今日もめくるめかない日

悪があるから正義があるのか、正義があるから悪があるのか――浅野いにお「勇者たち」

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 浅野いにおといえばもはや説明不要の人気漫画家、うみだされる数々の作品に多かれ少なかれ影響を受けたひとは多いだろう。もちろんわたしもそのうちのひとりであり、出会ったのはもう十年以上前。上京後、自分という存在をサブカル方面にさがしにいってヴィレッジヴァンガードに入り浸っていたときのことである。

 サブカルと言ったけれども浅野いにお作品をサブカル漫画なんてことばで片づけてしまうといろんなひとに怒られるだろう! 衝撃的、独創的、文学的、社会(風刺)的などなど漫画の枠を飛び越えていくような評され方も多く、エッジが効いた、などと言えばそれすら軽薄な言い方だろうか、とにかく読めばその魅力にとりつかれること間違いなし、わたしも「素晴らしい世界」をはじめて読んだとき、あまりのおもしろさにひっくり返った。

 それまで王道少女漫画が主な読み物だったわたしにおとずれた衝撃たるや、えっ、絵うま……絵うまいし、かわいい絵すき! 絵うま!!……え……このヒワイそうなかたちのものは……? 女の子かわいい……!!! 熊のおじさん!!!! たぶんこんなかんじだったと思うけど、自分さがしの果て(八王子のヴィレッジヴァンガードに行っただけ)にたどりついた浅野いにおという指標に、自分かくあるべき、しばらくそこに腰を据えようと、当時は浅野いにお作品に手を出しまくっていた。あまりに好きになりすぎて、浅野いにお作品が好きだという男の子がいればそれだけで恋に落ちる勢いだった。

 

 素晴らしい世界、ひかりのまち、虹ヶ原ホログラフ、世界の夜明けと終わり前、有名すぎるソラニン、そしておやすみプンプン……(デデデデデ…は未履修)。読んでいたのはこのあたり。おやすみプンプン、実は途中であまりにもしんどくなって離れたんだけど、完結後結局一気に読んだ。やっぱりしんどかった。

 というのも浅野いにお作品は、かなり皮肉がきいているというか、こちらのこころを思う存分えぐってくるというか、わりと心して読む覚悟が必要というか、まあとにかく読めばわかると思うんだけど(あらすじの説明が面倒というわけではなく笑)。ただ歳をかさねてゆくうちに、漫画の新刊チェックに気がまわらなくなり、浅野いにお作品からも離れていったんだけれども、2018年、久しぶりにその作品にふれることとなる。

 前置きが長くなってしまったけど、今回取り上げたいのがその作品、「勇者たち」である。すごくネタバレしてるので、試し読みでおもしろそうとなったら、先に作品を読むことをおすすめします(なんと一巻で完結! すぐ読めるね!)。

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暗黒に挑む、平成末期型異世界冒険譚
世界を闇へと導く「暗黒」の王。
種族も、姿形も異なる勇者たちが、怒り、憎しみ、悲しみ、恨み、嫉み、dis、炎上を乗り越えてその討伐に挑むが…?
全ページカラー! 鬼才が描き出す、平成末期型異世界冒険譚、開幕!

 平成末期型異世界冒険譚、ってめちゃくちゃ意味わからんけどめちゃくちゃおもしろそうだし、いにおせんせ~~~!!!!ってなる。漫画アプリ「マンガワン」で、2018年に連載されていた。それにしてもアプリで無料で漫画を読めるなんて、すごい時代になったものだ……。

 2018年にアプリで読んで、当時も「さすがだ……」とやはりそのおもしろさにぶったおれた。それが昨日ふと読み返したくなり、電子書籍を購入した。このたとえが合っているのかわからないけど、わたしはショートケーキとかなどの甘ったるいものを食べたあとに必ずラーメンが食べたくなる人間で、昨日金曜ロードショーでやっていたタイタニックでえぐえぐ泣いて、ちょっと落ち着いたときに「そういえば……勇者たちを読みたい!」となったのだった。

 

 ループものという紹介のされ方をよく見かけるけど、わたしはすこし違う気がする。ループものって、そのとおり繰り返し。登場人物たちは、ループしていることに気づいていない、あるいは気づいているからこそそのループから抜け出そうとする、という作風が多いと思う。

「勇者たち」も、たしかに繰り返しである。ゆめちゃんたち勇者たちが、暗黒の王を倒すところから話ははじまる、それでめでたしめでたし……ではなく、暗黒が倒されたあとの世界を描く話である。しかし些細な言い合いから仲間同士で諍いが起こり、ついに仲間のうちのひとりが暗黒に魅入られ次の暗黒の王になってしまう……繰り返すのはこの部分。暗黒を倒しても新しい暗黒が一話ごとに誕生する。なので最初のほうは、話のはじまりは必ず「暗黒(かつての仲間)が倒されるところから」になっている。

 たしかにループといえるけど、実際にはループしているわけではない。新しい暗黒が生まれることは必然的になっているが、暗黒が生まれる過程はつど違う。勇者たちは、それまで倒してきた暗黒のことをちゃんと覚えているし、それまでがあるからこそ、新しい暗黒が生まれている。ループではなく、しっかり進んでいる。

 

 当時マンガワンで読んだときは、毎話コメントが寄せられて、それを読むのもたのしみだった。勇者たちの会話はSNSの縮図、というのがあり「なるほどな~」と思った。そのときわたしはTwitterなどをやっていなかったので、「なるほどな~」どまりだったんだけど、Twitter経験済みの今読み返すと、「なるほどな~」どころではない。三杯酢めちゃくちゃクソリプしてんじゃねーか……。試し読みの一話を読めばこのあたりの感覚はわかるであろう!

