今日もめくるめかない日

知らないことが恥ずかしかった

 

 執筆中の短編、朝出勤前に書いたら少し進んだ。自慰にいそしむ三十歳処女の妹と、結婚にまつわるものがすべて暴力だと気づき男性蔑視をするようになった末に離婚した姉と、姉が飼いはじめた犬の話になる予定です(とりあえず書いていて、結末もなにも決めてない)。

 

 出勤途中でなかなか特徴的なファッションの女性を見かける。脚の前面部分の布面積がほとんどないジーパンで、ダメージジーンズというかもはやダメージ。あのお姉さんはダメージを履いていた。ファッションはね、もちろん自由だしね、自由でないとファッションじゃないからね、好きなものを着たらいいのはもちろんなんだけど、もし私が彼女のお母さんとかだったら、思わず「破けすぎだよあんた」と突っ込むだろうなと思うくらいには、服のダメージがすごかったね。

 

 もうすぐで憂鬱な行事がやってくる。それは社員旅行……。でももうじたばたしてもしかたない、行くしかないものは行くしかない。どうせ行くならもう、その土地にまつわる本をこの機会に読もうと思っていたら、似たようなことを考えていた人間がいた。「いま『海をあげる』を読んでます」と言われ、読み終わったら貸してほしいとつたえてすぐさま借りた。さらに「コクーン」「はじめての沖縄」も貸してくれた。どうも形から入るタイプなところある。

 観光地へ旅行にいくときは、 少しだけ緊張するというか、そこに住んでいる人たちにとって観光客ってどう映るんだろうということを考える。純粋に来てくれてありがとうって思ってくれているのか、よそ者が来たなと思ったりするのか、わたしはなるべくその土地の人たちの気分を害さないようにしなくては、と考えながら行動することがよくある。

 

 それからせっかく赴くのだからその土地の歴史とかはやっぱり知っていたいよね、数日後に行く沖縄という場所はとくに本州とは違う歴史があるわけで、こういうふうに考えられるようになったのは、中脇初枝さんの「神の島のこどもたち」を読んでからで、わりと最近なのですが。戦後、沖縄は日本に返してもらえていなくて、その当時が舞台となっている小説なんだけれど、その作品を読むまでわたしは「沖縄は海きれいだな〜」くらいしか考えていなくて、それはわたしにとって少し恥ずかしいことで、やっぱり歴史を学びたいと思ったのだった。

 当事者の声というのはもちろん大切なんだけど、わたしは当事者じゃない声も聞きたくて、というのはわたし自身がいろいろなことに対してマジョリティとして生きてきたから。だから岸政彦さんの「はじめての沖縄」はとても信頼できる。自分はマジョリティで、ナイチャー(沖縄の外、内地の人のこと)だということを正面から認め、その視点で考える沖縄、その立場だから言われること、感じることが書かれていた(まだ読みはじめたばかりなんだけど)。

 マイノリティと呼ばれる人に対して、つい「わたしは当事者じゃないから、真に理解することができない」と尻込みしてしまうことがあるのだけど、自分で考えて言葉にするということを、これからゆっくりでも実践していきたい。そしてそうするには当事者の言葉だけだとどうしても思想が偏ってしまうので(それが良いか悪いかはその時々によるけれど)、いろいろな立場の声を聞き逃さずにいきたいなと思う。マジョリティであることを恥じる必要はないけれど、知ろうとしてこなかったことを恥じる人間ではありたい。

 

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 今日は外が明るいうちに家に帰れて清々しい気持ちでもある。貸していたアンソーシャルディスタンスが返ってきて、どうだった、と聞いたら、「わたしも一緒に心中してくれる年下の彼氏がほしい」となにやら物騒なことをつぶやいていた。