れがあると思うのですが、辺境恋愛詩では、なんかずっと愛し合ってるんですよ!!!
なにごと!?なに!?ずっと愛し合ってるって!!???
このふたりが互いを嫌になる瞬間とか一度もないんですよ、ずっと気持ちが互いを向いているんですよ、そうやって聞くと(おなかいっぱいだなあ)と思われるかもしれませんが、なんか本当に不思議なんですけど、それがすごくせつないんです。すべての言葉が、きれいで、せつない!!!
どうしてせつなくなるんだろう、だれかを好きになったり大切に思ったりすることって、たぶんそんなに不幸なことではないはずで、だけどもしかしたらこの世界に「絶対」がないことをうっすら感じているから、いつか終わりがきてしまうことをどこかで勝手に予感してしまうから、せつなくなってしまうのかもしれません。
そういう意味ではこの作品がフィクションでよかったと心から思います。いやでもフィクションだからこんなに好きになれるのか……? とにかくきっとこのふたりは終わらない、少なくともこの辺境恋愛詩のなかでは終わらない。だけどシガには寿命がある、ナガノにもきっと寿命がある、というかシガの命が終わったときナガノはいったいどうなってしまうんだろう……あ!って今いきなりこんな考えが浮かんでしまったんですが、こういうことまで無意識のうちに想像してしまっているのか……!? だからせつないのか……!?
えちょっと待ってください、またわたしめちゃくちゃ好き勝手に感想を書いてる!!!!!!!!
この感想を読んで(わ~読んでみたい~)と思わないよね!!???紹介が下手!!??
というか本当は感想書きたくないんですよ、あまりにも完成されすぎている物語なので、私なんかの言葉を関わらせたくないんですよ、あと単純にぎゃー!好きー!!という気持ちが先走ってこんなめちゃくちゃな文章になるし……。でも言わずにはいられないじゃないですか、もっともっとたくさんの人に知ってほしいじゃないですか……できるならこの世界で私だけが知っていたいです。でもそれは無理じゃないですか、なら逆にものすごく大勢の人に知ってもらうしかないじゃないですか……そしてこのせつなさの正体をだれか教えてください……。
ふたりが幸せそうであればあるほど泣きたくなってしまう、え、もしかして幸福って悲しいものだったりするんですか? 相手がいるから生まれる幸福って、実はとても脆いものだったりしますか? とても繊細で壊れやすいものだったりしますか? そんな危ういものを、このふたりは、とても大切にしてるってことですか……? それって……せつないに決まっているじゃないですか…………?(完)
ごめんなさいまだ完しません。短めにまとめるとか言ってたのだれ……?
辺境恋愛詩は全八章からなる長編小説です(ページ数も多い!)
で、その章のはじまりごとに短歌がひとつずつ掲載されていて、雪舟えまさんは歌人でもあるので、短歌がそらもうべらぼうによく、そもそも私が雪舟えまを知ったのは短歌からなんですけれども、そもそも短歌ってなんかめっちゃすごくないですか?(すごくあほっぽい言い方しちゃった)
たった三十一文字に、なんであんなに気持ちたくさん詰め込めるの?
長々長々長々長々……と書き連ねることでしか伝えられない私からしたら短歌はぜんぶ奇跡です。
それで、その短歌がもちろんよいのですけど、書籍ページにも紹介されている短歌があったので引用するよ、わたしが(わ!わ!ワア~~~~~~~~~~~~!)とちいかわ状態になった短歌です。
生きるとは危険なことだ毒草を誤食するとか君と逢うとか
な、な、な、な、なに!!!!!??????????????
生きるとは、危険なことだ、毒草を、誤食するとか、君と逢うとか……。え!!!!?????????????よすぎて受け止めきれない!!!!!!!!!!
