今日もめくるめかない日

失恋の悩みを友達に聞いてもらった時間よりaikoの曲聴いていた時間のほうが長いと思う

 この世における平均失恋回数はどんなもんなのか予想もつかないけれど、わたしの失恋回数はきっと低くはないと思う。

 失恋。恋を失うこと。いろんな失い方があるけれど、恋をした数と失恋をした数はほぼ同じになるはずであり、少女漫画に焦がれ果てたわたしが実際に恋に落ちまくってしまうのももはや必然であり、何度も人を好きになっては何度も失恋を経験してきた。

 立ち直り方はいろいろあった。誰かに話を聞いてもらうとか、おいしいものを食べるとか、なにもかも放り投げて遊びまくるとか。しかし失恋というのは何度経験しても慣れないもの。たぶんあと四日後くらいにふられるな、と気づいてしまうあの瞬間。そして予想どおり訪れる絶望の時間。誰かに話を聞いてもらっても気が晴れない、おいしいものを食べても味がしない、そもそも遊びに行く元気が出ない、ということはざらだった。そういうときにわたしの支えになったもの、そう、それこそが失恋ソング……

 この世には、わたしのこと歌ってんのか?と思える歌が多すぎる。絶望の淵にいながら、「自分の歌だ…」と思い悲劇主人公思考に拍車がかかり、その思考に酔うことで失恋から立ち直ってきたところある。というわけでたいへんお世話になってきた失恋ソングの数々を発表します。わたしが主に失恋を経験していたのは10〜15年ほど前のこと、選曲もそういう感じであるし8割aiko。失恋の悩みを友達に聞いてもらった時間よりaikoの曲聴いていた時間のほうが長いと思う。

 

失恋したて、マジで無理、なにも考えられない、つらすぎる、の時期に聴く歌

 少しでも前向きになろう!とか、相手の幸せを願うのだ…とか、そういうことは一切考えられないし、マジで自分がとにかくかわいそう、だれかに「元気出して、まだまだこれからだよ!次は絶対幸せになれるよ!」とか励まされても「黙れ…」としか思えない時期に聴きたい歌。いいから絶望のままでいさせてくれ。

 

雨の日/aiko

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aiko 雨の日 歌詞 - 歌ネット

 ご存知ですかこの歌、悲しげなメロディーと音階、しかしどこかリズミカルでそのアンバランスさが余計にわたしを悲しくさせる。「さよならさよなら」の部分の歌い方がとにかく悲痛、わたしも歌に合わせて1000回はさよならと言ったし雨止むんじゃねえ…と心の底から思った。

 

親指の使い方/aiko

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aiko 親指の使い方 歌詞 - 歌ネット

 まさかこんな親指の使い方があるなんてね……。全部わたしのこと歌ってる?なにからなにまでわたしのこと歌ってる?うまく言えないの、わかる、欲ばったんじゃないのもわがまましなかったのも、わかる……でもたぶんうまく言えていたら、そもそも恋になってなかったんだよ……

 

タイムマシーン/chara

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Chara タイムマシーン 歌詞 - 歌ネット

 前奏の始まり方がすでに涙を誘うし、少し笑い声が入るじゃないですか、わたしに何かを思い出させようとしている…?あの人とのことを…?「今以上人をキライにさせないでください」…?なんでわたしの気持ちわかったの…?タイムマシーンはこなかった……わたしのところにも……

 

September/aiko

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aiko September 歌詞 - 歌ネット

 どうでもいい情報ですが、わたしは夏の終わりに失恋することが多かった。Septemberって……この歌、ひたすら「まだ好きでどうしよう」と本当にまったく答えが出ないまま最後まで歌い切るんですが、それにどれだけ救われたか……前向いていこうよという歌は、この失恋したての段階ではただの狂気だった。

 

Last Smile/LOVE PSYCHEDELICO 

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LOVE PSYCHEDELICO Last Smile 歌詞 - 歌ネット

 恋をしたらいつでも全部運命と思っていた……しかし全部other way……loser……

 

DOLLSJanne Da Arc

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Janne Da Arc DOLLS 歌詞 - 歌ネット

「」の部分ぜんぶわたしが言ったセリフか?

 

落日/東京事変

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東京事変 落日 歌詞 - 歌ネット

 好きすぎて切なすぎてどうしようもなくなる。前奏から後奏まで泣かずにいられない、日が沈むたびこの歌を聴き、白け切った夕日に君を何度思い出したか…………

 

ボクのことを知って/Chara

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Chara ボクのことを知って 歌詞 - 歌ネット

 Charaでいちばん好きな歌。いてよ、聞いて、知って……ああ〜〜〜〜!!!!!!!!

 

ソラニンASIAN KUNG-FU GENERATION

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ASIAN KUNG-FU GENERATION ソラニン 歌詞 - 歌ネット

 めちゃくちゃ好きだった人がよく聴いてた。「寒い冬の冷えた缶コーヒー」飲んではいつも切なくなった。元気してるのか……。

 

浮気をされた(浮気相手が自分だった)と知ったときに聴く歌

 かなしいことに、浮気されるというか自分のほかに本命がいたというパターンが多かった。失恋ということそのものが悲しいというのに、まさかの自分は本命じゃなかったというひどい裏切り、しかしまだ好きでしょうがない、だれもわたしも励ますな…というときに聴きまくっていた曲。

 

二時頃/aiko

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aiko 二時頃 歌詞 - 歌ネット

 なにも言わずに歌詞を見てくれ、そして聴いてくれ。この歌を聴いたときから本命の女はわたしのなかでtinyな女の子、勝手なイメージでつくるtinyな女の子に嫉妬しまくっていた。何回聴いたかわからん、ぜんぜんわからん、あの人の気持ちもぜんぜんわからん……。

 

DO YOU THINK ABOUT ME?/aiko

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aiko Do you think about me? 歌詞 - 歌ネット

 なんてこちらを消耗させる歌なんだ……消耗するのは「わかりすぎる」から……tinyな女の子に続き「イイコチャン」もわたしの敵だった。

 

カウントダウン/Cocco

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Cocco カウントダウン 歌詞 - 歌ネット

 うじうじモードから少し立ち直ったときに聴いて、自分の自信を取り戻す。それにしてもCoccoがいなかったらわたしはただただ自分で自分を傷つけて終わっていたかもしれない。Coccoがかわりに男をひどい目にあわせてくれたので、わたしは失恋相手のことを忘れてこれたんじゃないか…?