 

「勇者たち」のどこが好きかというと、正義と悪の関係性。悪を倒すために正義はあるけど、その正義って本当に正しいのか、ということを考えてしまう。悪があるから正義があるのか、正義があるから悪があるのか。人間同士が憎しみ合うのは、いつも悪が滅んだあと。悪が存在していれば、みんな悪のために心をひとつにするし、憎しみ合うことはない。「すべてを無に還すまで、暗黒の魂は不滅」と、暗黒が倒されるたびに言い残すのだけど、まさにこのとおりでだれかが必ず悪になってしまう。

 ゆめちゃんたちのパーティーは、一人ひとりいなくなっていく。最後に残されたゆめちゃんもついに暗黒になってしまい、新しい勇者が討伐、王都は勇者たちを褒めたたえ、平和になった世界を喜び、勇者は愛するひとと結ばれる。このとき、ゆめちゃんは人々にとって完全なる「悪」になっている。だれもその悪を疑わない。読者はずっとゆめちゃんを主人公として見ていたから、平和を喜ぶ王都の大衆のほうが悪に見える。だけど、その世界でそれを悪とするのは、悪になる。

 とんでもない話だ。こころのなかぐっちゃぐちゃになるこの作品が、たったの一巻で読めるよ。読んでほしい~~~!

 

「勇者たち」のなかで異質なのがウサ公の存在。一見勇者パーティーの一員にも見えるんだけど、ウサ公は一度も口を開かない。だれともかかわらない。ただずっとゆめちゃんの肩に乗っているだけ。ウサ公は読者そのもの、とかゆめちゃんの心情をあらわしているとか、そういう考察も多かった。わたしは浅野いにおさん自身なのかな…と思う。

 最後の場面、悪であるゆめちゃんを見世物にして自分たちの地の祝福を願う大衆に対して、ウサ公はすごく怒っているように見える。そのまま憎しみにつつまれて暗黒になっていくのだろうと思わせるラスト。だけどわたしはここのウサ公が、なにかを妬んでいるように見えた。

 ゆめちゃんを倒した「勇者」と身分違いながらも結ばれる町娘エマ、あまりにも茶番なこのふたりのための物語を、ウサ公はとても白けた目で見ている。綺麗な部分だけ見せる物語を、「うつくしい」となにも疑わずに絶賛する群衆を妬んでいるのかなあなんて。

おやすみプンプン」もそうだけど、生きているひとって、生きているあいだにそれぞれ苦しいことがあって、でも他人からはなんでもないように見えて、簡単に「才能がある」とか「すごい」とか「人生イージーそう」とか「しあわせそう」とか「よかったね」とか、最後の場面だけを見て決めつけられる/決めつけてしまうことがあると思う。そういうのってけっこう本人からしたらもやもやするというか、でもわざわざ抗議することでもないし、それが最後のウサ公の表情なのかなとか思ってみたり(と考えたときウサ公の表情見たらめちゃくちゃ闇深そう……)。

 

 悪は簡単にうみだされていくし、正義もしかり。だれから見ても間違いのない正しさのかたまりであったブラパンダも、正しさを貫いたゆえに悪をうみだしてしまった。そういうことだ。

 正義は必ずしも正義じゃないし、悪もしかり。でも、多くのひとにとってそこはたいした問題じゃない。たぶん一生、悪は滅びないだろう。人が人であるかぎり。

 

 これはすごく余談だけど、「うみべの女の子」にブラパンダのキーホルダー出てくるのうれしい。いやキーホルダーがブラパンダになったのか。ブラパンダ好きだったけっこう。野生にかえってしまったけど。うみべの女の子は映画観たい。

 

 あとこれも余談だけれども、わたしがいつまでも前髪ぱっつんにしたがるのは、間違いなくaiko浅野いにおの影響だ。本当に余談だった。

好きな賞のひとつ、「女による女のためのR-18文学賞」

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 文学賞は数あれど、それぞれの賞には毛色があって、その毛色がばちこん自分に合う賞は限られる。なかでもわたしが信頼している(受賞作ならびに最終候補作はきっとおもしろいはずと信じてやまない)賞が「女による女のためのR-18文学賞(新潮社)」である(以下R-18文学賞)。

 最初からこの賞の存在を知っていたわけではなかった。好きになる作家がこの賞出身の方が多いので、自然と注目するようになった(窪美澄さん、山内マリコさん、彩瀬まるさんなど)。
 
 R-18文学賞は設立当初こそ「女性が書く、性をテーマにした小説」を募集していたが、第11回よりリニューアル、今は「女性ならではの感性を生かした小説」をテーマにした作品を募集している(また、第20回から応募資格が女性→性自認が女性の方となった)。
 官能描写の有無は問われなくなったけれど、あってもなくても大事なのは「女性ならではの感性」、これがたいてい、ばちこんわたしに刺さってくるんである。

 文章で読む官能は好きだ。わたしは映像で官能をたのしむことがほとんどないのだけれど(たとえば映画なんかで「そういう」場面が出てきたときは、ちょっと目のやり場に困ってしまう)、小説に出てくる官能にはわりと前のめりだ。ただ官能ならすべていいかと問われたらそういうわけではなく、そういう意味で信頼できるのが「R-18文学賞」なのだ。

 わたしが好きだと思う文体の条件のひとつに「色気」がある。色気、それはなにもベッドシーンに限ったことではない。たぶん、表現力なんだろうか、つかう言葉や文章のリズムなんかがつながってくるのだと思うけど、たとえばいすに座る、食事をする、電車に乗る、家に帰る、なんてことのない会話をする(ときのしぐさ)などの描写ひとつにも、色気というものが漂っている作品がいくつもある。
 

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 たとえば先に挙げた窪美澄さん。わたしが好きな作品のひとつが「よるのふくらみ」(ちなみにR-18文学賞を受賞した「ミクマリ」は「ふがいない僕は空を見た」に収録)。
「よるのふくらみ」……って、まずタイトルからして色気がすごいと思うのですが、うまく伝わるだろうか……。「よる」と「ふくらみ」の組み合わせ(そもそも「ふくらみ」って、なんというか、とても官能的だよね……)、でもそれじゃあだれしもが「ふくらみ」を使えば官能的になるのかといえばそうではなくって、きっと窪美澄さんだからこそこのタイトルだけでどきどきさせられるわけで、わたしはこの「よるのふくらみ」という言葉を思いつくのはまさに「女性ならでは」だと思う。

