今日もめくるめかない日

「ガザに地下鉄が走る日」読んだ

 パレスチナ問題について話をするたびに、必ずと言ってよいほど、「ホロコーストを経験したユダヤ人がなぜ、同じようなことをパレスチナ人に?」という質問を受ける。
(…)パレスチナの村々を民族浄化せよという指令を受けていたシオニスト軍は、一九四八年四月一日、ハガナーから「すべての村を敵の基地と見なし、十歳以上の者はみな戦闘員と見なせ」という命令を受け取っていた。

自らが被害者であるにもかかわらず、そのような暴力を他者に振るう者たちは歴史から――自らが被った暴力的体験から――何も学んでいないように見える。しかし、歴史から何も学んでいないのは、実はこのような問いをナイーヴに投げかける者たちの方であるのかもしれない。歴史の事実が私たちに教えるのは、パぺが書いているように、人間とは「非人間化」の暴力の犠牲者であろうとなかろうと、「他者を非人間化することを教え込むことができる」、ということなのだから。

 

 岡真理「ガザに地下鉄が走る日」を読みました。

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 アラブ文学者の岡真理さんによるパレスチナの人びとの暮らしや会話、生きていく/亡くなってしまう姿、歴史。重く、けれどきっと事実のとおり書かれている一冊。今もなおガザへの虐殺行為は止まっておらず、毎日心が痛む。
 そことは違う国で暮らしている私は何ができるんだろう、何をすればいいのか全然わからない。わからないけど、何もしないでいるのはつらい。せめて今何が起こっているのか、なぜこんなことが起こっているのかを知らなければいけないと思って、この本を手に取りました。

 

 正直なところ、読み終わった今も自分が何をすべきか、なぜこのようなことが起こっているのか、わからない。冒頭にも引用した、「被害者だったユダヤ人の人びとなのに、なぜこんなひどいことができてしまうんだろう?」という疑問を、私も持っていたけれど、「人間とは「非人間化」の暴力の犠牲者であろうとなかろうと、「他者を非人間化することを教え込むことができる」、ということなのだから。」この一文を読んで、納得できないのに納得してしまったような、とにかく本当に悲しくなった。
 日本にも歴史があって、非人道的なことを行われたり行ってきたことをわたしは知識として持っていて、非道な戦争の痛みを知っているはずなのに、たとえば今世界で起きている戦争という歴史に直接関与しようとしないことは、つまりそういうことになるんじゃないだろうかと思った。直接関与していない、というのはもちろん戦地に行って戦争止めてこいとか、直結的な行動じゃなくて、自分の生活を優先して、つらいニュースに耳をふさいで、でもときどき心が痛むと言ってみて、そのあと今晩の夕飯の献立を考えている、というような生活をしていること。でもじゃあそんな生活をしていることが悪いかといったら悪くなくて(「悪」は明らかに別にある)、悪くないけど私は、四六時中関心を持っているわけじゃないことを、どうとらえたらいいんだろう?

 

 この惨劇が一体いつまで続いてしまうのかわからない。続いてほしくないし、今この瞬間に終わってくれよと思う。でも、自分にできることってそうそうないけど、少なくとも思っているだけでは何も変わらないということはわかってる。この世界に住む人たち全員が、見て見ぬふりをしたとき、本当に希望が消えるのだと思う。

 

忘却が次の虐殺を準備する――韓国の文富軾さんがその著書『失われた記憶を求めて』のある章のエピグラフに掲げた、韓国の詩人の言葉だ。攻撃が続いているあいだも停戦になったあとも、私はガザ攻撃について語る機会があるたび、その言葉を引用した。たとえ停戦になったとしても、この出来事をもし私たちが忘却するなら、私たちは次の虐殺への道を整えていることになる。私たちは今、《ガザ》のあとにいるのではない、次の《ガザ》の前にいるのだと。

「次の《ガザ》の前にいる」、だからこそできることがあるのだと思う。たとえばこうやって思ったことを文章に起こしてみるとか、自分の意見を国に送るとか。声にすること、言葉を交わすこと、想像すること、知ること、考えること。いますぐ虐殺も戦争も終わってほしい、もう二度とそんなことをしないでほしい。