今日もめくるめかない日

ことばと生きたい(鳥と港/佐原ひかり)

 もうずっと昔、インターネットをはじめたころに学生があつまる掲示板みたいなとこで小説を投稿していたことがある。そうとう稚拙なものだったと思うけれど、自分で話を考えて文章を組み立てて読んでもらうというのは、単純にすごく楽しかった。
 私もほかの人の小説をたくさん読んでいたのだけれど、今でも忘れられない作品がひとつだけある。読んだとき、完璧な小説だと思った。文章が上手で言い回しのひとつひとつがおもしろくて、私もこんな小説書いてみたいと思った。もうその掲示板は封鎖されてしまってきっと二度と読むことはできない。当然データなんかも持っていないし、書いていた人の連絡先だって知らない。内容も完全におぼえているわけではない。でも私がいまも小説を書いているのは、少なからずその作品の影響がある。本人はもしかしたらその作品のことを忘れちゃっているかもしれないけれど、思いがけず他人が受け取ったことばというのは、不思議と本人のまったく知らないところで生き続けていくものだよね、ということを「鳥と港」を読んで思いました。感想です!

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※内容に触れているのでこれから読む方ご注意ください!買おうか迷っている人へ、初回配本は特典で著者からの手紙がついているので早めの購入が吉です!(王様のブランチで紹介されるらしいから売れるんじゃないかな!!?)

www.shogakukan.co.jp

“これから”の働きかたの物語
 大学院を卒業後、新卒で入社した会社を春指みなとは九ヶ月で辞めた。所属していた総務二課は、社員の意識向上と企業風土の改善を標榜していたが、朝礼で発表された社員の「気づき」を文字に起こし、社員の意識調査のアンケートを「正の字」で集計するという日々の仕事は、不要で無意味に感じられた。部署の飲み会、上司への気遣い、上辺だけの人間関係──あらゆることに限界が来たとき、職場のトイレから出られなくなったのだ。
 退職からひと月経っても次の仕事を探せないでいる中、みなとは立ち寄った公園の草むらに埋もれた郵便箱を見つける。中には、手紙が一通入っていた。
「この手紙を手に取った人へ」──その手紙に返事を書いたことがきっかけで、みなとと高校2年生の森本飛鳥の「郵便箱」を介した文通が始まった。
 無職のみなとと不登校の飛鳥。それぞれの事情を話しながら「文通」を「仕事」にすることを考えついたふたりは、クラウドファンディングに挑戦する。
『ブラザーズ・ブラジャー』『人間みたいに生きている』の新鋭が描く“これから”の働きかたの物語!

 これまでも佐原ひかりさんの作品は読んできたのですが、正直なことを言うと、実は読むのに覚悟が必要だったりします。というのもそれはたぶん私が「大人」だから。佐原ひかりさんの作品はですね、なんというか、大人への憎しみや怒りが滲んでいると感じるのです(これは読む人にとってはまったく感じないことであると思います、だからこそ覚悟が必要)。
 直接的に大人を攻撃しているわけではなく、「こども」を媒介にして大人を責めるわけでもない。ただ、ひたすらにこどもの味方である作品を書かれる方だと思います(こどもというのは年齢だけで区切られるものではないですが、主に十代の子たち)。
「大人」は基本的には正しい。正しいというのは、「こうしておけばまあだいたい間違いはない、とりあえず大丈夫」と言えること。
 すべての大人はかつて「こども」でした。こどものころ、大人の言っていることが全然理解できなかったり理不尽だと感じたり反抗したり、そのたびに押し込められて納得いかなかったり……という経験は多かれ少なかれあると思いますが、そんな経験がありながら、それでも思考が自然と「大人」になっていく。だって大人にならないと生活できない。働いてお金をもらう、嫌なことを我慢する、納得いかないことに納得する、「しんどいのは自分だけじゃない/自分よりもっとしんどい人がいる」、そんなふうに納得させて、私たちは生きている。
 そんなふうに生きているから、いつかそんなふうに生きていくだろうこどもにも、大人の思考を押しつけてしまうのかもしれない。こどものためを思って、という大義名分を掲げながら。こどもにとっては柔らかいことばで、大義名分を持つ大人にとっては鋭いことばで、包み込んだり突き刺してくるのが佐原ひかりさんの作品だと思っています(同じ「ことば」なのに不思議)。だから本当は、十代のころに出会いたかったなあというのが本音です。
 長くなってしまいました、そんなわけで「大人」な私はいつも読む前に大きく息を吐いて覚悟を決めているのですが、「鳥と港」は「大人」をも包み込んでくれている小説のように思いました。これも大人のエゴだったらどうしよう!?

 

 新卒で入った会社を9カ月でやめたみなと。上司の田島課長の「高学歴のくせに」といったねちねち言葉、強制ランチ(胃もたれしそうな大盛定食…)、朝礼で発表される社員の「気づき」のまとめ作業、い、嫌だ~~~~~~っとなる事象のオンパレード。我慢できなくなって限界がきて、ついにみなとは会社をやめる。
 この会社の辞め方がとてもリアルで、ほかにやりたいことがあるから退職したのではなく、やりたくないことが多すぎたから、が退職の理由(これを認めることにどれだけ勇気がいることか)。