ちなみにこれはシガ(人間)視点の短歌ですね(って決めつけてるけどきっとそう)。
そもそもシガはナガノに逢う(この漢字が重要)までひとりで旅をしていて、べつに孤独も感じてなくて、むしろひとり気楽~みたいなかんじだったはずで、なのにナガノに出逢ってから完全に自分の生活や考えなどなどまるごと変わっちゃってるんですよ。で、シガにとっての「危険」は毒草を誤食すること。まあわかります、毒草を誤食することは危険です。でもそれと並列にナガノと逢う/逢ってしまったことも危険だと表現しているわけです。シガはそれまで危険なこととは無縁、その日無理なく暮らしていければいいみたいなスタンスだったのに、ナガノに振り回され(ナガノは振り回してる自覚ないんですけど!←重要)、それまでの平平凡凡とした生活が一変しているわけです。
でもその危険をシガは受け入れちゃっているんですね、いやでもきっとナガノに出逢う前だったら、たぶんシガは毒草を誤食することを危険だと思ってないんですよ。誤食しちゃってもしょうがないか、まあこういう人生だな、みたいなことを考えてそのまま果てる気がするんですよ、でもナガノに出逢ってそれが危険なことになっちゃったんですよ。生きてきたから、こんなことになっちゃったんですよ。ナガノのために危険になっちゃったんですよ!!! この「危険」は危険という文字通りの意味だけでなく、それでもナガノに出逢えた喜びも感じられるんですよ。危険=喜び……? 喜びを危険と表現してしまうくらいのこと……!!!????? という背景をいくらでも想像できる短歌やばくないですか? ていうかさらりと出ているけど、「毒草を誤食」って!!この言葉選びがあまりにもあまりにもよくないですか!? 毒草という非日常感と日常がこんなに馴染んでそれでいてロマンチックでもあって、え!!すごくないですか!?もう、言葉が!出てこない!!
ちなみにこの短歌が載っている二章はナガノ視点で話が進むのですが、それでもシガ視点の短歌というのがやっぱりいいんですよ。なんかさっきから「ですよ」連発しててうざいですねすみません……。
クローンは、人間に「命の火」なるものを見出すことができるんですが、この命の火というのが人間にしかない、情熱みたいなもので、長く人間といるとクローンにも命の火が移るという迷信があり、シガが認識した「危険」というのがまさしく命の火であるのだと思います。すみません私がなに言ってるかわかりますか!!!????短くまとめるって言ったのだれ!!???もうだれも読んでないかもしれない……。でも書く……。あっあとこれサイン本……サインちょうかわいい素敵なので自慢していいですか……。

E、mma……?雪、♾️←舟を横にしてる……? 宇宙船は、雪舟作品において欠かせないので……あの、とにかくかわいいんです!!!
ちなみに唐突に調子づいた夢をここで発表していいですか?
いつかユリイカが雪舟えま特集を組んだら(組んでください)そこに寄稿したいです、なんなら私が企画したいです(おまえは誰だすぎる……)。
寄稿の夢はかなわずとも「ユリイカ 特集 雪舟えま」、私はかなり本気で待っています。えっむしろまだない?まだないよね!?
検索したらありませんでした。短歌特集で寄稿はされていました。いやでも「ユリイカ 特集 穂村弘」が先に来るか……?(私はときどき架空のユリイカ特集を想像し楽しむような人間です)
ああどうしよう、私みたいにユリイカの雪舟えま特集ないかな?と検索した人がこのブログにたどり着いてしまったら……期待させてごめん……。
あっちなみにもっとなに言ってるかわからない感想もあるからよかったら参考にしてね(とは言ったけれど参考にはならないと思う……)
mrsk-ntk.hatenablog.com
じゃあ二冊目いくね。
藤紘「佐藤の告白」
orangebunko.shueisha.co.jp
あの!!!!!!!!!!!この小説!!!本当によかったので!!!!!!!みなさん読んでください!!!!!!!!!!!!!!!!!!
