以前、ちょっとカメラにはまってミラーレス一眼で写真を撮っていた時期があったのですが、家に帰って撮った写真を見返してみると、「お、同じような写真が100枚以上ある……」と呆然とすることしばしば、画角がなんとなく違うとか、露出をちょっとおさえているとか、ピントが少し手前にきている……とか違いはまあ本当に微々たるもので、でも自分ではどっちがいいのかもよくわからず、「ま、フィルムでなくデジタルなんだし全部残しておけばいいじゃない」と、かるーい気持ちでデータ保存、「本当に撮りたい一瞬」というものなんて知らないままかしゃかしゃやっていたわけですが、写真というのは本来、本当に一瞬間のものしか撮れなくて、そしてその一瞬間の景色を全力で残そうとしたひとの写真に、私たちはどうしようもなく揺さぶられるものなのです。
全力で、懸命で、ときには命をすり減らしてでも真っ向から自分の心に従い行動しているひとと対峙すると、どうしてこんなに胸打たれるのでしょう。
私はこの作品を読んで、本当にぼろぼろ泣きました。
写真は心を砕かず軽率に撮りまくっていた私ですが、せめてこの感想は言葉ひとつひとつに心をこめて、全力で書き連ねたいと思います。どうか誰かに届いてください!
みずもかえでも/関かおる
落語家たちの情熱が、 目標を見失ったカメラマンの心に再び火をともす!
第15回 小説 野性時代 新人賞 受賞作!
落語好きの父に連れられ寄席に通うなか「演芸写真家」という仕事を知った宮本繭生は、真嶋光一に弟子入りを願い出る。真嶋は「遅刻をしないこと」「演者の許可なく写真を撮らないこと」を条件に聞き入れるが、ある日、繭生は高まる衝動を抑えきれず、落語家・楓家みず帆の高座中にシャッターを切ってしまう。繭生は規則を犯したことを隠したまま演芸写真家の道を諦める。あれから4年。ウエディングフォトスタジオに勤務する繭生のもとに現れたのは、あのみず帆だった……。
序盤はクリティカルなネタバレを避けますが、わたし本当に思いの丈をぶつけて未読の方に配慮せず好き勝手にこの感想を書くつもりです(書きました)。なんの情報も入れずに作品を読みたい方、気になったらぜひ書店へ行ってください!!
主人公はウェディングフォトスタジオで働く宮本繭生。面倒事を起こさないようお客様の要望をできるかぎり聞き、卒なく仕事をこなしていくような女性です。
結婚式のカメラマンって、予定外のことが起こりやすいというのもあって、本当にめちゃくちゃ大変だと思います。
綿密に打ち合わせをしても当日「やっぱりこれがいいあれがいい」という希望が出るのはほぼ避けられない、会場のライトや衣装の色と壁のあんばい、新郎新婦が立つ位置、などたくさん考え、決して軽くない機材をあっちこっちに運んでいるのだから、「ここで変更!!!!!!?????????」と絶望する人もたくさんいるんだろうなあと。
でも基本的には一生に一度の晴れ舞台、撮られる側としても絶対にいいものを残したい、やり残したくないという気持ちが生まれるのは当然のことで、だから繭生のように、当日の希望を聞いて立ち回るという方法は決して間違いではない。たとえ赤いドレスを着て赤い大階段での「首が浮かないか?」という構図になりそうなカットを希望された場合でも。
カメラマンにとって「自分がいいと思う構図」と「お客様が希望した構図」に齟齬があるとき、どちらを優先するのかはすごく難しい問題だろうな、と思う。とくにポートレートはその問題が顕著そう(さらにウェディングとなると!)。
私も雑誌編集の経験がちょろっとあるのでカメラマンの方と一緒にお仕事をしたことがありますが、まあこの場合はたいてい編集部の意向通りに撮ってもらうことが多かったですが、素直にこちらの要望を聞いてくれる反面、「こうしたほうがいいのになあ……」と思っていた方もいただろうなあと(もちろんカメラマンの意見を取り入れることもありました)。
でも仕事というのは良くも悪くも時間に管理されており、時間内で100点のものができればそれに越したことはない。