 

少しずつ立ち直ってきて余裕が出てきた、思い出を美化したいときに聴く歌

 絶望のさなかにいても、なんやかんやで少しずつ元気は出てくる。友人からの励ましも前より素直に受け取ることができてきたら、過去を美化するにかぎる。それは同時に自分のことも美化できるのだ。ときには泣くときだってある、だけどわたしは強い!と日下部まろん的な思考になったときに聴きたい歌。

 

恋人/aiko

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aiko 恋人 歌詞 - 歌ネット

 はじめて聴いたときは息が止まるかと思った。歌い出しからやばすぎる。相手のこと解りたかった。心が落ち着いちゃうような存在になりたかった。

 

ひまわりになったら/aiko

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aiko ひまわりになったら 歌詞 - 歌ネット

 別れたあとはなんとかして友達に戻りたかった。それもいちばんの友だちというやつ。そんな存在は、できなかった……。だれかのひまわりになりたかったよ……。

 

鮮やかなもの/Every Little Thing

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Every Little Thing 鮮やかなもの 歌詞 - 歌ネット

「Time gose by」でも「fragile」でもない、ELTの名曲は「鮮やかなもの」なのだ……。あの時間は決して無駄ではなかったと、わたしも何度も考えたよ……。

 

サヨナラダンス/YUKI

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YUKI サヨナラダンス 歌詞 - 歌ネット

「うまく忘れ」られたかはわからないけど、YUKIもこう言っているのだから忘れようと思えた。「期待したのは私の方だ」って、だからなんでわたしの気持ちわかるの?

 

密かなさよならの仕方/aiko

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aiko 密かなさよならの仕方 歌詞 - 歌ネット

 そう、だれもさよならの仕方を教えてくれないのである……。大きな声でさよならを言おうと決めた結果、わたしは放課後の教室から「ずっと友だちだよ~!」とか叫んでしまったのである……。

 

気付かれないように/aiko

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aiko 気付かれないように 歌詞 - 歌ネット

 すっかり忘れていた人が、とつぜんインスタなどで結婚報告をしているのを見るとめちゃくちゃ切なくなって酒におぼれるのですが、そういうときに聴きまくった歌。もうどうにでもしてくれよ……。

 

 失恋ってなぜこんなに切ないのだろう。できればもうしたくない。だけど失恋ソングはきっと一生好きである……。

 

 

ヤクルト1000はすごいのかもしれない/怠惰のための無理しない生活

 先日健康診断に行ったら体重が増えていてヤバイなと思った。いや、年々増えているなとは思っていたけど、体重計に乗るのもなんかいやだし(現実逃避)、まあまだ許容範囲であろうと自分に甘く過ごしていたら、そろそろこのまま放置しておいたらかなりヤバイ気がすると思える数値になっていた。

 しかしダイエット…?とか無理。食事制限…?適度な運動…? 考えただけでも無理み。無理みの極み。身体を動かしたり節制したりとか、本当に本当にやる気が出ない。休みの日の歩数なんて五歩のときとかざらにある。五歩ってなんだよ。七つの大罪のうちどれかひとつ与えられるなら、わたしは間違いなく“怠惰”の烙印を押される。Wikipedia七つの大罪を調べてみたら、「七つの死に至る罪」と書いてあった。死…!?

 

    健康的にもまずいということで、仕方がないので朝歩いてみることにした。しかし怠惰なので毎日は絶対に無理。週二日でもできればたいしたものよ、という気概ではじめた。長距離歩くのも絶対に無理。家から職場の往復で毎日の平均の歩数が4000歩だったので目標を6000歩にした。6時に起きるのをめざして6時半に起き、1時間歩けたらいいなという理想のもと、30分歩いている。まずはこれくらいでいいのだ、十分がんばってる。もうこれは怠惰の名折れである(名誉じゃないけど)。

 

 そんな生活を一週間(たった一週間!)したところで、会社で「最近早起きして歩いてるんですドヤァ」と報告をしたら、「健康に気をつかうのはいいことだ、よりいっそう健康になるためヤクルト1000を飲むべし」というアドバイスを上司からもらった。

 ヤクルト1000、調べてみると「ヤクルト史上最高密度の乳酸菌」「腸内環境改善」「ストレス緩和(一時的な精神的ストレスがかかる状況での)」「睡眠の質向上」「肌質改善」……となんかもう謳い文句がすごい。もちろん※個人差があります的な注釈はあるだろうけれども、なにやらものすごい自信である。値段も少し強気である。

 最初は眉唾だな……と思っていた。しかしなぜかヤクルト1000の話を聞いてから、ツイッターでもこの話題を目にすることが増えた、この引き寄せの法則たまに起こるけどなんなの。こうなったら百聞は一見にしかずということで、買ってみた。

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 わたしの生活がいったいどうなるのか、とりあえず七日間記録してみる(七本入りだから)。

 

 と、ここまでを二週間くらい前に書いていた。一日ごとの身体の状況を記録してみよう、それってなんかブログっぽ~い!とか考えていたけれど、まったく記録していない。さすが怠惰の烙印を押された女。朝雨が降っていると「今日は歩かなくていいんだ!やったー!」とか思ってしまう。ただ、ヤクルト1000を二週間続けて飲んだ現在、たしかにお通じが増え、お腹を壊すことが減り、目覚めがよくなった気がするのだ。わたしはiPhoneのアラームを5分おきにスヌーズしないと不安でたまらない人間だが、早く目が覚めたら覚めたで即二度寝かます人間でもある。しかし最近、スヌーズを待たずに起き上がれることが増えてきた(決して毎回ではないが)。これすべてヤクルト1000の効能……?

 たとえば風邪っぽいと思ったとき、お腹が痛いとき、薬を飲んだ瞬間に「治った気がするな」と思えるほどわたしは思い込みが激しい。そして仕事や環境が変わったら三か月後に必ず風邪を引くなど、わたしの身体はとにかく単純にわかりやすくできている。だからもしかしたら自分に暗示をかけているだけなのかもしれない。「話題のヤクルト1000を飲んでいるのだから身体はすこぶる絶好調になるはずである」と脳が理解し身体に信号を送っているのかもしれない。「ヤクルト1000はとにかくすごいらしい」と思えば、身体もそれに倣う気がする。いや、つまりそれって結局ヤクルト1000による効果が実際に出ているということなのかもしれないけど。

 

 とりあえず二週間続けてみて思った。ヤクルト1000はすごいのかもしれない。なにより朝ちゃんと目が覚める。5時40分にアラームをかけて、5時40分に目が覚めるし布団から出られる。この布団から出るという行為がそもそも難関で、目を覚ますだけならなんとかなるけれど、起き上がる、というのがとにかく怠惰にとっては大変な所業なのである。それが、なんかよくわからないけど、起き上がれる。意味わからん……。もしかしてもうわたし怠惰じゃない……? 怠惰はヤクルト1000で倒せる……?