小説を読んでいる途中、そして読み終わった瞬間、みなさんはどんなことを考えますか。感情に名前をつけられないことも多いかもしれませんが、私はこの佐藤の告白を読みながら、ずっとずっと「せつない」と思っていました。
「佐藤君が鈴木君に告白して振られたらしい」という噂をめぐる群像劇。全四章、そしてエピローグからなる長編小説です(連作短編ともいえるのかな?)。佐藤を好きな長谷川ひなの、鈴木の担任である岡本、佐藤の母、そして鈴木の視点からそれぞれの心情が描かれるのですが、わたしがとにかく良いと思ったのが、「佐藤の告白」というタイトルでありながら佐藤の章が!!!ないところなんです!!!!!!!!!!!!!
小説って、基本的に長い物語じゃないですか。それがたとえ短編であっても、ひとつの場面や心情に文字を割くじゃないですか。でも小説って、たぶん書きすぎてはいけないんですよ(あっまたですよって言っちゃった)。想像の余地があることでその物語の奥深さというものが生まれるのだと思うのですが、このバランスってたぶんけっこう難しくて、書きすぎもよくない、だからといって書かなすぎもよくない。なんですけど、佐藤の告白は、潔く、「佐藤の告白」を書いてないんです!!!!!!!!!!!!!!!!!
これって私が個人的に思うことなんですがめちゃくちゃすごいことで、あの、たぶん私が作者だとしたら(という仮定はおこがましいのですが)書きたくなっちゃうんですよ、佐藤の章。最後の章とかにして。佐藤の人間性って、一章の長谷川ひなのの視点からだいぶわかるんですが、でもそれって結局「長谷川ひなのから見た佐藤」しかわからなくて、それはそこから続く担任の岡本、佐藤の母、そして噂の相手である鈴木からしか佐藤のことがわからないんです。読者は、結局ずっと佐藤の内面を知ることができなくて、これって、想像の余地があるとかそういうことを超えて、ある意味で物語のなかにいるってことなんですよ!!!!!!!!!!そして読者を信頼しているということなんですよ!!!!!!!!!
もちろん、佐藤の視点でも読みたかったよ~~~と思う方もいるかもしれません、佐藤の章があってもそれはそれでやっぱりこの小説はいい小説だったと思います。でもよくよく考えてみれば私たちって、他人の心なんて知る由もなくて、仮にどんなに仲がよくてもやっぱり本当の本当のところはわからない、それでも見えるもの、感じることを信じて推し量って他人とつきあっていくしかなくて、それってふと冷静になるととても怖いことだけど、でも、それでもまっすぐさや誠実さや未熟さが他人の目を通した佐藤から見えてくるから、私たちはだれかを信じられるのかもしれません。
そしてすべてを知る必要なんてない、ふたりのことはふたりだけが知っていればいいと伝えることに、この小説は大成功しているんです……。エピローグの最後の最後、だってあんな、あんなの、「真実」を書きたくならない!!!???? いえでもそれは無粋ってやつですね、だからこそ、だからこそせつねェ~~~~~~~んです。
あっ待ってまたこれ長くなろうとしてますか? だいじょうぶですか?