しかし繭生のアシスタントである小峯はさらに加点をめざします。「っす」という中途半端な挨拶が特徴の小峯、お金がなく毛先が金髪のプリン頭の小峯……。
小峯はいっけんやる気がなさそうな、低血圧な印象がありますが、ウェディングフォトに対して熱い感情を持っているアルバイトの男の子。
細かいミスを連発するけれど、小峯の「いい写真を撮りたい」という気持ちの強さを繭生も感じ取っている。とはいえ仕事は仕事と自分に言い聞かせるように小峯に「そのうちわかるよ」なんて言ってしまう。
コーヒーにミルクを混ぜたとき、一瞬で混ざり切ってしまうミルクが自分なら、混ざらないのが小峯。そんなふうに繭生がくすぶりを持っているのは、四年前、落語家の楓家みず帆の高座中の写真を許可なく撮ってしまったことにあります。
この楓家みず帆がまたすごくよくてですね……。四年前、寄席から逃げてしまった繭生のことを覚えていて、ウェディングフォトの打ち合わせで顔を合わせてしまったときの張りつめた空気……。読んでいる私の心臓も縮みました。
どんなお仕事もそうですが、突き詰めている人というのはとにかく自分に厳しく、その空気感がまわりにも伝染し、知らず背筋を伸ばされるような、そんな印象があります。
みず帆もとても「律」のひと。繭生が規則を破ったこと、弟子にしてくれた真嶋を裏切ったことについて遠慮なく厳しい言葉を投げかける。
小心者の私としては正直「い、一度くらいの過ちなのだし……ゆるしてやってくれねえか……」ともごもごしてしまうのですが、落語家、そして演芸写真家となった真嶋たちは本当に強い覚悟を持って、すべての瞬間に全力を尽くしている。
そんなひとたちの前で、覚悟なく写真を撮ってしまったことを「い、一度くらいの過ちなのだし……」なんて言葉でゆるしてもらおうなんて甚だしい、まったく丸太ん棒です。
繭生は偶然にも再会したみず帆に委縮しまくり(そりゃあそう)、このひとに撮られたくないと言われたときは、カメラを持っていない私の手も、まるでずっしり重いものを落とさないようにするしかないひやひや感をおぼえました。冷や汗が垂れるかと思いました。
そして繭生はみず帆と会ったことで、今まで逃げてきた自分の過去と向き合ってゆくのです。
ここからさらに遠慮なくネタバレしますので未読の方は自己責任でお願いします!!!!!!!!!!!!!!!!!(できれば作品読んでから読んでほしいです!!!!!!!)
まず私がすごいと思ったのがシャッター音です。この作品では「カシャン」「かしゃん」と二通りの表記が使われており、小峯や真嶋は「カシャン」、そして繭生は「かしゃん」。
なんだか「カシャン」のほうが力強さを感じませんか。この一瞬を撮るんだという強い気持ちが伝わってくる気がします。迷いなくシャッターを押している様子が伝わってきます。
対して繭生の「かしゃん」はどうも自信なさげに感じる、シャッターを切っていいのか、シャッターを切るタイミングは今なのか、ずっと迷っている気持ちがシャッター音に現れている気がします。
私は最初、読みながらずっとこの二通りのシャッター音を気にしていて、というのも「最後はきっと繭生も自信を持ってシャッターを切れるんだ、カシャンになるんだ」と思っていたのです。
しかしそんな安直な私の考えは覆されることとなりました。繭生はずっと「かしゃん」とシャッターを切る。それは、自信がないままだからではなく、最初から繭生のシャッター音は「かしゃん」だったということ。そこに情熱や覚悟が乗っていたのかどうかということ。
繭生の「かしゃん」で、父も小峯も目に見えない景色が見えたこと。それがなによりの証拠です(泣いた)。
繭生が演芸写真家を目指したのは、真嶋がシャッターを切るたびに、落語の景色が思い浮かんだことに感動したから。それは真嶋にしか撮れない写真でした。そして同様に、繭生にしか撮れない写真がたしかにあることを、「みずもかえでも」はなんの衒いもなく、まっすぐに私に教えてくれました。
だって「自分にしかできないなにかがある」って、たしかにそれはいい言葉で、きれいで、信じたくなるような気がします。けれど、どうですか、そんなふうに言われて「たしかにそうだよね!」って素直にすぐ納得できますか。