 意識してそうしてきたわけではないが、本を読むとき、わたしは女性が書いた作品を手に取ることが圧倒的に多い。たぶん女性のもつやわらかみが好きなんだろうけど、表現ににじみでる繊細さや自分の近くに感じるような比喩とか描写とか、共感とはまた違うような気がするんだけど、作品がすぐとなりにあるような、そんな感覚になることが多い。
「よるのふくらみ」は、そういう近さを感じる。官能的で、タイトルだけでなんだかどきどきするんだけど、でもすぐ触れられそう。よるのふくらみ、巨きな魅惑を持っている。タイトルのことしか言ってなくて申し訳ないのだけど、なかみがあってこそのこのタイトルでもあると添える。


 第20回R-18文学賞の結果にともない、小説新潮5月号はR-18文学賞特集だった。さいこうだった~……。受賞された宮島末奈さんの「ありがとう西武大津店」、なんと大賞、読者賞、友近賞、史上初の三冠受賞ということで、す、すごい。R-18文学賞は最終候補が発表されると作品が期間限定でウェブ上に公開されるので、そのとき一度読んでいたのだけど、ほかの作品とは「すこし違う」印象を受けた。
 コロナ渦中のことを直接書いているからか…なんとなく違う、たぶんだけど、さわやかなのだ。「ありがとう西武大津店」は女子中学生の青春小説、閉店してしまう西部大津店に毎日西部のユニフォームを着てローカルテレビの中継に映る成瀬とその友人あかりの物語。
 最終候補作、公開されたときにわたしはすべて読んだのだけど、どこかほのぐらい作品が多かった(個人的にわたしはそのほのぐらさがとても好きなのだが)。だけど「ありがとう西武大津店」は不穏さなどはなく(底抜けにあかるいわけでもないんだけど)、実は個人的には物足りなさを感じていた。けれど小説新潮であらためて読み返したとき、わたしは少し変わっている成瀬のことがなんだかとても好きになった。たぶんだけど、わたしはR-18文学賞に恋愛小説を期待していたのだと思う。でも「ありがとう西武大津店」に出てくる成瀬とあかりそれぞれの、なにかを遂げようとしたりだれかのことを思いやろうとする気持ち、友人との微妙な距離の感覚に、官能とは違うけど、わたしはやっぱりどきどきさせてもらえた。懐かしい、ではないけれどやっぱり「近く」感じるような。

 

 R-18文学賞特集では、「ラブドールはどんな夢を見るのか(都築響一)」がおもしろかった、個人的にラブドール(と生活するひと)に実は興味があるので。ただこのレポは人間がラブドールのようになって写真を撮ってもらうというもの。いろんな世界があるのだなあ、しかもお客さんは男性が多いということも書かれていて、なんだかなおどきどき。
 また、彩瀬まるさんの「なめらかなくぼみ」、これは「よるのふくらみ」と同様、タイトル……!!!!!!さいこうか~……。つまり「椅子(ソファ)に座るだけでも官能的」が描かれているわけで、おもしろかった。
 一木けいさん「駄々洩れ」、一木けいさんはずっと気になっていて未読だったのでちょうどよかった、長編で読みたいと思った。わたしは恋愛小説、とくに報われない恋愛小説が好きで、この方は、わたしの好きな報われなさを書いている気がする……!


 これからもたのしみしています、R-18文学賞。次回からは選考委員が変わりますね。
 ちなみに第20回最終候補作になった作品のなかでわたしがいちばん好きだったのは戸塚セーラさんの「悪い癖」、ひとつひとつの文章にどきどきさせれらっぱなしでした。

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「結婚」をしたかった理由

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二十歳前後

「結婚したーい」という会話を友人と会うたび交わすようになったのは、大学を卒業して働き始めてからだろうか。二十歳そこそこのときだ。彼氏がいるわけでもないのに「結婚したーい」と漠然と思うようになったのは、第一次結婚ラッシュの波にもまれたからである。高校のときから付き合って、めでたく結婚、子を授かったのでよきタイミングと思い結婚、あるいは職場で出会った人とスピード結婚、出会い方はいろいろあるにしろ、地元に残った友人たちが続々と結婚していった。あっという間にFacebookのタイムラインは結婚式や子どもの写真で埋もれ、いつのまにか変わっている友人の名字。プロフィール写真も生まれたての子供の写真になっている。失礼であるけれども、美穂、とかそういう名前だともはや「どちらの美穂さんでしたっけ……?」状態に。

 しかしタイムラインに上がる写真の中の、友人たちの、なんて幸せそうな顔よ。もちろん不幸なときの写真をあげることはないので、当たり前だが幸せそうな側面しか目に入らない。なので結婚=幸せなものと刷り込まれるには十分だった。さらにそのころ、二つ下の妹が二十歳でできちゃった婚をすることになる。結婚式は挙げなかったが、あまりにも身近で「結婚」事案が発生。旦那と子どもと奮闘して生活する妹を間近で見ていると「私も家庭を持ちたいなあ」などと思うようになった(彼氏はいなかったのに)。

 さてしかしこのころの「結婚したーい」はまだ、高校時代の「彼氏ほしーい」と似たようなものであった。漠然と憧れを持っていて、「結婚したらいいことあるんだろうな」となんとなく考えている。その憧れ100%だった感情に、焦りが加わってくるのは第二次結婚ラッシュが到来したときだ。

 

二十五歳前後

 第一次結婚ラッシュのときに「私たちはまだまだだよね~それよりもまず彼氏つくらなきゃ!」とか言い合っていた友人があっさりと結婚をしていった。いつから彼氏いたのん。「料理なんて全然してないよ~!」とか言ってたのに、インスタグラムにアップされている写真の、あれだ。「ていねいなくらし」感。私は「ていねいなくらし」とはかけ離れている生活をしているので、そういった写真を見ると「ひい!お助け!」となる。自分には到底できない、まったくしようと思わない、そのキラキラ結婚生活に引け目を感じ、さらにその引け目は焦りに変貌し、「わ、私も結婚して、料理とか頑張って、オーガニックな生活を送らないといけないんだろか……」と間違った刷り込み方をされていく。

 当時付き合っていた彼氏に、それとなく友人のキラキラ結婚生活を見せたり、両親に会わせたりと「私あなたとの結婚考えてますよ」アピールをしてみたものの、浮気をされあっけなく破局。実家にも連れていき、同棲までしていたので、私は周りと同じように「このまま結婚するんだろうな……」とか思っていた。うまくいかないものだ。