 でも最近、時間をうまく使いましょうねと効率的な時間の使い方などを提言している人に話を聞く機会があって、その人は「自分が絶好調のときに目標を決めてしまうので、そもそも理想が高すぎて失敗することが多い」と言っていて、本当にそのとおりだなと思った。現にわたしは今日5時40分に起きることができたから、「5時30分に毎朝起きてもっとたくさん歩いて超健康になってもいいんじゃない…?」とか考えていた。危なかった。そんな無謀な目標を設定しようとしていた。あくまでも自分は怠惰ということを忘れることなかれ。

 

 なんにせよ、無理しないことが大切である。無理せずヤクルト1000の力を借りて、週二日歩く生活をもう少し続けてみようと思う。それにしても早起きが本当に苦手なわたしだが、朝6時に活動している人の多さにはほとほとひれ伏す。バスに人が乗ってる。コインランドリーに洗濯物を持っていく人がいる。先生が学校に入っていく。少し広い公園ではラジオ体操が行われている。犬と散歩をしている人がいる。小鳥が高い声で鳴いている。荷物を運びながら声を掛け合う人がいる。

 布団でごろごろしているのがなにより至高だが、朝の広々とした道を歩いていると、「ふーん。なかなかおもしれー空気じゃん」と思えて、まあ楽しいこともある。

 

 あと、ヤクルト1000を届けてくれるバッグ、でかすぎである。

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ああ壇ノ浦(平家物語、鎌倉殿の13人のこと)

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 歴史にはまったく詳しくないのだけれど、なぜか唐突に、2022年は歴史を知る年にしようと思い立ったのが昨年の暮れ。しかし歴史を知るというのにも、自分がどんな分野に興味があるのかもよくわからない、あてもなく歴史歴史……歴史を所望……とかぼやいていたら、アニメ「平家物語」の存在を知る。

heike-anime.asmik-ace.co.jp

 これがめちゃくちゃよかったのです。最終二話など涙なしではみられない。維盛……資盛……ああ壇ノ浦……諸行無常……。平家といえば平清盛の印象が強く、わたしのなかでは「平家は悪!」みたいなイメージしかなかったんですが、実際に清盛はなかなかの悪行をしでかしているひとではあるのですが、結局清盛が亡くなったあとの平家はただただ滅びの一途を辿ってゆくしかない、というその哀れさや儚さに涙。羊文学めっちゃ聴いていました。びわ……。

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 そしてそのアニメの原作となったのが古川日出男さん訳の平家物語

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 この日本文学全集シリーズはもともとちょこちょこ集めているのですが(全巻買うまでは置き場所の問題もありかなり時間がかかりそう)、平家物語はわたしのなかでそんなに優先度が高くなくて、しかしアニメ観終わったあと即購入した。GWをつかって無事に読破でき、これはもちろんのことなんだけれど、アニメよりも平家にまつわるエピソードが盛りだくさんで、たいへんたいへん楽しんだ。
 しっかり平家物語を読んだことはなかったけれど(屋島の戦い壇ノ浦の戦いは教科書で読んだ気がするなあという記憶がかろうじて。那須与一の、ひょうふっと、が印象強いのですが、新しい訳にふれられてうれしい)、あれですね、平家にもそりゃ当然いろんなひとがいるのだよね……と思った。
 主要人物、たとえば平清盛、嫡男重盛、さらにその嫡男維盛がいて、それぞれのきょうだいがいて、それぞれの家族があって、さらに家人や乳母がいて、さらにさらにその家族がいて……と平家物語はとにかく登場人物が多く出てきて、ひとりひとりを掘り下げている。アニメではふれられていなかった流人のその後や、いろんなひとの最期、残されたひとたちのその後、実際のところの事実は今となってはわからないけれど、1000年近くもこうやって語り継がれている、ということにまず感動するし、合戦やら流罪やら粛清やら物騒なことが多いなかで、主人を敬ったり厚情をみせたりなどの人情とか愛情とかも描かれていて、歴史(それも1000年も前なのだと思うと)はフィクションのように感じられることもあるけれど、たしかにその時代に人々が生きていたのだなあと、なんだかじんとしてしまう。平家は雅な方が多いので、歌も多く残されていて、その一首一首にも、思わずはらはら涙がこぼれそうになる。

 

 それにアニメをみたあとなので、ここはあの場面だ、と情景を想像しやすく、「歴史わからん……」なわたしでも、まったく挫折することなく、むしろとにかくもっと平家のひとたちの話をくれー!というふうに読み進められた。木曾義仲が出てきたあたりからは、さらにおもしろい。

 そして壇ノ浦のつらさ。時子の言葉に手をあわせる安徳天皇……手をつなぎ入水していく平家のつわものたち……。ただただかなしい……。

 アニメでは重盛と維盛を推していた(良心があるし穏やかなひとたちだったから……)のですが、平重衡の最期を読んだとき、かなりぐっときました。お寺を(本意ではなかったとはいえ)焼いてしまい、源氏に生け捕りにされたあとは相応の罰をくだされるんですが、「こうなったら、子どもがいないことのほうがよかったのかもしれないな」と思ったりする。その時代、子を生むことは周りからも強く望まれただろうし本人も残したいと思っていたはずですが、子がいることで自分がより苦しくなるだろうし、もしも子がいたら子も苦しくなる(というかおそらく源氏に殺されてしまう)。そういうことを考えて「まだよかったな」と自分に言い聞かせるみたいな、そんなかなしいことある…?残される北の方に首を斬られる前に会える場面があるのですが、そこで「来世でお会いしましょう」と……こんなこと言ったってしょうがないんですが、源氏と平氏なかよくできなかったの…?

 

 そして今、大河ドラマも放送されていますね。鎌倉殿の13人!

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 こちらも毎週めっちゃたのしくみています。主人公は北条義時なので、源平合戦はメインではないけれど、次回放送が18話、舞台は壇ノ浦、なので今までがちょうど平家物語と同じくらいの時。なので読みながら「鎌倉殿って出てきた!」とか「義時の名前も出てきた!(ただ本当に名前がちょこっと出るくらい。時政はわりと出てきたけど行動に引いた)」とか「亀の前事件が起こっているときかもしれない」とか「きっとちょうどこのころ上総介殿が……上総介殿ー!!」とか頼朝側のことを想像できるのもよいです。

 また、鎌倉殿の13人で描かれる木曽義仲は、ただの野蛮人ではなくかなり義のある武士という感じで、めちゃくちゃ好きになったのですが、平家物語でも、なんというまっすぐな生き様なのだ……と胸打たれた。「野生があふれすぎていて滑稽なことはいろいろあった」など書かれていますが、幼いころからの仲である乳母子の今井四郎を敵に囲まれながらもさがし、互いに恥ずかしくないような死に方を選ぼうとする。どうして頼朝は義仲となかよくできなかったの……?

 そして菅田将暉さん演じる源義経がとんでもなくやばいやつで、今までの義経のイメージを完全にぶっ壊しにかかってきているんですが、平家物語を読んでいると「あれっわりと解釈一致……」というかんじでおもしろいし、梶原景時との会話にヒヤヒヤする。義経、とにかく梶原景時をめちゃくちゃ煽っていた。壇ノ浦の戦いの前、屋島の戦いなど義経はほぼ一人で片をつけるんですが、(一人というか義経の軍勢)、梶原たちは義経より少し遅れて湊に到着。そこで義経が「今ごろ着いて、いったい何にまにあうというのか。(中略)喧嘩が終わってから『はいよ』とさしだされた棒だな」とか言う。すごい馬鹿にするじゃん……。当然景時はこの言葉にものすごくムカつき、戦が終わってから頼朝に即座に報告する。なぜか弟より景時の言葉を信じる頼朝。きっと義経と景時は天地がひっくりかえってもなかよくできなかったんだろうな……。

 

