凝り固まったものを取っ払って、いろんなことを自由に考えることはむずかしい。むずかしいけれど、そういうふうになるときがたまにある。なんでもできそうな気がする無敵感、どこにでも行けそうな解放感、やかましいいろんなノイズや簡単に口にできる「正義」なんかを全部なぎ倒して、これでもかというくらい身体が軽くなる感覚。
たとえばとてもうつくしい景色を見たとき、ただ圧倒されて言葉をなくして自分のすべてが透き通って泣きたくなるときがある。悲しいわけでもうれしいわけでもなくて、ただ自分のなかの汚いものが浄化されて、きれいに涙だけが残った感じだ。もしかしたら人はそれを「感動」と呼ぶのかもしれないけれど、言葉にしてしまった途端、自分をつつむ感覚が陳腐になってしまう気がしてできない。とにかく泣きたくなる。そしてほんとうに涙を流せる自分をすこし好きになる。
雪舟えまさんの作品を読むと、その感覚に近くなる。そこにあるのはうつくしい愛のはなし、なんて書いたらそれこそ陳腐だなあと思われるかもしれないけれど、でもほんとうにそうなのだ。うつくしい愛のはなし。あんまりうつくしくて、愛おしくて、とにかくそれだけがあって、とにかくそれが強くあって、なんにも太刀打ちできない。泣くしかできない。
わたしが雪舟えまさんを知ったのは、早稲田文学女性号に寄稿されていた短歌だった。
クリスタル麺だねまるで春雨を冷やし中華にすこし混ぜると
ああ宇宙ふたりから生まれたごみをふたりで捨てにゆくよろこびよ
酔っている君が発見する俺の乳首のあいだは一オクターブ
ゆだんすると君が重たいほうを持つ米をよこしてガーベラを持て
(俺たちフェアリーている(短歌版)七十七首)
いや、心臓……。心臓ぶち抜かれる。なにこのぎゅんぎゅんする短歌。はじめてよんだとき、あんまり素敵でびっくりした。最近、すすめてもらって穂村弘さんの「はじめての短歌」を読みましたが、そこには「短歌はそれ以上の感情を求めるもの」とあって、「それ以上の感情」というのはとてもしっくりくる。わたしは雪舟えまさんの短歌から、そこに書かれている文字以上のどでかい「それ以上の感情」を感じすぎてどうにかなって、しばらくその短歌のことばかり考えていてこれはいかんと思って「緑と楯」を買った。
ちなみに早稲田文学女性号、読み応えありまくりの一冊なのでぜひぜひ。一生読める。
緑と楯 ハイスクール・デイズ(集英社)
「緑と楯」、かなりシリーズ化されており、年表を見るとまったく全然読めていないのでこれから読み漁ろうと思います。
わたしが最初に手に取ったのは「緑と楯 ハイスクール・デイズ」。
主役は兼古緑と荻原楯(何度でも口にしたくなる名前よ)。キャッチにあるとおり「宇宙一ピュア」! 人を好きになるのに理由はいらず、ただただ楯に恋をする緑が愛しい……。
とにかく楯に愛されたい緑、楯の「エレエレした声」について考えるとき、わたしも一緒にエレエレした声について考えて、なんだかくるしくなる、エレエレってなに? と思うかもしれないけど、とにかく楯はエレエレした声を持つ人気者。こういう、一瞬「?」と思ってもなぜか自然としっくりくる夢みたいな表現が雪舟作品にはたくさんちりばめられていて、そのひとつひとつを読むだけでもたまらないのに、とにかく緑と楯ふたりのやりとりがかわいくて切なくて、胸がくるしいもうどうにかなるしどうにかして!
楯はどこかひょうひょうとしていて(だってエレエレした声を出すような男の子だもの)、ちょっとつかみどころがない。そういうところが憎らしいけどやっぱり楯っぽくて好きになっちゃうのだよね緑~~~わかる~~~!!