 それからまったく特定の彼氏はできず。恋愛ごとにかんしては本当にうまくいかず、わりとやけっぱちな気持ちで毎日を過ごしていた。そうこうしているうちに妹が第二子を出産。妹は「ていねいなくらし」とはまた違う、なんか肝っ玉母ちゃんに成長していくのだけど、「あんた今までそんな家事できた? 料理こんなにうまかった? お母さんの味がするよ……?」と自分が姉なのにもはや人生の先輩。ときどき地元に帰れば近所の人たちに「妹ちゃんはもう二人目なんだって~?がっはっは」と嫌味ではなく(と思いたい)言われる始末。「そうなんです、えへへ」と返せば「お姉ちゃんはどうなのよ~」とこれまたそうくるよね。「えへへ、私はまず彼氏つくらないと~」ってなるべく自虐的にならないよう。

「やばい、早く結婚しないと」という気持ちがこのころから芽生えていた気がする。それは自分のための結婚ではなく、「お姉ちゃんは結婚まだなのね」を覆したいという気持ち、親の無言の訴え、心配をなくしてあげたいという気持ち。私の「結婚したい」は「親のために結婚しないと」に変わっていた。

 

二十八歳前後

 きました。第三次結婚ラッシュ。三十を前に「ここが最後のチャンス」とばかりに駆け込んでいくいく。そもそも「三十までに結婚」の風潮、いつからできたのん。このころやっと現夫と出会っていた。夫はまるでモテない。イケメンでもないし女心がわかっていない。ただやさしさと一般常識はあるので、刺激があるわけではなかったが、穏やかに付き合いを育んでいた。(それでもモテない夫なので、付き合ったきっかけは私が家に連れ込んだ。これも私の焦りが成した業だろう)

 夫は私よりも六つほど上、当時三十五くらいだったろうか、結婚を意識していないわけではない年齢で、実際に「結婚はいつかしたいと思っている」とのんびりとした回答。さて私は「三十までに結婚」という風潮を意識しまくっていたので、酔っぱらった日なんかにはよく「結婚……考えてる?」とかプレッシャーを与えまくっていた。実家にも連れていき、両親に会わせ、同棲を開始。それも半年という期限をつけて、「半年後に結婚するか別れるかを決める」という極端な条件を出した。以前同棲して失敗した経験があったので、だらだら付き合いを続けるのだけは避けたかったのだ。

 迎える半年目。結局別れた。結婚するという覚悟が私たちになかった。というのも第一次、第二次、第三次と結婚ラッシュを見てきて、それが幸せなものだけじゃないと気付いた私たちは、結婚というものに対してビビっていた。「私たちが結婚なんてしていいのか……?ちゃんとできるのか……?」というよくわからん不安に駆られ、「一生この人といることができるのか……?」と疑問を持ち始めたらもう駄目だった。一度別れという形をとるも、とりあえず部屋を見つけるまでは一緒に住む。

 そんなとき、私はふらりと実家に帰り父親に別れを報告。するとすごく真剣な顔で「ちょっと待て。なかなかああいう男はいない。考え直せ」と言われた(なにかの標語?)。私の恋愛遍歴はすこぶる悪く、親もそれをなんとなく知っていて、なので今の彼氏はまともだぞと。「父親の言うセリフか? 普通、慰めるとかじゃないのか?」とも思うが、私の父親は以前「結婚してくれないなら既成事実を作れ」とまで言った人なのでいまさら何も思わない。それから三十年来の幼馴染みである友人(第三次結婚ラッシュで結婚をし、子を産んだ)にも「うーん。まあ、結婚してみて駄目だったら別れりゃいいんじゃね。もし子どもできたとしても、駄目だったら別れりゃいいんじゃね。なんとなかなるっしょ」という産んだばかりの子を抱く母親とは思えぬとんでもない発言をされ、それが本心かどうかは置いておいて、なんだかかなり気が楽になったのはたしかだ。それで東京に戻り、もう一度話してみようと決心。とはいっても話し合いというのが苦手で、すぐに結果を出したくなる私は「本当に別れるんなら明日にでも家を出て行ってくれ。別れないなら結婚しろ」とほとんど脅しのようなプロポーズをした。それで結婚した。

 バイト時代の十年来の友人、四つ下の男の子がいるのだが、彼は恋愛や結婚というものにあまり興味を持っていない(女の子のことは好きみたいだが)。そんな彼が私と現夫が別れたと相談したときに珍しく励ましてくれたことがある。

「結婚って、幸せじゃない人がするもんじゃないの?」

 ちょっとびっくりした。幸せ絶好調だからするんじゃないの。でもたしかに「彼氏ほしーい」と「結婚したーい」と「幸せになりたーい」は類義語だ。そのときは、結婚をいう選択をしなかった私は、ひとまず現状に満たされているのか……とこれまた気が楽になった。

 今でも私は、結婚という形をとったのは親のためという気持ちが大きいように思う。もちろん夫のことを信頼していて、一応生涯を誓う合う仲になったわけだが、「結婚して幸せになる!」という気持ちはそんなになかった。けれどやはり「このまま一生一人だったら」という寂しさはある。私は寂しがり屋なのだ。常に彼氏ほしい症候群に悩まされていたのだから。

 

三十歳

「三十までに結婚」というのを意識しまくっていたので、二十九歳で籍を入れたほうがいいかなとか考えていた。結婚しようとなったのは2019年のGW。その年の八月に三十歳を迎えるというときだった。だから全然、二十九歳のうちに結婚することはできたのだけど、なんだか何かに負けたような気がして、誕生日の三日後に婚姻届けを提出した。
 それからSNSの名字変更をまだしていない。こちらも何かに負けたような気がして、旧姓を貫いている(どちらにしろ何かには負けている気になるのだが)。

 もし私が将来子を産んで、私みたいに「三十までに結婚しなきゃいけないのかな」とか悩む時期がきたとして、そのとき母親である私が「いや、お母さんは三十で結婚しましたよ」と言って子どもが少しでも気が楽になったらいいなあと思ったのだ。そんな楽しい妄想をだれかとしてみたいなあと、高校のころに芽生えていたふわっとした思いが、「結婚したい」につながっていたのかもしれない。