 本の感想なのかアニメの感想なのかドラマの感想なのかよくわからなくなってしまったけれど、おもしろいです平家物語。このあたりから歴史の勉強していこうかな、太宰治源実朝の話を書いているので、このタイミングで再読してみようかなと思います。とりあえず「平家は悪!」のイメージでしたが、今はわりと「源氏もまったく負けてない……むしろ平家よりコワ…」という感じです。日曜日の壇ノ浦の放送がたのしみなような、しんどくなりそうな。ああ平家、ああ壇ノ浦……。

 

 

文藝夏季号(怒り特集、あくてえ、ふるえるのこと)

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怒ること 

 最近、家でも職場でも怒る日が多かった。夫とは喧嘩が勃発し一カ月ほど膠着状態、職場では何度言ってもわかってもらえないということが続いて、ひたすらきりきり怒っていた。
 怒る自分が嫌いである。スカッと怒るのでなく、ヒステリック気味になってしまうし、怒っているとき、嫌味が次々に出てくる。たぶん、わたしの得意技は嫌味を繰り広げることである。ぜんぜん自慢にならない。嫌味を口にするたび、なんでこんなふうにしか言えないんだろ、という自己嫌悪がすごい。しかも、なにがいやって、なんとなく、相手から「またなんか言ってるわ、やれやれ……」的な空気を感じてしまうことがいやだ。相手はそう思っていないかもしれないけれど、そういうふうに感じる。
 たぶんそれは相手がわたしと同じ熱量で言い返してこないからだと思う。まあ大人であるし、小学生のときみたいに、「ばーか!」「おまえがばーか!」みたいな言い合いはそりゃ起こらないよなと思うけれど、それにしてもただ黙って聞かれていることが多い。
 べつに自分がいつだって100%正しいなんて思っていないけれど、とくに職場でだれかに怒るときはわたしなりの正当性がある。たとえば同じことをもう百万回言ってるんじゃないか…と思っても、結局同じようなことをされる、こんな初歩的なことをどうして何度も言わなくちゃいけないのだろう、改善の余地がみられないということが何度も起こると、さすがに怒りたくなる(しかも相手はわたしよりも十も年上の上司で役職についているひとなのだ)。なにもはじめからヒステリーになってまくし立てているわけじゃない(と思う)。注意していると、相手が「はあ」みたいな反応しか返してくれないので、だんだんムキ―!となって、気づいたらどんどん怒りがわいてきて、わたしの口から嫌味がどんどん出てくる。まわりのひとだって聞いてるはずだけど、だれもとくに言ってこないのもさらに苛立たしい。「ま~たなんか言ってる」とかどうせ思ってるんだ。ただのわがままなのかもしれないけれど、わたしが怒ったら、同じように怒り返してほしい。そうじゃないなら反省してほしい。
 怒るのは疲れる。とにかく疲れる。わたしだって怒らないで済むなら怒りたくない。ただ、かわりにだれか怒ってよと思っても、だれも怒らない。こんな時代に怒って教育する、なんて下手したら炎上案件だろうけど(いやそもそもわたしが怒っている相手は教育する側なんだが)、怒らずすべてを受け止め、やさしく注意し、次は気をつけてね、でなにもかも解決するならわたしだってそうしたい。
 怒っている自分は、なんだか感情をコントロールできていない未熟な人間みたいでいやだ。できれば怒りという感情を抱かずに生きていきたい。そう思っていたけれど、文藝の怒り特集を読み、この感情も大切なわたしの一部、というかいちばん信用できる感情なのかもしれないと考えるようになった。

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まだ在庫あるよ!

 

「怒り」特集

 特集「怒り」の扉ページに掲載されている文言に、まずはっとした。以下抜粋。

感情だけはやつらに渡すな

怒りという感情に、真摯に向き合うことはこの社会では難しい。やりすごすか、コントロールを試みるか、諦めるか。
(中略)
ひたすら無力感に襲われ疲弊するこの日々に、何度でも自らの感情を立ち上げること、それがこの特集の趣旨であり、現在、我々が身を保つことができる唯一の方法であると信じる。

 すべての感情は正しいもの。うれしい、かなしい、たのしい、そうだ、それは正しいものだとわたしもわかっていた。それでも怒りは、持ってはいけないものだとも、どこかで思っていた。けれど怒りも含めて、「あらゆる感情が正当である」のだ。最近は、自分の感情が自分のものではないと感じることも多い。たとえばたのしい、おもしろいと感じること。だれかの評価をみたから自分もそう感じているだけじゃないのかと思うことがある。大げさに言うと、つくられた感情に感じる。けれど怒りは違う。ゆるせないこと、これはまさしく自分だけの感情である。だから信用できると思う。
 特集内には短編やエッセイが掲載されており、どれも怒りをはらんでいる。みんななにかに怒っている。それらの作品を読んで、怒りはパワーなんだと思った。社会的とか理性的とかそういうものに普段は抑圧されながら、でも、怒りを持つことは自分を捨てないことなんだと思った。
 夫との膠着状態が続いたある日、もう本当に我慢ならなくなって、わたしははじめて家出した。朝なに食わぬ顔で出勤して、その日は家に帰らずビジネスホテルに泊まった。連絡ひとつ入れなかった。普段帰りが遅いのもあるので、夫から電話がかかってきたのは深夜一時半くらいだった。寝ていた。さすがに罪悪感を抱いたが、わたしはちょっと「ざまあみろ、せいぜい心配しやがれ」と思っていた。そして、やっとわたしの怒りが少し届いた気がした。たいてい無難に生きることを意識しているので、怒りをあきらめていたら、わたしはこんな行動に出なかったと思う。わたしは一日だけの家出だけれど、怒り特集に出てくるひとたちは、みんな怒りからいろんな行動をとる。届かなかったとしても、怒りをまっとうしている。社会的じゃなくても理性的じゃなくても、正しく自分の感情によって突き動かされている。そのさまはどの作品でも圧巻だった。あと柚木麻子さんとゆっきゅんさんの対談めちゃくちゃおもしろかったよ。

 