もちろん納得できるひともいるでしょう、でも少なくとも私は、「ケッ、そんなもんがあるならもっと素敵な人間になっとるわい」と、捻くれた考えを持ってしまう人間です。
それはひとえに自分に自信がないから、誇れるものがないから。でも違うのです、必要なのは自信や誇りじゃなく、火種なんです。
繭生はずっとくすぶっていた。でもくすぶることは、火種があるからできること。あとは火を起こすだけ。そしてその着火はなにも自分が起こすものとは限らないのです。
光るステージで、一瞬一瞬すべてに全力を注ぎこんでいる楓家みず帆の姿を見て、火種が消えるわけがない。繭生の心に火がついてから、本当にもう胸を打たれてずっと泣いていたし、あっさりコーヒーに混ざっていたミルクのような繭生が、混ざらないままマーブル模様を描けるようになるまでの過程で、「私にも…できることがある……!」とつよく思いました。それでこの感想を書いているわけです。
繭生が過ちを犯してしまったとき、みず帆もまた過ちを犯していたという、結果的に突き動かされたふたりの構図が本当に素晴らしい。
女の落語家だからと無礼にも席を立つ客がいたなか、みず帆は師匠から許可が下りていなかった「大工調べ」を勝手にかけます。
「こンの、べらぼうめッ!」という力強いひとことともにはじまるまくら、そして大工調べ……。
大工調べの落ちは「細工は流々、仕上げをご覧じろ」ということわざにかけたものにあるそうで、許可が下りていなくても、みず帆がこの大工調べを聞かせてやりたい、聞かせなければ、聞けよ、とそんな具体的な気持ちは思い浮かんでいなかったかもしれませんが、きっと突き動かされてこの落語をかけたことを思うと、そんなの泣くしかないじゃないですか。
そしてそんなみず帆の情熱に、「撮らなければ」と、繭生の情熱が知らず呼応したことにも胸打たれる。だってそれは本当に残さなくてはいけない景色だった。
師匠を裏切ることになっても、落語をかけなくてはいけなかったし、撮らなくてはいけなかった。それを情熱と呼ばずして、なんと呼べばいいのでしょうか。
楓家の定紋「水に楓」は、楓の葉が水に流れていくようすを描いたもの。儚い楓の葉や水紋は、高座が終われば消えてしまう。それを残したいと思う気持ちの抗えなさ。
「みずもかえでも」。このタイトルから、私は「水も楓も撮り切る」という繭生の覚悟を受け取ったのですが、撮り切るというのは馬鹿みたいに連写することではなく(私)、シャッターを切るべきときに切る、その瞬間を自分で決めて残していくという、一瞬一瞬に全力を尽くすことです。
ということを考えながら本の帯をめくってみたら「Before Maple Leaves Flow Off」……って書いてあるよ!!!直訳すると「紅葉(楓)の葉が散る前に」、あああ一瞬にかける切実さ、懸命さ……。泣
一瞬一瞬に全力を尽くすって、いったいどれだけの情熱と覚悟が必要なんだろう。手に汗握って、同じく全力を尽くしている人の横顔を見据えて……。想像しただけで途方もなく、ためいきがこぼれます。
しかしそのあとに、深呼吸をしたくなります。そして胸の鼓動を感じとります。私も全力を尽くしたいと突き動かされます。
細工は流々、仕上げをご覧じろ。
やり方はいろいろあるが、とにかく結果を見ろという意味のこのことわざは、本作に出てくる「陳腐なハッピーエンド」に通ずるところもある。
そう、本作はハッピーエンド。小峯は正社員となり、夢も諦めず、繭生は父とまた寄席に足を運んで、結婚式は無事終わり、みず帆のウェディング写真を撮ることができ、真嶋にまた弟子入りをする。
さわやかに、「よかった」と思える結末。けれどそんな「陳腐なハッピーエンド」になるまで、繭生たちがどれだけ苦しんで悩んで傷ついて迷って、そして火種を、情熱を絶やさなかったか。
それがひりひりと、痛いくらい伝わってきたから、私はぼろぼろ泣いていたのだと思います。
「みずもかえでも」は、まさに「調べをご覧じろ」。ありがとうございました。