 

 

 

生活に不思議がまざる――片島麦子「レースの村」

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 一行目を読んだとき、「あっすきだ」となる小説にときどき出会う。わたしはこれをひと読み惚れとよんでいて、昨年この出会い方をしたのが「レースの村」(片島麦子/書肆侃侃房)、初出は同出版社から出ている文学ムック「ことばとvol.1」。文芸誌の良さに気づきはじめた延長で、なにげなく手に取ったのがきっかけだった。
 そして今年の四月に「レースの村」が単行本化されると聞いて、わくわく予約、本日読み終わったので感想を書く。

※ネタバレ含みます。

 

www.kankanbou.com


「レースの村」は表題作を含む四作からなる短編集。帯には「綻びのできたレースのように繊細で不可思議な世界を紡ぎだす四編の物語。」とある。この、「綻びのできたレースのように」以上にこの作品たちをあらわすことばってあるのか……と、読み終わった今この文言を見て、感嘆たる思い。
 レース、それは繊細で綺麗なもの、うつくしいもの、ついふれたくなるもの、眺めていたくなるもの。そういうものにできた綻び。それはちょっとした不穏分子だけれども、その綻びに重点を当てるのではなく、綻びを含めたレースの世界観を俯瞰的に描いている、そんなふうに感じる作品群だった。
 
 生活に不思議がまざっている(不思議が生活にまざっている)、個人的にこういうお話がとても好きなので「レースの村」はどんぴしゃ。お心当たりがある方ぜひ……!


幽霊番

 この作品がいちばん好きだった。大学の友人サクマの帰省になにげなく同行した「ぼく(ウツミ)」。サクマの村はとても奇妙、村人がひとりの幽霊と暮らしており、幽霊を世話する番が順番に、家ごとおとずれる(期間は一週間くらい、であれば周りから文句も言われない)。幽霊番ですることは、幽霊に夕食を用意すること。夕食時になると、女の幽霊がふらっとあらわれて、がつがつごはんを食べ、消えてゆく。村人にも、外からきたウツミにも姿は見えていて、なかにはその幽霊に魅せられて村に移り住んだという男もいる。
 作中、その幽霊はとても美人に書かれているわけではなく、むしろ食べ方もすごく汚らしい感じで、たぶん不気味な姿、だけどウツミは不思議とその幽霊に惹かれていき、ついにその幽霊の住処なのではと思われる「石」を盗んでしまう(この石が、幽霊番となる家に運び込まれる)。
 この作品、めちゃくちゃこわいんです。ホラー的なこわさ。幽霊に食事を用意しているのも村の様子も村人たちも、不気味。どちらかといえばシンプルな文体で(それもひと読み惚れの理由の一つなんだけど)、でもなんかすごく不気味な情景が思い浮かぶ。
 おもしろい小説からは、ときどきにおいがする。たとえばそれはごはんを食べている場面だからとかそういうことではなくて、その小説のにおい。幽霊番は、田舎で出てくる、漬物のにおい。別にくさくないし、気分が悪くなるようなものでもない、かといって気持ちが落ち着くようないいにおいでもなくて、じめっとしているような、ちょっと忘れられないにおい。

しつこく懇願するぼくをサクマは胡乱な目つきで眺めた。(27頁より/幽霊番)

 胡乱(うろん)、はじめて聞いたことば(ぐぐった)。けっこう、身近でないことばって、頭に入ってこないというかそのことばだけ浮いて集中できなくなることがあるのだけれど、この「胡乱」ということばがなんの違和感も不自然さもなく(いやぐぐりはしたんだけど)、わたしのなかにすっと入ってきてくれて、こういう文章でつむがれる感性が爆発している作品といえば、わかってくれる方いらっしゃいますか……笑

 ちなみに幽霊番はこちらから試し読みができるよう! ウツミが幽霊に惹かれていくさまはぞっとしつつもこちらまで取り込まれそうになる。

note.com


レースの村

 女性だけの村で育った卯月と、「騙されちゃ、だめよ」と云い、突然いなくなってしまったハルカ。サナさんの秘密の儀式を偶然目撃した卯月は、自分の知らない世界があることに気づいてしまう……(帯文言より)

 表題作。女性だけで生活する村、そこでは男性は獣と教えられたりする。ハルカは、おそらくそんな村の教えに疑問を持ち、出ていった。ハルカがなにを持って「騙されちゃ、だめよ」と伝えてきたのかは明確にされていないけど、卯月が住む村はどこかおかしい。宗教じみた、大人のいうこと第一に、育てられている感じがする。村ではキャベツを育てており、冒頭では夜盗虫によってレース状に食い荒らされている、とある。レース状に食い荒らされている……、こ、こんなうつくしい不穏なはじまりかたある……? このキャベツは物語終わりにも出てきており、卯月自身がキャベツの葉を噛みちぎる。レース状に食い荒らされているほうが、なんだか神秘的でありまた細々とした綻びができているような感じがするけれども、最後に卯月がそういうのもぜんぶまるごと思い切り噛みちぎったなら、それは(わたしは)いいなと思った。


空回りの観覧車、透明になった犬の話

 幽霊番もレースの村も、ちょっと不穏というか、読んでいて「油断できないな」と思っていたので、続く「空回りの観覧車」「透明になった犬の話」、こちらも「油断できないぞ」という気持ちを念頭に置いて読みはじめたのだけど、後半二作はほっこり、なんかほっとする話(読み進めることがたのしいことに変わりはないので、がっかりするとかではなく)。

 
 どれも新しくて、なのに懐かしい、なんだか不思議な短編集だった。これからも買ってゆきたいな~。
 あと書肆侃侃房、わたしのパソコンでは一発変換してくれぬのだけが悔しい思い。

透くんのようになりたい人生だった

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 わたしは生粋のりぼんっ子であるので、少女漫画=集英社という意識が根底にあった。集英社こそ絶対神くらい思っていたが、それでも集英社以外にも夢中になった少女漫画ももちろんたくさんある。