あくてえ/山下紘加 

 そして、今回文藝でいちばん怒りをおぼえた/共有したのが山下紘加さんの「あくてえ」である(特集外ではあるんですが)。
 あくてえは、甲州弁で悪口、とか悪態とかいう意味。小説家になりたいゆめ、ゆめの母きいちゃん、二人と暮らす「ばばあ」。ばばあはゆめなりのあくてえで、自分の祖母のことを心のなかでばばあと呼ぶ。ばばあは父親の母で、その父親とはすでに離婚しているのに、なぜか母きいちゃんが面倒をみているという状況。
 ばばあは高齢で、いろいろなことがままならないしわがままである。けれどきいちゃんは献身的だ。たとえば高い補聴器が欲しいとばばあがねだる、いろいろ考えて購入すると、結局ばばあは「つけてても、ガアガアいってるだけではっきり聞こえん」という理由で補聴器を自ら外してしまう。理不尽ともいえる環境に、ゆめの怒りがどんどん伝わってくる。わたしまで怒り狂いそうになる。とくに途中で出てくるゆめの父親。
 ばばあが倒れ、入院したときに顔をみせ、ばばあの世話を全部押し付けているというのに「俺が近くにいたら車で病院まで送ってやれたのに」とか言う。あと会話の内容が下品だし、とにかく無責任で、登場するたび怒りしかおぼえない男だった。そんな父親に、しっかり怒りをぶつけないゆめにもときどきわたしが怒りそうになった。そして実際に怒りをぶつけてものれんに腕押しという感じの手ごたえのなさにまた腹が立った。面倒をみる必要なんて本当はないはずなのに、献身的にばばあの世話をするきいちゃんにも腹が立った(ゆめの言葉を借りれば異常な状況なのだ)。ゆめの恋人である渉のどこかずれた考えにも腹が立った。わがままなばばあにも腹が立った。怒りはパワーと書いたけれど、そのパワーがどこにも発散できないのは、本当に虚しい。怒りをみなぎらせて、理不尽な状況に立ち向かおうとするのに、自分がもつ怒りと相手に届く怒りのかたちが変わるのは虚しい。壮絶な怒りと同じくらいの虚しさを同時にたたきつけてくる「あくてえ」、ものすごい作品です。あと、ばばあの方言で、ときどき「~ら?」と出てくるのがうれしかった。わたしは静岡出身で、甲州とは離れてはいますが「~ら?」という方言を使っていたので。
 山下紘加さんの作品、今まで「エラー」「二重奏」を読みましたが、どれも生の声、というのが聴こえてくるような作品で、それはリアリティがあるとか生々しいとは少し違う気がする。とにかく、作品のなかにたしかに人がいて、フィクションだとわかっていても、ただ、声とか息遣いが聴こえてくる感じがする。濃密よりはどちらかといえばわりとさらりとした文体だと思うのですが、それでも濃いと感じざるを得ない。推し。

 

ふるえる/彩瀬まる

 それからもうひとつ、今号の文藝でよかった作品が彩瀬まるさんの「ふるえる」。短編(掌編?)なのですが、こちらも濃い読書体験になりました。彩瀬まるさんが書くちょっと不思議な話がとても好きです。「ふるえる」では、恋をする(あるいは恋とはまだいえなくても、だれかを意識する)と、身体に石ができる。相手にも石ができていたらそれを交換し共鳴することで、恋が成就するという世界観。けれど恋愛の多くがそうであるように、自分にしか石ができないときもある。そういうときは、体内にある石を取り除くことができる。主人公であるネムはシライさんに対して石が生成されるけれど、シライさんは今まで石ができたことがないという。短いお話なのであんまり書くとすべてのあらすじを説明してしまいそうになるのでこのへんにしておきますが、なんだかとても切なく、けれどほっとあたたかくなる(それこそそれまで抱いていた怒りを忘れるくらい!)、石をこの目でみてみたいと思うお話でした。長編で読んでみたい。

 

 あと、次号の文藝の特集が今からめちゃくちゃ楽しみです。ぜったい好きしかない。

 

いつかこだわりたいものをみつけたい

 昔から物にこだわることがなかった。服、靴、コート、バッグ、家電、財布、化粧品。どうしてだろう、「まあべつに、使えればなんでもいっか」という気持ちになってこだわれない。考え抜く、選び取る、決断する、というのが苦手だしできない。だからわたしが持つ大抵のものはたぶん高くて1万2000円くらい、あとは2000円から5000円くらいのものを、一年に二回くらい、思いついたときになんとなく買う。これまでの人生でいちばん服にお金をつかったのは二十歳そこそこのとき、はじめて友人の結婚式に呼ばれ、なにを着ていけばいいのかわからんとお店のひとに泣きついて、ドレス、ジャケット、インナー、ネックレス、パンプス、言われるがまま一色買ったとき。そのときはお金なんてほとんど持っていないのに、たしか全部で十万くらいした。一緒につきあってくれていた友人は、わけもわからずトータルコーディネートしてもらうわたしを見てすこし引いていたし、自分で選んだものではないからせっかく買ったのに愛着も湧かなかった。高かったから着ないとな、というプレッシャーだけがずっと衣装ケースの奥にしまわれていた。

 安いものを買うからなのか、安いからぞんざいに扱ってしまうのか、そもそものがさつな性格のせいなのか、物持ちはよくない。けれど「まだ使えるからいっか」という考えで、つちふまずのところに穴があいた靴下とかずっと履いてしまったりもする(どうしてそこに穴があくんだろう?)。わたしの「使える」の基準は、人から見えないかどうかなのかもしれない。昔、ワイヤーが飛び出たブラジャーとか平気で使っていた。ついに針金が肌に刺さって痛くて当時の恋人にドン引かれて捨てた。

 本当にどうもしようがなくなって、これは捨てるしかないという状態になったときも、こだわりがないのでひょいと捨てられる。身につけられる「一生もの」、そういえばまだ出会ったことがないと、はたと気づいた。

 

 フォロワーさんが、仕事に使うバッグを探していて、とてもいいなあと思いながらツイートを眺めていたりした。なにかにこだわること、こだわりたいと思うこと、そのこだわりをもとに実際に行動すること、とても格好いいと思う(たとえばそれがなにか一つだとしても)。そしてめでたくこれだというバッグに出会えたそうで、ますますいいなあ、と思った。 

 こだわることは格好いい。それは信念があるからだと思う。ゆずれないな、というものが自分のなかに定まっていること、そんなひとはまっすぐに立っているような気がする。

 わたしがいま使っている通勤バッグはなにかこだわりがあっただろうかと、ふと考えてこの記事を書いている。

 

 そもそも、「通勤バッグ」なんて言葉をつかうのもどうなんだろうというようなバックで毎日出勤している。こだわらないと書いたけど、いちおうバッグはショルダーがいいという希望はあった。だって楽だから。両手はつねにあけておきたい。なにするわけでもないけど。その希望だけで買ったバッグがこれだった。

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撥水サコッシュ ネイビー | ショルダーバッグ・サコッシュ 通販 | 無印良品

 バッグというか、サコッシュである。これを肩からぶら下げて、わたしは毎日出勤している。縁日でも行くつもりか? 無印良品のものなので、「ていねいでシンプルを愛する女」「高価でなくても素材にこだわる女」という雰囲気が出せる気がする、という下心ありきで選んだ。実際のところ、持っている無印良品の商品はこれだけである。本当は、素材ってなに? という人間である(オーガニックコットンって結局なに?)。ときどき不揃いバウムを買っているくらい。チョコがけバナナがおいしい。

 これでなにしに会社に行ってるんだろうという感じだけど、あるときバッグは小さくてもじゅうぶんということに気づいて(エコバッグを会社にひとつ常備して、外出時にもつが多くなるときはそれを使っている)、文庫が入ればいいやという基準になった。実際バッグのなかにはなにも入っていない。いやいやそうはいってもなにかしらは入っているだろうとあらためて中身を出してみると、本当にたいしたものが入っていなかった。