 仕事なんてそもそもやりたくない前提なのだから、その会社を組み立てる要素のなかにさらにやりたくないことがあるなら、やっぱりそれは無理よ。わたしも最近転職をしたけれど、前の会社は社員総会で美人コンテスト(!!!!!!!!!!!!!!)みたいなのを開催したり忘年会でコーラ一気飲み(!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)させられたりと、太古にタイムスリップしちゃいました…?と思うようなことが頻発したので辞めました。いいんだよ、嫌だから辞める、でも。だってやりたいことなんてそうそうあるわけないのだもの。
……とはいっても仕事に前向きなほうが大人としては正しいし、というか生きていくための手段なので嫌だ嫌だばかりではたちゆかない。わかっていても動けずにいるみなとの前に現れたのが「あすか」の手紙です。

 

 私もかつてはボトルレターに憧れていた少女のひとりでありました(海に行くたび探した。見つけたことはないけれど)。なので見知らぬ相手と文通をするというのはやっぱりわくわくするシチュエーション。見知らぬ、というか自分のことを知らない相手というのがやはりいいのかもしれない。なんにも知らないからこそ言えることはたしかにある。みなととあすかは文通をしているうちに実際に出会い文通屋をはじめるのですが、ふわふわとしたものではなくクラファンを使ってしっかり事業として成立させているのがとてもよいなと思いました。
 物語の力に頼りすぎていないというのでしょうか。小説って現代が舞台だとしてもある程度は非現実的な設定があってもいいと思うのですが、「鳥と港」はありそうでない、ではなく、なさそうである、もちょっと違って、あるうえで憧れる、という理想と現実のバランスがいい。
「鳥と港」の認知度を上げるために飛鳥の父の知名度を利用したりもするのですが(父が小説家!理想と現実のバランス!)、ネームバリューを利用する/しないの葛藤、高校生の飛鳥の顔出しについてをみなとのほうが深刻に考えているのも、リアルな「大人」の側面。
 飛鳥(こども)を守るのは大人の使命ですが、こどもにとっての正しい守り方ってやっぱり難しくて、少しでも間違えると飛鳥を傷つけてしまうかもしれない、取り返しがつかなくなるかもしれないと考えるみなとの危うさが、全編で漂っている。文通を純粋に楽しく思う瞬間と、「仕事」になってしまった瞬間、みなとと飛鳥がすれ違う瞬間、みなとが苦しむ瞬間、飛鳥が大丈夫なふりをする瞬間、どれも「なまもの」であって、物語を読んでいるというよりは、ドキュメンタリーを読んでいるような感覚もありました。

 でも終盤に向かっていくにつれてひろがるドラマチック性は素敵な物語でもあって、やっぱりバランスがいいんだろうな、小説ということを忘れそうになるけど最後はしっかり小説としてのおもしろさを思い出させてくれる、読んだらこの感覚がわかると思うのですが、あんまりない読書体験です。

 

 仕事ではない文通/仕事としての文通。好きなことを仕事に、という考えのもと働きはじめた人なら感じることが多いかもしれません。あんなに好きだったのに、やりがいのある仕事だったのに、楽しく仕事ができるはずだったのに、いつのまにかただの義務になって結局不満ばかりが溜まって、無償でも好きなことだからできていたのに、無償ではもう動けない。「やりがいのある仕事という幻想」という本もありますが、やりがいのある仕事なんて幻想なんですよ、いやなかには幻想じゃない人もいるかもしれないけれど、ずっと同じ気持ちを持ったまま働くことはやっぱりできない。「働く」って本当に一筋縄ではいかないのです。
 じゃあ「鳥と港」のサービスをあきらめてただの思い出のひとつとするのか、自分たちができる範囲での運用方法に変えるのかといった難題に当たったとき、二元論化するのではなく、間にあるとても現実的な方法をふたりが見つけたのがよかった。
「みなと」と「飛鳥」どちらか一方のための鳥と港ではなく、ふたりの間にあるやり方を模索する。それは「鳥と港」ということばのイメージにある飛び立っていくこと、そして受け入れることどちらも体現しているように思える。まんなかに、わたしたち「大人」も入れてくれる、読みながら嬉しいと思える小説はなかなかないです。

 みなとはこれから形式ばった「大人」ではなく、「こども」と対等の「おとな」になっていくのではないかなあ、なってほしいなあと思った。


 ことばというのは誰かを喜ばせることも傷つけることも容易にできる。反対にまったく響かないことばというのもある。ことばは良くも悪くも「手段」だけど、狙っていないときほど届いたりもする。

 自分のことばが思いがけず誰かの心にずっとずっと残るかもしれない。それは怖いことでもあるけれど、言葉を選び抜いて発信するようになってきている現代の、ひとつの希望でもあるのだと思う。
 ずっと昔に受け取った、何者でもなかった人の小説をこの先もきっと忘れないように、わたしが発したことばが誰かの心で生き続けていることがあるなら、そこに恐怖を感じたくない。春の真夜中を怖がっていた飛鳥が、海からくる春を自然に迎え入れるようになったように、ことばと生きていきたいと思う。読んだあと、ことばにすればするほどよさに気がつく小説です。

 

 あっ、あと冒頭にも書きましたが初回配本分は著者からの手紙がついていますよ、私もばっちし読んだのですが、なんだか本当に自分に送られているような、形式ばっていない「手紙」でした。宛名のないこんな手紙をもし自分がみなとのように見つけたら、お返事書きたくなっちゃうな。

 どうやら王様のブランチで紹介されるらしいので、初回配本なくなる前に気になる人はぜひ購入したほうがよいと思います!!(絶対売れる思う、売れたあとは、ほらね!ってドヤらせてください!←嫌な大人!)

 買ってない人がここまで読むことはないだろうなと思ったので、とりあえず冒頭に書いておきました。笑

 

 先日トークイベントも行ってサインをもらいました。「ことばをあなたに」、よいですね。f:id:mrsk_ntk:20240607132037j:image

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