 先日、掃除でもしようと重い腰を上げたときに視界に入った漫画「フルーツバスケット」(高屋奈月白泉社)。今さら説明などいらないほどの名作、通称「フルバ」、昔からわたしはこの漫画がだいすきでだいすきでもうだいすきで、何度読み返しているかしれない。何度も読み返しているのに、掃除をしようと思い立ったときによりいっそう魅力的に感じてしまうあの現象、名前がついているなら教えて……。
 しかしわたしも大人である、1巻から読みはじめてしまうと結局最後まで読んでしまうとわかっているので、「いいところ」だけ読んで満足し、あとは大人なので掃除をするなりと6巻を手に取った。

 ちなみにわたしが持っているのは通常版で(今は愛蔵版も出ていますね、ほしいよ……)、通常版の6巻といえば、「ああはいはいはいはいはい、6巻ね、はいはいはいわかる、6巻ね、うんうんうん」ともはや言葉はいらず、なにはともあれ6巻、フルバをはじめて読むならまずは6巻まで、とにかくとりあえず6巻になにもかもが詰まっている、6巻なくしてフルバは語れぬなど、6巻=最高の巻として植えつけられているひとも多いのではないだろうか。
 6巻、それは猫憑きである夾くんの本来の姿や過去が明らかになる巻。醜い化け物の姿、異臭もする、声もいつものものと違う、透にとっては恐怖の対象になってしまった夾くん。そんな姿を見られたくない、拒絶されたくない、そういう思いから透の前から逃げ出す夾くんだけど、透はそんな夾くんを追いかけて、向き合おうと…………(泣)。
 ここの場面がほんとうによくて、「怖いけど、知らないからこそわかりたい」と化け物の姿になった夾くんを離そうとしない透にわたしは何度涙を流したか、わたしも、もし自分の身にこういうことが起こったら(つまりなにかの呪いのせいで、本来の姿が化け物であるという秘密を抱えている男の子と出会い、その男の子の本来の姿を見てしまったとき)、透のように抱きしめてやるんだ……!と考えていた。まあそんな男の子とは出会ってないんだけど。
 夾くんが自分の気持ちを泣きながら透に吐き出すときの場面は、「尊い」ということばを通り越して、いったいなんとあらわせばいいのだろう……わからない……宇宙のはじまり……? ビッグバン、ありがとう。透によって夾くんのこころがすこしずつほぐれていくじゃん、もうさ、「うおおおおおお夾くん、あああああ夾くん、、、、あああああああああ!!!!!!」という感じなんだけど、そこからの、

 

「透」(夾くんが名前呼んだ)

 

 あまりの宇宙にたおれた。

 このように言語表現もままならないのに、掃除なんかできるわけないよ。わたしはそのまま当たり前のように、7巻を手に取った(宇宙の理)。6巻から読んでも結局最後まで読んでしまうことになった。
 フルバのよいところは、主人公(主に透、由希、夾)以外にもたっくさんの登場人物がいるんだけどそれぞれにスポットライトを当て、それぞれ愛すべきキャラクターになっていること。わたしの最推しは夾くんだけど、同じくらいほかのひとの過去を知ったり透とこころを通わせていく過程を見るのがだいすきだった。

 

 7巻、燈路には最初「なんだこのむかつくガキは……!!」と思いましたが、彼には彼でかかえるものがあって、しかもまだ幼いこどもであり、それでも杞紗のことをおもってるんだよね、今ならわかる。うおちゃんが「帰る家」をのぞむモノローグ泣ける。「欲しかったものがある」ではじまるモノローグ超すきで、みんな帰る家やあったかいひとを、のぞんでるんだよね……。透がいて、そして透のまわりにみんながいてよかったよ……。

 8巻、紫呉の洗濯物のはなしが当時からだいすきだった。今読み返しても「うん、うん……あしもとから片づける……」って元気出た。でもわたしもう紫呉の年齢たぶん追い越してる……(絶望)あと夾くん、あああああ~~~~!!!!!!!!!!(フルバは少女漫画ですが実はキュンキュン!みたいなシーンは少なく、それがまたいいのですが、ときたまよい塩梅で、夾くんがわたしたちをときめかせてくれる場面があって、8巻は泣いている透に「おまえってなんでそんな泣き虫なわけ……?」と居間で聞くセリフがあって、あああああ~~~~~~!!!!!!夾くんの顔やさしっ……

 9巻、、、待って、このままだと全巻(23巻)ぜんぶにコメントを残しそうな勢いの自分に今驚いた。さすがにしつこいよね……。でも残したいから簡潔にまとめよう。9巻、はなちゃん。はなちゃん……。

 10巻、草摩の別荘へ行く。当時こどもだったわたしには紫呉の行動が謎すぎて「余計なことすんな……」と思い続けていた。そして今読んでも「余計なことすんな……」と思った。ラストの由希の行動でわたしが焦る(夾くんのことを心配しすぎて)。

 11巻、慊人もう今すぐ帰れよ………………………………………………………………夾くんああああああああああああああああああああああ別荘編まじ最高


 12巻、楽羅…………わたしは……おまえもすきだ!!!!!!!!!!!!!!(泣)つじつま合わせなんかじゃ!!!ないよ!!!!!!(泣)

 13巻、紅葉いとしいし透が夾くんを意識しはじめる最高な修学旅行編(編とはいえわりとあっさり終わるんだけど)、透が夾くんのそでをつかむじゃん……振り返ったときの夾くんの顔さあ・・・・・・・・ああああああああああありがとう

 14巻、紫呉おまえなんなん……!?

 15巻、シンデレラっぽいもの。真知って好かれていないイメージあるんですがわたしはけっこう好き(夾くん派だから?)。

 16巻、おとうさん生きていてほしかったよ……

 17巻、紅野おまえなんなん……!?

 18巻、由希が真知のためにチョーク折るところめっっっっっっちゃくちゃすきなんですよね昔から…。やさしすぎない……? あと昔はあんまり魅力に気づかなかったけど、春めちゃくちゃいい男だな……?!?!?!?!?!?!?