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 今日日、こどもでももっといろいろかばんに入っている気がする(そういえばこどものころは、かばんになにを入れていただろう)。いつのものかわからないレシートが突っ込まれているし。ある意味シンプルだが、たぶんこういうことではないと思う。ていねいでシンプルを愛する女が聞いてあきれる。リップもハンドクリームも、買ったはいいけどまったく使っていないので、こうやって写真に撮るまでここにあるのを忘れていた。最近はほとんどの支払いがスマホで済むので財布も実際なくても困らないと思う。あとこの財布たぶんレシートとかぱんぱんに入ってる。かろうじて名刺入れを持ち歩いているが、最近は打ち合わせも取材もオンラインばかりで名刺をわたす機会って減ったよね。久しぶりに名刺入れを出して、ウワー名刺が足りない、ということも過去にあった。猫のやつは栞。読みはじめた本に栞が挟まっていなかったとき用とか、念のため。かわいいから気に入ってるけど、素材がステンレス金属で、ガサゴソかばんを漁ると刺さって痛い。

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 Bluetoothイヤホン、左耳がなくなってしまって使えなくなり、とりあえずかばんに入れっぱなしである。なんとかしたほうがいい。

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 読んでいる本。

 

 編プロで働く現在に至るまで、スーツをビシッと着るような職にはついたことはない。現在の職場も、服装も髪型もなんでも自由(なかには寝巻きか?というような服で出勤してくるひともいる)。だから「おまえのバッグ小さすぎね!?」とか突っ込まれたことはないけれど、よくよく思い返してみれば、みんななにげに大きいバッグを使っている。電車をみてもそう。みんな大きいバッグを使っている。あのなかにはなにが入っているんだろう、なぜわたしは大きなバッグじゃなくても大丈夫なんだろう、なぜこんなどこにも需要のなさそうな「かばんの中身」を公開しているのだろう……。こういうのも、白バックとかにして真俯瞰から撮ったりするのがいいのだろうとはわかっているけどこだわらずに適当に撮ってしまった。

 ちなみにわたしは「物を持たない」ひとというわけではない。物を買っても使いこなせず結局持ち歩かないひとである(一月だけしっかり埋まる手帳)。

 

 なにかにこだわってみたいという気持ちはある。だけどこだわりたい物がいまだに見つからない。なんといったってわたしは、上京してはじめて一人暮らしをするとき、内見せずに家を決めたのだ。内見ってよくわからないし面倒くさそうだし住めればなんでもいっか! と当時は思っていた。結婚指輪にしても、どんなものがいいのか希望を聞かれても、「なんでもいいんだが…むしろ失くしそうだしなくてもいいんだが…」と思っていた。ウェディングドレスやブーケは十分で決まった。このこだわりのなさは一体なんなのだ……。

 こだわって考え抜いて選び取った物は、ぜったいに特別なものになる。過去にサボテンなら育てられるかもしれないと思って買って、しっかり枯らしてしまったわたしでも、こだわって買ったものなら大切にできる気がする。というかそんな特別なものに出会えたなら大切にしたい。

 わたしにとってこだわりたいと思えるものは、バッグじゃないのかもしれない。服でも靴でも時計でも化粧品でも家電でもスマホでもイヤホンでもないのかもしれない。カーテンもティッシュもトイレットペーパーもわりとなんでもいい。家具もなんでもいい。布団もなんでもいい(楽天で買った三点セット5000円!てな代物を使っている…背中はときどき痛いけど寝られるしいっかと思っている)。

 いまはないけど、いつかこだわりたいものをみつけたいと思った。それがみつかったらそこでやっと、考え抜いて選び取ることができるのだ、きっと。それがどんなものかはわからないけれど、まだみぬわたしに大切にされるかもしれないなにか、この世のどこかにあってほしい。

 

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鳩の栖/長野まゆみ

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 名は体をあらわす、という言葉があるけれど、どんな名であっても、どんな体であっても、「その人」が「その人」であれば、それでじゅうぶんなのだよな、というようなことを考えている。こわがりだったり、見栄っぱりだったり、少しいじわるだったり、やさしかったり、不安定だったり、つよかったり、よわかったり。どんな体であっても、大切にしてくれる/大切にしたい、とかんじられる人と出会えることができるなら、それはとてもうれしくてやさしいことであるなあと思った。

 

鳩の栖/長野まゆみ

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 短編集である。こうやって感想を書いているのだから、すでに一冊すべて読んでいるのだろうと思われるかもしれないけれど、実は表題作の「鳩の栖」しか読めていない。時間がとれないからではない。おそらくどれも一時間ほどあれば読める作品なのだと思う。読みたくないわけではない。むしろめちゃくちゃ続きを読みたい気持ちでいっぱいである。なのに、ひとつめに収録されている「鳩の栖」を読み終わったあとの余韻をずっと引きずっており、すでに「鳩の栖」だけを五回くらい連続で読みなおしている。読みなおすたび、泣いている。

 

 うつくしい文章や描写というのはそれだけで泣けるものだ。うつくしさ、というのは人によってさまざまであるし、なにをどうもって、うつくしさが成り立つのかはうまくいえないけれど、長野まゆみさんの文章は、とてもうつくしいと思う。きれいな景色を綺麗な言葉で書いている、とかではなく、ちょっとした繊細さとか、むかし見たような懐かしい景色とか、その言葉でしかあらわせないことを知っているような言葉づかいとか。なんか長々と語ろうとしているけれど、わたしは長野作品の初心者なので、やはりちょっとうまくいえない。けれど、読んでいるととにかく泣けてくるのである。

 

 前に、「少年アリス」「改造版 少年アリス」を読んだとき、独特な表現の数々に卒倒するかと思った。これは夜の学校に忍び込む少年アリスと蜜蜂の不思議で幻想的な冒険譚。これからなにが起こるのか、どんな表現が出てくるのか、たのしくて読む手がとまらなかった。

「鳩の栖」は反対に、次の作品を読むのが少しこわい。表題作としての「鳩の栖」はおそらく原稿用紙にして二十か三十枚くらいだと思うけれど、あまりにもせつなくて、あたたかくて、ほんとうに感動してしまって、情緒がかき乱されているので、次の作品を読んだら、このページをめくったら、一体わたしはどうなってしまうのか……という気持ちがあり、読みすすめられていないのである。でもはやくほかの作品も読んでどうにかなってしまいたいとも思うので、感想を書いて気持ちをととのえようという次第。

 

 うつくしい文章は泣ける、と書いたけれど「鳩の栖」は、文章も、話の内容も、猛烈な「うつくしさパンチ」「せつなさパンチ」「あたたかさパンチ」をたずさえて、わたしたち読者を迎えてくる。そのパンチはボコボコになぐってくるような力強さがあるわけではないのだけれど、しかし確実に急所をついてくるものだ。

 物語のはじまりは、晩秋、安堂操という少年が親の転勤のため中学校に転校してきたところから。昔から転校が多く、内気で人づきあいが苦手、消極的で声が小さいという操。自分のことは「ほうっておいて呉れればまだいい」と考える操に、「教科書は前と同じだったかい。」と気さくに声をかけてくれたのが、同じクラスの樺島至剛(かわしまみちたか)。彼はクラスの人気者でまとめ役、すこしの会話だけでも操は樺島が皆に慕われているとわかる。そして操自身もそんな樺島に惹かれていく。

 たとえば、声が小さい操にたいして、樺島はいう。

「静かなのはいいことだよ。声をはりあげなくたっていい。耳を澄ませば、いくらだって聞こえるんだから。」

集英社文庫「鳩の栖」13頁)

