今日もめくるめかない日

小説とわたし(書く)

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 小説を書くのは苦しいことである。最近思う。わたしは公募に挑戦しているただの素人であるので、偉そうなことはなにも言えないけれど、(読む)のほうで「自分の発言に自信がない」と書き、それをすこしでも払拭したいと思っているので、書くことに対して自分がどう思っているかを残しておきたい。

 

 だいたい、この世の中にはおもしろい作品がこんなにも溢れかえっているのだから、わたしが書く意味とかないよな、というのはつねづね思ってしまう。なるべく考えないようにするけど、いろんな作品を読むたび思う。

 たとえばわたしは推敲という意味では何度も自作を読むけど、応募し終わったあとはもうこわくて読めない。おもしろくない、と自分で感じてしまうのがこわいのだと思う(そして百発百中それを感じるだろう)。こんな気持ちで応募した作品は、そりゃあ選考に通るわけもなく、今のところ結果は芳しくない。

 

 小説を読むのはすきでも、書くのがすきかと訊かれたら、どうだろう。すこし考えて、すきではないよな、と思うけど、じゃあどうして(いちおう)書き続けられているのだという疑問も浮かぶ。わたしは自分がなぜ書いているのかわからない。

 明確な理由を持っている人もいるだろう。書きたい永遠のテーマみたいなものが決まっている人もいるだろう。作品ごとに伝えたいものがある人もいるだろう。わたしはそういうのがない。ないというか、わからない。わからないまま書いている。

 テーマというのは必ずなくてはならないもの、とは思わない(たまにあったほうがいい談義がされているようだけど)。これは作品によってだ。だからテーマ云々に悩むことはそんなにないのだけど、「なぜ書いているか」を知りたいという気持ちはずっとある。

 生きがいではない(書けなくなっても生きてゆけると思う)。趣味でもない(趣味だったら楽しい方向に書いていく)。褒められるための道具でもない(褒められることは気持ちのいいことではなくなった)。

 今まで何度か考えてきたなかで、自己表現というのがいちばん近いと思っていたけど、最近は違う気がする。わたしは(読む)でも書いたけど、自分のかたちをわかっていないから、表現できるものがない。

 だからもしかしたら、書くことも、わたしにとっては自分を知ることなのかもしれない。それって結局自己満足、ということばで片づけられてしまうんだろうけど、それを自己満足にしないためには、デビューするしかないのだ。

 だから結局書くしかないんだろうけど、なんて苦しいことだろう。書いても書いても意味があるとは思えない。めくるめかないにもほどがある。なぜ書いているかを知りたいと同時に、本当は答えを見つけずにいたいと思っている。その答えが見つかったとき、わたしは書けなくなるような気がするからだ。かたちができあがっていないうちは。

 

 このまえ、一つの賞に作品を送った。三月末が締め切りだった賞といえば、だいたい見当がつくだろう。そこに応募することはひとつの目標だったから、なんというか力尽きたじゃないけど、今なんとなく書きはじめることができないでいる。

 受賞なんてするわけない、と思っているほうが楽だ。駄目だったときのための予防線。だけどなにかの選評だったか、「受賞しないと思って出す作品はその時点で負けている」というようなことを読んだ覚えがある。わたしは自信のある作品をつくりだせなくて恥ずかしいし、今ずっと負けている。なにかに、だれかに、ずっと負けている。

 負けているのがわたしのかたちなら、それを違うかたちに変えてゆきたい。わたしが書く意味はないかもしれないけど、書きたいという気持ちならまだかろうじてある。

 

 

 これは余談だけど、新人賞などの選考委員のことばを読むと、やる気に満ち溢れたり、逆に「むりだ……」となったりする。どの賞もラスボス感があってかっこいい。なかでもすきなのは、新潮新人賞の選考委員をつとめる又吉直樹さん。

「生まれたときから作家になることを義務づけられていた人など存在しないのだから、誰が書きはじめてもいい。誰にでも小説を読むことが許されているように、誰かが小説を書きはじめる自由も守りたい。」

 

 ことばは意味のないものが多いけれど、ときどきふいに、だれかにとって意味のあるものになったりする。