 19巻、シーツ越しのところおぉぉぉぉぉぉぉおああああああああああああああああああああああああ泣いた

 20巻、………………………………………………もうだめだ。つらくてたおれた。これいじょう夾くんや透をくるしめないでほしい……もうくるしまないでほしい

 21巻、由希が夾くんに喧嘩しながら言うセリフが最高なわけです。崖から落ちるのをキャッチできなくても、車に轢かれそうになるのを助けられなくても、夾くんはちゃんと透を守っていたんです。って由希が教えてくれるんです。最高以外になんと言えばいいの……?

 22巻、泣いてる

 23巻、ありがとうしか言えねえ


 そういうわけでフルーツバスケットはとてもいい漫画です。ここまで読んでくださったひとは、たぶんすでに読んでいるひとたちであると思うけど、もし読んでいないひとがいたら、今からでも遅くない……というかいつ読んでも遅くないから読んでくれ頼む。ちなみに今回は6巻から読みはじめてしまったけど、1~5巻も最高なシーンがもちろんあるよ(おにぎりの具のはなし、馬鹿な旅人や、雪が解けたら……のシーンとかさ)。
 そういえば愛蔵版を調べてみたら、愛蔵版の6巻は別荘編なんだね。どっちにしろ6巻最高か。

 ちなみにまたここでひとつ黒歴史を暴露すると、少女漫画のヒーローに恋してしまうのはあるあるだと思いますが(あ、あるあるだよね……!?)、夾くんが好きすぎたわたしは、こっそりノートの片隅に「草摩○○(←自分の名前)」など書いてたのしんでいたのであった…ああああああああああああああああ透くんのようになりたい人生だった。ちなみに掃除はしてない。


 

 

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帯、そこにいてくれてよかった(いないとなんだか寂しい)

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 本を買うと、たいてい帯がついてきます。わたしはこの帯を基本的にとっておく派なんですが、それは昔、まだ今ほど本に対して思い入れがなかったころ、ともだちに「本を売るときは、帯がついていたほうが高く売れるらしい」と聞いたからでありました(まあ地元にはブックオフとかなかったので、そのともだちの情報も、どこからのものなのかはわかりません)。

 今はもう、「高く売れるから」なんて理由で帯をとっておく、ということもないですが、きっかけがなんにせよ、わたしの帯をとっておくスタイルは習慣というか癖なのであります。

 帯というのは、編集者が考えたその本のキャッチフレーズや、なにかの賞の受賞作であることや、本文の引用、著名人からの推薦文など、購入者の興味をそそるような文言が書かれています。買って数年後、そうだった、この本は、こういう賞を受賞したのだった、と帯を見返すことでその本の歴史を知ることもできるのもまた一興。最近では、宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」が話題となっておりますが、重版も何度もされていて、そのたびに帯の文言が変わっているはずです。

 おそらく、文藝賞受賞第一作目、三島由紀夫賞受賞作家、芥川賞ノミネート、芥川賞受賞(&)本屋大賞ノミネート、本屋大賞9位(これは目にしてないかも)……など変遷があり、自分がどのタイミングで買ったのかをあとで見返したときわかるのもおもしろいですね。そんなこともない?

 ただなかには、帯をとる派もおります。理由は、「読んでいるとき邪魔だから」が一位(わたし調べ)。たしかに帯は、なんか急にばららっと表紙カバーから外れたりして(とくにブックカバーをしていない文庫)、ああもうとはめ直すこともしばしば。しかしわたしには、帯を捨てるのは、どうにも「もったいない」という気持ちがあって、いやこのもったいないは高く売れるだ売れないだとは別問題で、本の一部として考えている節があるという意味でのもったいないなんですが、まあそんなことはさておき。

 本好きにとったら「帯を捨てるなんて言語道断」論を繰り広げる方もいるやもですが、今回はそういう論争をしたいわけではなく、帯をとる=自分にとって必要のないものをばしっと取り去る、これ考えてみたらとても潔いことなりと、実は帯をとる派に憧れている節もあるわたしです。

 帯にかぎらず、「もったいなくて捨てきれない」と思うのものが実はたくさんあって、たとえば昔デートで行った映画の半券であるとか、モロゾフのプリンを食べたあとのガラスの器だとか、何年も着ていないしきっとこれからも身につけないのにしまってある当時気に入っていたミニスカートだとか。なんと言えばいいのだろう、未練たらしいような、具体的にはわからないけど、それを持っていることで自分のなにかを守っているような(思い出とか矜持とか意地だろうか)。

 だから帯を潔くとって読書をたのしむ人は、なんだか、必要なものだけを選びとっている、という感じがするのです。まあもちろん、帯の有無で読書をたのしむたのしまないが決まるわけでもないですが。

 

 そういえば昔、書店でバイトをしていたことがありました。本を売るとき、袋やブックカバーの有無をたずねますが、いる/いらないは、基本的にみなさんのなかで答えが確立しています(そういうわたしも、袋やブックカバーはいらないと答え続けている、こっちは不要と決めているのよな)。

 そんなに大きい店でもなかったのですが、近くにはそこしか書店がなかった&わたしは朝シフトに入っていたので、常連も多かったのでした。そのなかに、主に歴史小説の文庫を買ってゆくおじさんがいて、そのひとは、まあぶっきらぼうというか、いつも急いているような、それこそ必要な事柄だけを行なっているようなひとでした。

 二週間に一回くらいの頻度で一冊ずつ、本をレジに持ってきて、ブックカバーと袋は……とわたしが最後まで言うのを聞かず、「いらんいらん!」と、バーコードを読み取った本をさっと自分の手元に引き寄せ、帯、表紙カバーをとり、さらに表紙、さらにさらに扉ページをその場で(!)びりーーーっと剥いだり破いたりするひとで、お、おお読むときはいきなりもう本文からになるわけですね、ご、合理的……とあっけに取られながらも残された本の一部だった帯や表紙カバーをどうにも複雑な気持ちで処分するときの気持ちといったら、うむむむ。たしかに本の価値の大半はきっと本文にあるし、なにを必要とするかは人それぞれです。そのひとは、必要なものの選び方がとても極端なひとだったんでしょう。正直、せめて家でやってくれと思いましたけど。

 