 泣ける。こんなことを言ってくれる人を好きにならないわけがない。あまりにもやさしすぎる言葉。これだけで樺島の性格が伝わってくる。やさしすぎる人は、なんだかせつない。けれどとても好きだ。

 ……それにしても、「」のなかのセリフを書くとき、「あいうえお。」というように、鉤括弧内に句点が入っている小説(作家)は信頼できるとつねづね思っている。さらに「鳩の栖」では、句点ばかりか読点まで入っていた。基本は鉤括弧内って句点と読点がないことが多いと思うけれど、この、絶妙な余韻がうまれでる手法(?)、たまらない。

 

 今まで転校が多く友だちもできなかった操にとって、樺島のいる学校ははじめて楽しみなものになった。冬休みが明けるのを待ちわび、初詣では家族以外の幸福や健康を祈る。しかし始業式、学校に行くと樺島の姿がない。樺島ととりわけ仲の良い唐津によると、実は昔から体調を崩しやすく、今も家で静養しているという。そこで唐津を含めたクラスのみんなと、樺島の家へお見舞いにいくことに。

 

 その家の玄関には木彫りの飾りがあり、そこには二羽の鳩が並んでいる。樺島が寝ていた座敷にも、雉鳩が描かれた掛け軸がある。厄よけとのこと。そんな鳩の栖には、もうひとつ特別なものがある。庭先にある水琴窟、手水鉢の近くに敷いてある小石に水を滴らせると、中から音がするというものだ。音の響きは人によって差があって、たとえば唐津は「からっきし」、操は「いい音が響く」。床に伏せる樺島は、お見舞いのたびに操に音を鳴らしてほしいと希む。そうして時間が過ぎてゆき、春が近づいてくるなかで、「鳩の栖」はせつないラストをむかえます。

 ……ちなみに、希むで、たのむ。あの、息がとまりそうになります、こういった、はっとさせる言葉に……。

 

 一度目に読んだときは、操と樺島ふたりのことで頭がいっぱいだった。消極的で、意気地がない操が、樺島の存在があったからクラスにも少しずつなじみ、自分から話しかけることもできるようになった。べつに積極的になれということを樺島はいいたかったのではないだろうし、操にたいして「もっとこうしたほうがいいだろう」などといったアドバイスをする必要もない。ただ、操が自然に、自分から、友だちのためになにかをしたいと思えるようになったということに、胸をうたれた。

 そして普段は利発で堂々としているようにみえる樺島が、不安に駆られたり、弱気になるときもあるのだとあたりまえのことに気づかされ、そんな樺島が操が奏でる水琴窟の音を拠り所にしていたのだと思うと、やはり泣けてくる。操だから出せた音を好きになった樺島。

 

 二度目に読んだとき、唐津のことを考えて泣いた。唐津は、操が転校してくる前から樺島と親しくしていた。樺島のお見舞いにいったときの、こんな場面がある。

唐津は慣れたようすで、案内も請わず、縁側づたいに出て玄関へ向かった。しばらくして、傘をさした唐津が庭に姿を見せた。閉じていた縁側の障子戸をあけて、寒くないかと樺島に声をかけた。ふたりのさりげないやりとりは、操がこれまで培ってこなかったものの尊さを、垣間みせてくれる。

集英社文庫「鳩の栖」22頁)

 おそらくいつもは、ふざけあった言い合いなんかをする二人なんだけど、こういったときにふとわかる、距離の近さ。それは水琴窟をいくら上手に鳴らしても、操にはまだ手に入れられないものだったろうし、けれど、そんなことは本当はたいした問題ではないとも思う。

 樺島と操、樺島と唐津、操と唐津、操と樺島と唐津、それぞれ違う関係性でいいのだし、どれが優位だとかそういうことは全然なくて、そしてそれを樺島も唐津もわかっているというのが伝わってきて、この二人のそれぞれの歴史にためいきがもれる。

 何度目かに、操が水琴窟を鳴らしたときに樺島がいう。

「安堂くんは名人なんだ。いつでも、音がよく響く。優はからっきしだ。」

集英社文庫「鳩の栖」26頁)

 優というのは、唐津の下の名前。安堂くんと名字で呼ばれても、そこにちゃんと感情がこもっているのがわかる。呼び方なんてなんでもいいのだ。そしてもちろん、「優はからっきしだ」にふくまれる、親愛の感情にも泣ける。

 樺島も唐津も、なんてやさしい少年たちなんだろう。唐津は前から樺島が病弱なのを知っていて、しかし操に「心配ないよ」と言ってくれる。心配ないよと言ってほしいのは唐津のほうだったろうし、樺島母もそうだけれど、操にとてもやさしく気をつかってくれるのである。そして操も操で、そんなやさしさを、じょうずにはできないけれどちゃんと受け取っているのである。なんてせつなくて、あたたかいのだ……。この世はきっと、捨てたもんじゃない……。

 

 水琴窟で音を鳴らす場面は、ほんとうにひとつひとつがとてもよくて、その音を実際に聞いてみたいと思わずにはいられない。きっと静かできれいな音なんだろう。しかしこの作品のタイトルは「鳩の栖」、どうして鳩の栖なのか。

 もちろん樺島の家に木彫りの鳩や掛け軸の雉鳩があるというところ。厄よけとして家に置かれている鳩のことを、樺島は最初に「心もとない」という。けれど、読んでいくうちに、樺島が鳩にたすけられていることがわかる。

「兄が、あの絵を選んで呉れてよかった。夜叉や幽霊だったら、とっくの昔に叫んでる。平静さを取り戻したいとき、ぼくはあの鳩のことや、きみが奏でて呉れる水音を思い出すんだ。静かな気持ちになれる。ありがとう。」

集英社文庫「鳩の栖」31頁)

 操は、樺島がいたから楽しい気持ちや人を大切にしたいという気持ちを知れた。樺島は鳩のおかげで落ち着いていられたけれど、操にとっての鳩は、きっと樺島自身であったと思う。樺島にとっても、操にとっても、その家は鳩の栖なのだ。そんなふうに考えて、最後の三行を読みなおしたらまた泣けてきた。

 

 樺島の下の名前は、至剛。「至大至剛」という孟子の言葉から名付けられたらしい。「どんなことにも屈せず、かぎりなく強いって意味」。これは操が転校してきたときの樺島の自己紹介だけれど、昔から具合を悪くしがちで、不安に陥り叫び出したくなるときがある彼にとって、どんな思いでこれを言ったのか…と考えてまた泣けてくる。

 至剛という名前は、それでも彼にあっている。けれど仮にかぎりなく強くなくたって、名が体をあらわさなくたって、名前がちがうものであったとしても、きっと操や唐津、多くの人が慕った樺島至剛であったのだろうなと思った。

 

 さて、じゅうぶん気持ちを放出でき満足だ……と思ったけれど、おそろしいことに「鳩の栖」という短編集には、わたしがまだ読んでいない作品があと四篇も残っている! なんてことですか、本当にわたし、どうなっちゃうんですか……。