「せつない」というのは、語弊があったら嫌なんですが、でも、なんらとくべつじゃない「せつない」なんです。私はけっこう恋愛をしてきた人間で、失恋なんていったいどれほどしたか、だれかを好きになって報われなくて、どれほどせつない思いをしたか……って話せばすごく普遍的で陳腐な思い出なんですが、でも、そのとき感じたせつなさってたしかに本物で、それは本当にただの恋のせつなさでした。
「佐藤君が鈴木君に告白した」というあらすじからわかるように、中学生男子が中学生男子に告白したという噂が流れるところから物語ははじまります。男子が男子に告白すること。今、それを「理解する」という考えが広がってきてはいるけれど、本来それは理解するものではなく、男子が女子に告白する、女子が男子に告白することとまったく同じのことのはずで、でも、どうしても、それまで自分たちの生活にあった「普通」と違うと捉えてしまう側面は生まれてしまうのかもしれない。ただその「普通と違う」という認識があることから逃げずに、でも「とくべつな理由」もわざとらしく付与せず、登場人物たちが自分と自分から見る他人をどう捉えるかをとってもとってもとっても丁寧に書いていて、その誠実さに何度も胸を打たれました。
そしてその帰着が「ふつうのせつなさ」なんです。この「ふつうのせつなさ」を描くのに、どうしてもいろいろなことを考えると思います、読む側としても少し構えるところがあるというか、いや本来は構える必要がないんです、男性と女性の恋愛小説に理由が必要なかったみたいに、どんな恋愛にだって、そこに「あえての理由」なんていらないと思う。そしてこの小説はその「理由」じゃないところで告白を描いているのだと思いました。
それで、これはもう私の完全なる個人的なあれなんですが、「とくべつなことがない話」って本当に好きで、だって人生ってそうそう特別なこと起こらないじゃないですか、でも日々のささいなことにどうしようもなく感情が揺れ動くことがあるじゃないですか、その小さな小さなドラマを丁寧に書く小説って本当に本当に好きなんです。
好きな場面たくさんあったんですけど、私がとくにわああああああってなったのが、ひなのが佐藤を好きになった理由です。めちゃくちゃ単純で、でも自分がそこにいたら「わかる!!!!!」って絶対になる(読みながらわかる!!!って言ってた)、他人から見たらなんにも特別じゃないことを、ひとりの人間にとってすごく特別な出来事になるということを、丁寧にしかし軽やかに書いているんですよ!!!!!!!!!!!!
もしも私が中学生のとき、彼/彼女たちがクラスにいたらどんな学校生活になっていただろう。十代のときに出会いたかったよ~~~~~~と思う作品たくさんあるのですが、佐藤の告白もまさにそうでした。
あと一章の終わりの場面もすこぶる好きです、あの~~~~黒板のところ!!!!!!
心臓ぎゅって、うう!ってなる!!!!!!!!!!!!!!!
この小説を、友人と約束が会った日に読んでいたのですが、待ち合わせのときもぎりぎりまで読んでいて、なんなら友人遅刻してこないかな~と思ったくらいです(遅刻しなかった)。そして即座にすすめておきました。
そしてこれも大事なことなんですが!!デビュー作!!!!!!!!!!!!!!!!!
2025年ノベル大賞、私はこの受賞作品3作ぜんぶ読んだのですが、それぞれベクトルが違うおもしろさがあり、(ノベル大賞、おもしれー賞……)と後方彼氏面してました。すみません。
じゃあ、3冊目いくね……。短いって…なに……?
ユリイカ 特集 魚喃キリコ
www.seidosha.co.jp
みなさんは、魚喃キリコを知っていますか。普遍的で陳腐な、それでいてど~~~~~~~~~しようもない恋愛をしてきた私です。そしてど~~~~~~~~しようもない恋愛をしていたとき、魚喃キリコの漫画がそばにありました。
魚喃キリコを知ったのはたぶん18、19歳のころ。田舎から上京し、ヴィレッジヴァンガードにいそいそ通っていたときに出会ったような記憶があります。
最初は絵のタッチが好きだなという軽い気持ちで手に取ったと思うのですが、たぶんはじめて読んだのは「strawberry shortcakes」かな、登場する女性たちの心もとなさ、寄る辺なさ、せつなさ、孤独さ、そして痛々しさ。自分がそこにいる、というより、自分と同じ人がいる、と思った。
お恥ずかしい話ではありますが、私は若いころ、どうしようもない男を好きになりがちで、どうしようもない恋愛をして、どうしようもない思いを抱え、どうしようもない自分に少しおぼれていた。好きでいるのが嫌だったのに、好きでいないと駄目な気がして、どうしようもなさから抜け出せない時期があった。