 今のところ、帯も必要なものとしてとっておいているわたしなので、それならお気に入りの帯をすこし紹介いたします。

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 ジャケ買い……とまではいかなくても帯の文言や表紙カバーが少なからずきっかけとなって買った本。毎年行われる各出版社の特別カバーはすきだし、ネットに疎かったころは、芥川賞と帯に書かれていればそら気になるし、「椎名林檎大絶賛」とくれば買いますがな(実は今でこそ彩瀬まるさんは作家買いをしていますが、きっかけはほんとこの帯でした)。あと、わかると思いますが浅野いにおさん好きなので……笑

 

 しかし帯というのは、年月が経つとぼろぼろに、そりゃあもうぼろぼろになってゆくもの。未練たらしい性格ですが、ひさしぶりに再会すると、いてくれてよかった、となんか安堵。わたしの手元にあるうちは、なるべくきれいに扱います。

 帯をとっておく/とっておかない、みなさんどうなんだろうと、なんだか突然気になったのでありました。

 

 

 

 

 

 

さよならが苦手なひとと電話した

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 SNSに向いていないわたしにも、空気感が合うというか、距離がちょうどいいあんばいというか、そういったTwitterのフォロワーさんたちが何人かいて(勝手にこっちが思っているだけだったらごめん……)、先日そのなかのおひとりと、熱い語りみたいなのをDMでして、その流れの延長で、電話をすることになった。

 電話といっても、ボイチャ(ボイスチャットというものがあるんだって、今時!)というツール、で番号やLINEを交換せずとも電話ができるという、すぐれたものを教えてもらい、それで電話をすることに。

 いつ暇ですか、この土日大丈夫そうです、では今日の二十一時半くらい、という会話をした数時間後、それでは今から電話をしますよというときに、たぶん電話がつながってるんだけど、もしもし言うまでのハードルの高さなに。こ、これつながってるね、もしもし言えばいいんだよね、いやこの状況、カラオケ行ったときに「なんでもいいから曲入れて」としょっぱな歌えと言われるよりも緊張する。その電話ができるツールではチャット機能なんかもついていて、「いましゃべってますか」「もしもしと言ったら聞こえる状態ですか(でもなにも言わない)」「電話のようにできますか」「スピーカーはオフにしたいです」などテンパっているわたしのコメントが連続で投下される。このあいだおよそ十分くらい、もしもし言うまでにどんだけ時間かけてんだ。

 

 ありがたいことに相手のほうから最初のことばを発してくれて、なんとか会話が成功し、もしかしてこういうのはじめてですかと訊かれたからええはじめてです、と答えると、「僕は世代だからよく使います」という返事。

 せ、世代とな。まさか、(勝手に)わたしと同じくらいだと思っていた、フォロワーが、想像よりも下……年齢をおそるおそるたずねたら、なんと十歳も下だった。

 十歳!!!職場は年上だらけなので、ついでに夫も六つくらい上(薄情だけど、夫との年齢差いつもわからなくなる)、なんか、なんだろね、十歳下の男の子と、今わたしは電話をしているのか……と思った瞬間の、いやそう思ってしまったからこそなのか、妙にただよう犯罪臭。いったいなんで。

 とはいえもともと創作というきっかけで出会ったわたしたちは、小説のはなしを存分にして(互いの作品についてなど。た、たのしい)、ほかにもシンエヴァのはなしをしてみたり、下書きにしたためている恥ずかしいツイートなどを見せ合ったり、そんななかで印象に残ったのが、「さよならが苦手」と言っていたことだった。

 なぜそのはなしになったんだっけ、創作についての延長線上のことばだったか、鮮明に覚えていないけど(覚えてないの申し訳、でもその日なんと三時間も電話していたのです)、とにかくそういうことを言っていて、でもなんかやさしいひとだなあとは思わなくて(ごめん笑)、生きづらそうなひとだなあと思ったんだった。

 その生きづらそうな感じが、生きづらいという自覚がなくても、でもそういう部分があるのだということを、だれかに知ってほしそうな、伝えようとしているような、そんな雰囲気を、そのひとの作品からは感じることがあって、そのひとは、自分のかたちをかたちにしようとしているのかなあとか思ったりして、いいなあなど、感じたり。がんばろうね。

 

 それにしても同じ日本とはいえ遠い地に住んでいる、顔も名前も知らないひとと、すごく奇跡的な確率でフォロワーになって、実際に、この耳の向こうに、いる、を実感したのだけど、一方でその存在が、まぼろしのようにも思えたり。

 普段、自分がだれかに話すような内容じゃないからか(基本的に創作のはなしはTwitterでしかしないから)、しゃべっている自分も、自分じゃないみたいというか、でも思い返すと、あれはやはり自分であって、なんか照れくさいような、ふしぎな時間を過ごした。

 

 年齢は十離れているようだけど、創作のはなしをしているとジェネレーションギャップを感じることはあんまりなかった、というのを会話の後半でしたときに、「カラオケでうたう曲とか言えばジェネギャ感じるかも」と言っていて、いやジェネギャって言ってる時点でジェネレーションギャップ。もう十分、と思っていたら、「僕昔の曲もけっこう知ってます!アジカンとか」、いやアジカンを昔って言うなこのやろう……ってそこだけは叱ったよ。

 ちなみにわたしのカラオケでうたう定番はポケットビスケッツYELLOW YELLOW HAPPYだけど(これはもう、なつうた、というものに入るんだろか)、伝えたら、「知ってます!」「あ、よかったあ」って、おいもう会話終了しちゃうじゃんか、そういうとこだよジェネギャよう。まあ、なんだかんだそういうのもいいんだけど、向こうの定番訊くのを忘れた気がする(訊いた?)。

 

 そんなかんじでいろんな会話に花を咲かせて、それじゃあそろそろというときに、わたしにはひとつ思ったことがあって、さよならが苦手と言っていたから、電話を切るのも苦手なんじゃないか、うむさすがここは年上、「電話を先に切るのも苦手でしょう」とすごくお姉さんぶって言ったら(少し江國香織入ってた)、「あ、それは別に平気です」と、めちゃくちゃあっさり、ひゅんっと、風を切るように、というか風とともに去っていくように、ほんとうに平気そうな雰囲気を出すものだから、なんかそこではじめて、「十歳下の男の子感」をかんじたよっていうはなし。