 また、「少年アリス」に出てくる一節で好きなものがあります。それは「眩草とは、その名の通りの植物なのだ」というもの。眩草=くらら。(倒)

 毒蛇に咬まれた傷に効くという植物で、作中アリスはこれを溶かした水を飲み、「痺れるような苦味で眩暈がし」、意識を手ばなしていく。

 苦味とはちがうけど、いつもくらくらするようなすてきな作品に出会うとこの一節を思い出す。「鳩の栖」、もしかして眩草を百束くらい食べてしまったか?というくらい、くらくらしています。

 

 そして我慢できずに長野まゆみさんの本を一気に五冊ほど購入しました。一編の短編だけでこんなに情緒がかき乱されているのに、そんなに「長野まゆみ」の過剰摂取をしてしまって大丈夫なんでしょうか。わかりません。

 

 あと、長野まゆみさんのファンの方々にとったら、もしかしたら、エッいまさらそんなだれもが知っていることを…?と思うかもしれませんがどうしても言いたいので言わせてください。

 長野まゆみさんのイラスト素敵すぎませんか?眩草!!!

 

 

 

 

憧れの「おもしれー女」

 現実と妄想の区別がつきにくかった少女時代、わたしは「おもしれー女」に憧れていた。脳のすみずみまで少女漫画が浸透されていたのだ。脳内メーカーをおこなえば、「恋愛」「おもしれー」「おもしれー とは」しか表示されなかっただろう。

 言わずと知れた「おもしれー女」、あるいは「おもしろくねー女」(不思議なのだが、このふたつはだいたい同じ意味である)。わりとネタ的に扱われることが多いし、今でこそわたしもおもしろがって使うけれど、現実と妄想の区別がつきにくかった少女時代は本気で「おもしれー女」になりたかった。

 おもしれー女の条件といえば、

・思いどおりにならない
・鈍感
・強気
・モテ男になびかない
・家庭の事情でめっちゃバイトしてる
・家庭の事情でめっちゃ家事してる
 ……などなどが挙げられる。

 まあいわゆる主人公なので、モブの枠にはおさまらない、そこいらの女とひとあじ違う特徴を持っているのがおもしれー女。というわけで、おもしれー女になりたければあらゆる少女漫画を参考にし、上記条件などをクリアすればよい……というわけでもないよう。それだけではおもしれー女は成り立たない。そういう「おもしれー女」を発見する男の存在が必要不可欠なのだ。

 おもしれー女となった自分を見つけてくれる、言ってしまえば「おもしれー男」。そんな男に出会わなければ。少女漫画が浸透されたわたしの脳は、勉強とか部活とかめっちゃどうでもよくて、そんなことばかり考えていた。
 しかしおもしれー女なくしておもしれー男は誕生しない。そこでばりばり恋愛に興味を持ちはじめた思春期、とにかく意中の相手をつくりアプローチをしようと手紙を書く(ケータイもそんなに普及していなかった)。また、手紙という手段も「おもしれー女」の条件であると感じていた。ジョージ朝倉先生の「恋文日和」が大好きだったし(もちろん今も)、手紙=なんか文学的=図書室=おもしれー女がよく行く場所だと思っていた。クソの役にも立たない方程式である。
 今思えばぞっとするが、当時は恋愛=友人に話すものとしてインプットされていたので、手紙を出すことも手紙の内容もすべて共有。度胸がすごい。内容はどうだっただろう、「〇〇くんのこと、好きかもしれない…」などという意味深を演出しようとしたものだった気がする。なにが「好きかもしれない…」だ。そしてその手紙は郵便で出すのではなく(いや郵便でもそれはそれで…だが)、なぜか意中の相手の男友達に手渡してもらった(本当になぜ?)。
 もしふられたとしても手紙のやりとりがはじまるかもしれないと意味不明なポジティブさを発揮しながら返事を待っていると、仲介人の男友達から「ごめんだってー!(笑)」と言われた(たぶんものの30分くらい)。これではおもしれー女ではなく、おもしろがられているだけの女である。

 

 しかしなぜかわたしはめげなかった。本当に謎なのだがめげなかった。授業中に視線を感じる気がするなと思えば、鈍感なふりをして物思いにふけっているふうに窓から外を眺めてみたり(もちろん頬杖をついて。しかし本当に気のせいなので、だれも見ていないのである)。放課後、図書室へ行き、わたしに片思いをしているだれかが髪をさらっとさわってくれるかもしれないと寝たふりなどしてみたり(もちろんそんな男はいない。そしてもしも実際にいたら、ただのやべー男である)。教室のすみで「かわいいよね」などと聞こえてくれば、わたしのことか!? と盛大な勘違いをしつつ髪をいそいそと結び直してみたり。
 ついぞできた彼氏としかし別れ話になったとき、放課後の教室の窓を開け、グラウンドに向かって「わたしたち、ずっと友達だよーっ!」とか叫んでみたり(これはもはやわたしの伝説である)。彼女とうまくいっていないのだと思わせぶりなことを言ってきた男に夢中になり、これはどうにかなってしまうのではないか?という雰囲気がただよっていたメールのやりとりをしているとき、「ねえ、今なに考えてるの…?」などとポエッたメールをしてしまったり(ちなみに引かれたのだろうか。なにマジになってんの?汗という返事があった。翌日わたしは学校を休んだ)。これでは少女漫画的ニュアンスが一切ない、哀れなおもしれー女である(もはや道化)。

 

 そんな中学高校時代を経ても、やはりわたしはめげなかった。本当に謎である。田舎から都会に出てきても相も変わらず少女漫画が浸透、というかもう脳のあのひだっぽいところに完全に入り込んでわたしの一部になっていた。めげなかったのは、少女漫画の主人公がだいたい前向きだからなのかもしれない。そしてきっと、「少女漫画の主人公ようにいつか自分のことも好きになってもらえるはず」というよくわからない自信があったからだ。おそろしすぎる。
 そんな自信を携えていたので、「つきあおう」という一言を口にしない男とやんやあっても、「いつか必ず報われる」と思っていた。
 風邪を引いたので週末遊ぶのはなしにしてとメールがくれば、当時居酒屋でバイトをしていたわたしは営業時間終了後の始発で彼の家へ向かい(おそろしいことにアポなしである。つきあってない)、さすがに朝方呼び鈴を鳴らすのは迷惑であろうと、買っておいたゼリーや市販の風邪薬をドアノブにかけ帰宅した(怖い。なにを考えているのだ。おもしれー女とはほど遠いが、少女漫画の主人公気分であったのだろう)。その後お礼のメールがきてわたしは「役に立てた!」と喜んだけれど、引かれたのだろうか、そこから連絡はほとんどこなくなった。

 

 いったいどうすれば「おもしれー女」になれたのだろう。どういうふうに過ごしていれば、意中の男子と会話したあとに「フン、おもしれー女」乃至は「チッおもしろくねー女」と思われることができたのだろう(そもそも意中の男子と意識していることが、すでにおもしれー女とかけ離れている)。
 過去を思い出していけばいくほど思う、わたしは「おもしれー女」でも「おもしろくねー女」でもない、ただのやべー女だったのだと。