楯が緑のことをどんなふうに思っているのか、わたしまで読んでいると不安になってくるんだけれど、たとえば楯が「おいで緑」というときのセリフに、すごく愛しさが詰まっているような感じがして(だって「おいで緑」だよ!? おいで緑……Oh……)、これが「きゅん通り越してギュン」という感情なのだとはじめて知った。
出会うべくして出会った、という言葉が緑と楯にはすごくぴったりだ。小説の世界なんだからそらそうだろう、とかそういう野暮な言葉は本当に不要で、「緑と楯」という、ぴったり感、しっくり感、二人でつくるかたち、二人だからできるかたち、どうしてこんなにはっきりとそれが「愛しいもの」に見えるんだろう。
「ただいま」
おれは荻原がただいまというのがすごくすきだ。「おかえり」(緑と楯 ハイスクール・デイズ)
「愛って字は、形が花束に似てないか」
(緑と楯 ハイスクール・デイズ)
なんてことない場面、会話ひとつひとつに胸がぎゅっとなる、これだけでなんだか泣けてくる。それにしても「愛って字は、形が花束に似てないか」だって!!!????????!!!!??????? に、にてる、にている……もう花束にしか見えん……。
「なんで俺にはおまえなんだろう」
「え?」
「ふしぎだね」(緑と楯 ハイスクール・デイズ)
本当になんでだろう、でもこれが「出会うべくして出会った」二人なのだ。その二人が一緒にいるだけで、本当にうつくしくみえる。二人が互いの名前を呼び合うだけで、自分のいる場所がきれいに見えてしまう。今までたくさんの人がつくりだしたり与えたり生み出したりしてきた愛、そのどれもただひとつしかないのだということにあらためて気づいて、愛……大きな「愛」という存在にぶっ倒れる。
と、そんな感じで「緑と楯」にはまったわたし、次に読んだのが「恋シタイヨウ系」でした。
恋シタイヨウ系(中央公論社)
わたしたちが住む太陽系とは違う「タイヨウ系」、月、水星、金星、火星・太陽、木星、土星、天王星、海王星、冥王星が舞台になっている。恋人や家族、いや関係に名前をつけなくてもつながっている人たちの連作短編集で、こちらにもミドリとタテが登場する(というか発表は恋シタイヨウ系のほうが先ですね)。
地球から月に移住したミドリとタテ、講演をしたり、自分たちの遺灰をどこに撒くか、などということを話したり、居住区外へドライブに出かけたり、もう、二人が一緒にいるだけで、それだけで、あたたかくて幸福でやっぱり泣けてくる。
この短編集、それぞれの作品の冒頭に短歌がついているんですが、そのどれもが本当に本当に本当にほんと~~~~~~~~~~~~~~~~に!!!!!! よいです。短歌って、ほんとうにすごくて、冒頭に書いた「それ以上の感情」もそうだけれど、本当に短い言葉のなかでおさえきれない感情が一気に爆発する。
短編を読む前にそれぞれの短歌を一回、読んだあとにもう一回(いえできれば何度でも)ぜひ読み返してほしい。ああ本当は紹介したいけどさすがに我慢します。気になる人ぜひ買ってね……ここまでブログ読んでくださった人ならばきっと後悔はしないと思います。
「恋シタイヨウ系」はいろんなミドリとタテ、そしてほかにもたくさんの愛しい人物が登場する。たとえば「水星」、そこに行きついたのは赤ん坊のターとターを育てるリョク。二人は親子ではないのだけど、出会ったいきさつが本当に、愛、愛が過ぎる。
おれが生まれたのは田舎の星で、たぶんこの太陽系の人たちにはほとんど知られていない。親と離れて育ち、体が大人になりはじめ、触れあう相手を求めはじめ、さびしすぎてとてもひとりでは生きられないと思いつめていた冬のさなかに、雪の魔物と出会った。その星の人びとには理解されない方法でおれと魔物は心をかよわせ、つぎはおなじ星の人間に生まれ変わっておれとともに生きてほしいと頼んだ。魔物は願いに応え、おなじ種族の子として生まれてくれた。
(水星)
わかりますか、この、うつくしさ、伝わりますか……。こんな、夢みたいな物語がここでは普通で、だけど再び出会えたことを全身全霊で喜んでいて、ものすごく愛があふれていて、だから泣きたくなる。なんにも悲しくないのに泣きたくなる。
また、女しか立ち入りがゆるされていないとされる「金星」に出てくるカーマとヒュリの会話。
「カーマ」
「ヒュリのことを話すと泣きたくなってしまう」
「わたしも」
「愛してる、ヒュリ」(金星)
人を愛するって、なんでこんなに切ないのか……。あっこれ、この感覚はドリカムの「LOVE LOVE LOVE」を聴いたときと同じ……ねぇどうして、すごく愛してる人に愛してると言うだけで、涙が、出ちゃうんだろう………本当にどうしてなんですか? だれか教えてくれ……。
「海王星」は太陽系の底みたいな場所、「成長や発展の名のもとに必要とされなくなったものやじゃまにされたもの、寿命をまっとうできなかったものたち」が流れつく場所、水葬の星とも呼ばれる星に、ミドリとタテはキカトラとツルネとして生まれ変わる。キカトラがツルネの墨を吸い出す場面も、どうしてそんなにうつくしいの……? 忘れられて捨てられたものを「ほんとうに愛おしい」というキカトラ、愛おしいのはおまえたちだよ……。
同じ地球に生まれた奇跡サンキュー……
また、雪舟えまさんをモデルにされているという穂村弘さんの「手紙魔まみ 夏の引っ越し」、こちらも教えていただいて読んだのですが、もう一体全体どういうことなのか、「まみ」はいったい、ほんとうにわたしと同じ人間なのか、同じ人間であってほしい、でもそれこそ月からやってきたんじゃなかろうかと思わせる短歌の数々、ていうか穂村弘さんに完全に憑依しているじゃないですか、この気持ちどうしたらいいですか? オーバーソウルかよ……。
残酷に恋が終わって、世界ではつけまつげの需要がまたひとつ
早く速く生きてるうちに愛という言葉を使ってみたい、焦るわ
「美」が虫にみえるのことをユミちゃんとミナコの前でいってはだめね
一九八〇年から今までが範囲の時間かくれんぼです
(手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ))
「みえるのことを」が爆裂すき……もうなんなのこの世界……この作品たちと同じ世界線にわたし本当にいるの……? いるんだとしたら感謝してもしきれないよ……。
そしてここでもういちど、「早稲田文学女性号」に寄稿された雪舟えまさんの短歌をよんでみる……。
ヤクルトを振りながらくれるこの人を兼古緑をだいじにしよう
この腕をすり抜けて裸で立ってもずくをすする荻原楯は
(俺たちフェアリーている(短歌版)七十七首)
Oh………同じ地球に生まれて、よかったっ……奇跡か……サンキューたくさんの人、そして誕生してくれた地球……圧倒的感謝……あとはこの愛しさと切なさを抱いて愛を叫んで眠るわ。