魚喃キリコの漫画も、どうしようもない恋愛を多く描いていて(ハギオ〜〜〜!!!)、もうなんだか当たり前のようにその世界に引き込まれて読まずにはいられなかった。
読んだからってべつに救われるわけでもない、かといって突き放されるわけでもない。ただ、自分も感じている切なさが平熱のような温度感でそこにあって、泣くほどの力もないのに、読めばいつでも泣ける準備ができるような漫画だった。
魚喃キリコさんが亡くなっていたというニュースを聞いたとき、悲しいとか寂しいとかショックだとか、そういう感情を飛び越えて、ただ自分の一部が欠けたような気がした。そしてその欠けはきっと二度と元通りにはならないんだろうなという感覚があって、それがなんだかとてもせつなくて、でもどうにもできなかったから、ずっとそのままになっています。
満たされなさ、どうしようもなさ、むなしさ、痛々しさ、そういったものが皮肉にも綺麗にまざったようなそんなせつなさを、魚喃キリコの漫画を読んでいたときも感じていたと思う。だから当時の自分の姿をふっと思い出した。
大人になって、10年以上魚喃キリコの作品を読んでいなかったというのに、訃報を聞いたときの喪失感といったら、なんと表せばいいんだろう。それも、一年前に亡くなっていたというじゃないですか。その一年間で私は一度でも魚喃キリコを思い出しただろうか。もしかしたら一度も思い出していないのに、どうして一年も教えてくれなかったんだと、理不尽だとはわかっていつつも関係者にちょっと怒りのようなものすら感じてしまった。
魚喃キリコがもういない、いっそその事実は一生知らずにいたかった。たとえずっと作品を発表していなくても、思い出すことがなくても、魚喃キリコがもうこの世にいないことを知っただけで、私はすでに魚喃キリコがいない世界を生きていたのだと思うだけで、せつなくてさびしい。
平成初期から中期、あのころはよかったなんてよく言われるし、私もときどきそんなふうに思ったりするけど、あのころはあのころでよくないこともたくさんあった。すごく孤独を感じたことも、寂しくてどうにかなりそうだったことも、未来が見えなくてひたすら不安になったことも、今もそうだと言われればそれはまあそうなんだけれども、でも、今とはまた違うあのころ特有の心細さがあった。
だれかがいないと不安でしかたがなかったし、そしてそのだれかが恋人であればよかった。相手から連絡がまったく返ってこないときも、鬱陶しいメールを送ってしまった夜も、「私が死んだら悲しい?」なんて聞いてしまった日も(痛々しい!!)、いつもさびしかったし、いま思い返せば抜け出せてよかった~と思うけど、でも、あのころの私には魚喃キリコの漫画があった。確実にいまよりもずっと近いところにあった。
訃報を聞いたとき、作品を読み返そうかと思ったけれど、結局今もまだ読めずにいます。訃報を知ったからという理由で読んだら、なんとなく、自分の欠けた一部分がまったく違う形で補われる気がして、それはなんだか嫌だと思う。
寄稿のほとんど、みなさん自分の話をしていたが印象的だった。もちろん作品の論考や表現から汲み取れるテーマなどの解説もあったけれど、それでもやっぱりみんな自分の話をしていた。
それで、共通して感じたのは、ぽっかりした寂しさだった。咽び泣いたり絶望したり、極端な感情はなく、ただ静かに魚喃キリコがこの世界にいたこと、そして今はいないことを受け止めていた。それでなんだか胸がいっぱいになって、やっぱりせつなくなって、でも読んでよかったなと思った。鮮やかに、というわけでもないけれど、時間がちゃんと経過して美化もされずに色褪せた状態で、あのころを思い出せた気がする。
作品が発表されていたのは主に90年から2000年初頭。20年以上の月日できっとほとんどの人が変化していて、けれどたしかに痛々しく生きていた自分がいたことを、魚喃キリコの作品を読むと思い出すのだとおもう。気づいたら自分の話をしたくなるのだとおもう。今も見てください、私恥ずかしげもなく自分語りを披露しちゃってます。
あのころ、魚喃キリコの漫画を読んだ人たちが今もどこかで暮らしていること。その事実が、当時の自分の孤独さを、今になってこんなかたちでやわらげている。悪いことじゃないのに、せつないね。
つまり私って、せつない話が好きってことなのか……?
ということに気づいた深夜0時すぎ、ここまで読んでくれた方、いるならどうもありがとう。おやすみなさい、幸福でいてね。
今週のお題「上半期ベスト◯◯」