8時ごろ目が覚めてまたもや布団のなかでだらだら過ごす。私基本的に休日の午前中ないです。
お昼、夫と買い物がてら車のガソリンを入れに行く。家の近くのガソスタはレギュラー170円超していましたが少し離れたところだと163円だった。相対的に安いというだけですが……。ちなみに私はもう十五年近く車に乗っていないペーパードライバーなんですが、そろそろ運転もしたい……。ただ夫が乗る車は大きくてなんかこわい、できれば軽がいい。実家に帰ったとき親の車で練習しようと思っていたら最近マニュアル車に買い替えたとのこと。私、AT限定……。
午後、「夜と霧」を読む。
強制収容所のことはもちろん知識としてあり、昔アンネの日記を読んだこともあったのですが、やはり強烈というか、あまりにも惨くて、なんかもう言葉にならない。前半、半分ほど解説があり、後半にヴィクトール・フランクルの体験記、そこから見出した心理学が記録されており、そして最後に資料として当時の写真やガス室の経路図などが載っています。
戦争も虐殺も人間がはじめることで、はじめると人間の手に負えないものになっていって、でも人間が終わらせるしかなくて。なんかもう本当に愚かだ。
序文に「人間であることを恥じずにはおられない」とありますが、本当にこの言葉に尽きる。
なかでも印象に残ったのが八章「絶望との闘い」より、ひとりの囚人(と書くのも嫌なのですが)がヴィクトール・フランクルにある夢を見たと告げるところ。
「最近奇妙な夢を見たのだ。ある声が聞えて私に何でも望んでよいと言ったのだ……つまり知りたいことを何でもいえば、その声はそれに答えてくれるというのだ。ところで私が何を訊いたかと思うね、私は私にとって戦争がいつ終るかを知りたかったのだ。」
(中略)彼はいつその夢を見たのかと私は尋ねた。「一九四五年の二月だ。」と彼は答えた。(当時は五月の始めだった)。そして夢の声は君に何と答えたのか、と私はさらに尋ねた。小さな声で彼は私に囁いた。「五月三〇日……」
(下線は原文だと傍点)
だけど五月になっても解放される見込みはなく、夢を見た男性は五月下旬に高熱を出し、30日に意識を失い、翌31日に亡くなる。私にとっていつ終るか、という彼の予言を当ててしまった。
希望を失うことが彼を死に至らしめたということだと思うのですが、過酷で尊厳もなにもない状況でも希望を持ち祈り続けること、なんの感情もなくなり無感動のまま過ごすこと、そして何十万人を殺戮すること、どれもが同じ人間がしていること。人間の尊厳を捨てさせるようなことをどうして同じ人間ができるのかわからない。人類は、いつまともになるんでしょうか。
今回私が読んだのはみすず書房から出ている旧版ですが、新版も出ているようです。(この言い方が適切かわからないですが)新版のほうが読みやすさがあるのではないでしょうか。旧は1956年、新は2002年発行です。
そういえば昨日は節分でしたね。夫婦ふたりぐらし、とくに何もしないですが今日妹家族の節分の様子が動画で送られてきました。
私の実家は昔から豆まきではなく家のなかでお菓子まきをするのが鉄板(母の実家から引き継いでいるらしい)、小袋になっているチョコとかクッキーとかを親がへいへいっと投げ子どもが一生懸命それを拾うという楽しい楽しいイベントだったのですが、妹が大人になってそれを引き継いでいるようです。そんなことをしていたから、実は節分というのは一年でいちばん楽しみな行事でもあった。