今日もめくるめかない日

正解をさがそうとしないこと

 先日、日記のなかに「穿っているわけではないけれど」というような一文を書いた。穿った考えとか穿った見方というのは、ひねくれた考えという意味だと思っていたけれど、本当にそうだったかなと記事を公開したあとに調べたら、本来は「真相や本質をじょうずに捉えた見方」という意味らしい。

 間違ってつかっちゃったなあと思いながら、まあいいかとそのままにしている。こんな隅っこにあるようなブログに誤用警察も来ないだろというのと、最近は、仮に間違えていてもいいかなと思うようになってきた。

 少し前、やっぱりコロナ禍になってからなのか、人と直接しゃべるよりもネットのなかの会話が多くなってきた感覚があって、ネットというのは基本的にテキストが残り、なにか間違えた知識を言ってしまったら「こいつ間違っているな」という事実がとても色濃く出る気がする。レスポンスで恥をかかないように、返事をする前にいちいち事実を調べたり、自分の意見とのすり合わせのために一生懸命いろんな人の投稿を検索したり、そんなことばかりしていたのだけど、最近はなんかもう、間違えたっていいじゃないのと気楽な気持ちになってきた。

 対面で話す機会がまた増えてきたからなのかもしれないけれど、人ってふつうに間違えるよね、わたしなんてべつに博識じゃないしさ、でも無知だと思われたくないと思う自分もいるのが厄介。ただ検索した言葉を口にするのは、なんか結局わたしの意見じゃないよねって思うようになってきた。

 

 沖縄から帰ってきても引き続き岸政彦さんの沖縄についての本を読んでいるのだけど(いま読んでいるのは「マンゴーと手榴弾」)、そこでは沖縄に住む人たちからの聞き取りの記録が書かれていて、そのままを聞いているから、語る人の話のなかにはもちろん事実と異なることもあって、でもその間違いを岸さんはわざわざ正さない(必要に応じて注釈は入れるとのこと)。その人が思っていることはひとつの事実であることを実感した。

 

 休憩中に、前の会社の先輩からLINEが届いていた。仕事の愚痴で、ライターをやっている人なんですが、ちょっと嫌味っぽいたいへん腹の立つ赤字をもらってしまったらしい。わたしも今の会社に転職する前は編プロに勤めていて主に雑誌の編集やライティングをしていたのだけど、赤字は入れるし入れられるしでもはやこの原稿はだれが書いたものなのよ、なんて考えを持ったときもあった。ただもう仕事だしね、編プロなんてクライアントである版元の言いなりなので、殺人現場?というくらい真っ赤に染まった原稿を悔しい気持ちを抱きながらひとつひとつ直したのだった。校正の赤字はそれこそ間違いを正すものだね。

 

 最近はTwitter(Xともいう!)で、バズっている投稿に対して事実と異なりますよ、はっきりとしたことは書かれていないですよ、みたいな注釈?コミュニティノート?というものがついているのをよく見かける。たしかにデマに踊らされるのはよくないけれど、自分で事実かどうかを調べる前に正解が用意されているのは少し怖い。単純な間違いを血眼になって訂正してくるような空気は怖い。

 間違っていたとしても、その後正解に辿り着ければいいと思うし、むしろ正解に辿り着かなくたって、それはそれなんじゃないかと思う。もう少し肩の力を抜いて過ごしていきたい。

 

 帰り道、空気が涼しくなってきた。朝は秋という季節なんてないんじゃないかと思うくらいまだ暑いけど。

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 こないだ見てきたがじゅまるの樹。150年生きているんだって。がじゅまるはひげのような根が上から生えてきて、それが地に着いて、というのを繰り返して少しずつ少しずつ前進していくらしい。それをガイドの人が「がじゅまるは歩くんです!」と説明していたのが印象的だった。