今日もめくるめかない日

いつまでも、ずっと美しい子供(クララとお日さま/カズオ・イシグロ)

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 実はカズオ・イシグロの作品を読むのははじめてで、もちろん名前を知ってはいたけれど、なかなかタイミングが合わずのままできて、今回「クララとお日さま」を手に取った(すごくネタバレ含みますので未読の方はご注意ください)。

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 最初に言うと、終盤の展開でめちゃくちゃ泣いてしまった。読み終わった今、怒涛のクララロスである……。また最初から読めばクララに会えるのだけれども、一回目に読んだときに会ったクララにはもう会えないというか、俯瞰的に見ることのない「はじめてのクララ」、それはたぶん、わたしにとってもはじめて出逢うAFになった。だから今、喪失感があるのかもしれない。

 

 主人公(語り手)はクララというAIロボット、作品内では「AF」(Artificial Friend/人工ロボットの友達)と呼ばれており、子供たちの友達として開発されたもの。仲間のAFとともに店先に並べられ、買われるまでショーウィンドーから街並や人間を観察する。子供たちは気に入ったAFを買ってもらい、家に連れ帰り、友達としてAFと過ごすのだ。

 クララが出逢ったのはジョジーという少女で、ふたりははじめて顔を合わせたときから惹かれ合う。クララを選んだジョジー、ジョジーに選ばれたかったクララ。その願いが叶って、クララはジョジ―の家に住むことになる。
 ジョジ―の家に住むのは母親と家政婦のメラニアさん。そしてお隣の家にはジョジ―と仲良くしている少年リックがいる。ジョジ―、母親、リックたちをメインとして、クララは多くの人たちとかかわりを持ち、それぞれがどんな思いを抱いているかを観察し、そして友達であるジョジ―のためを思って、つねにクララが思う最善の行動をとろうとする。


 語り手がロボット、と聞くとちょっと無機質なイメージを抱くかもしれないけれど、まったくそんなことはなく、クララはとにかくやさしく美しい子供である(解説でも「美しい子供」と評されていた)。感情豊か、というとまたそれは違うような気もするのだけど、ジョジ―たちが悲しまないように自分がどうすべきなのかを考え行動するクララに、無機質という言葉は到底似合わない。

 

 作品内ではAF同士の格差(クララは優秀だけれど型落ちモデル)、人間同士の格差(「向上処置」を受けられる子ども、受けられない子どもには大きな差があるとされている)や、親のエゴなどがクララの目線で描かれる。たぶん人間だったら否定的な意見がうまれるところであっても、クララは否定しない。ただ、だからといってなんでもホイホイ受け入れるというわけでもない。クララはいつも考えてから発言する。そして決して自分を優先しない。

 クララはジョジ―のAFだから、なによりもジョジ―、そしてジョジ―の大切な人たちのことを優先する。それがクララの務めであって、そしてクララ自身がしたいことだ。

 ジョジ―は病を抱えており、もしかしたら長く生きられないかもしれない、と思われている。実はジョジ―には姉がいたのだけど、その姉も幼いころに亡くなっており、母親はジョジ―までいなくなったら耐えられないと考えている。もしジョジ―がいなくなったら、と母親が想像していることをクララは知り、同時に自分がジョジ―の家にやってきた本当の意味を知る。
 母親はクララを買う前から「ジョジ―の歩き方を真似できるか」といった質問をしており、つまりそれは、ジョジ―がいなくなったあと、ジョジ―になりきれるか、ということだった。
 その計画を知ったとき、クララはだれのことも責めず、もし自分がジョジ―になることがあるならそうなろうとし、けれどそれでいて希望を捨てなかった。クララはジョジ―が治ることを信じている。クララの希望はとにかくお日さま。お日さまの力を借りれば、ジョジ―はきっとよくなるのだと信じている。
 あんまりにも純粋なクララに何度も胸を打たれる。たんじゅんな「美しい自己犠牲」とは違う。クララはロボットだけど、どんどん人間のことを学んで学習して、でも人間みたいになるわけじゃない。ひたむきで純粋。あくまでもAFなんだけど、AFだからこそ、ずっと美しい子供のままなのだ。

 

 AFは、子供のためのロボットである。大人にAFはいない。子供は大人になっていくけれど、AFはいつまでもAFだ。そしてすべての子供とAFが良好な関係を続けられるわけじゃない。
 ジョジ―は無事大人になることができた。それはクララのおかげであると思うし、でもクララだけのおかげじゃないとも思う。そしていつも一緒に遊んでいたお隣のリックも大人になった。昔将来を約束した二人は、今はもう別々の道を歩もうとしている。たぶんそれは、わりと当たり前のことだ。
 クララとジョジ―はたしかに最高の関係を築いたのだと思う。けれど子供が幼いころに遊んでいた玩具にいつか飽きてしまうように、もう必要なくなるように、クララはジョジ―にとって必要がなくなっていく。けれどクララはだれのことも責めないし、最後、廃品置き場でそれまでの記憶を整理しながら、「わたしには最高の家で、ジョジ―は最高の子です」とかつて一緒に店にいた店長に伝えている。クララが言うことは、ぜんぶ本当のことだ。クララは強がったり嘘をつく必要がない。そしてクララは本当にジョジーたちから愛されていた。廃品置き場にいるのも、「捨てられた」のではなく、「引退させた」から。


 子供は大人になって、いつかクララのことを忘れてしまうのかもしれないけれど、クララはきっとだれのことも忘れない。クララだけが、いつまでも子供のまま、美しいまま。人間のことをたくさん学習しても、ずっと美しいままだ。

 クララがジョジ―になるかもしれないという可能性があったとき、ジョジ―のすべてを真似することはできない、心のぜんぶを理解することはできないはずだということを言った人がいた。けれど一方で、ジョジ―の中には継続できないような特別なものはないと言った人もいた。
 知能が高くてなんでも学習するAFは、たしかに人の心を近いところまで模倣することができるのかもしれない。クララだったら、ジョジーになれたのかもしれない。けれどクララは最終的にこう結論を出した。

 

「特別なものはジョジ―の中ではなく、ジョジ―を愛する人々の中にありました」

 人の心がないクララのほうが、よっぽど心を理解しようとしている。けれど「ジョジ―を愛する人々の中」に自分は含まれていないような言い方がせつない。クララはたしかにジョジ―たちを愛していたし、「特別なもの」はクララの中にもあるはずだ。


 大人になっていろんなことを忘れていったり変わっていくのは決して悪いことではない。けれどやっぱりずっと変わらないものがあればいいのにと、どうしても思ってしまう。思うだけでは、変わらないものを持ち続けることはできないとわかっているけれど。

「折」について

 好きな日本語はたくさんある。ことばの意味を含んで好きなものも、意味はさておき単純に響き(漢字)が好きなものも。たとえば、ひぐらし/雨模様/うたかた/紙魚百日紅/すこやか/夏至/山吹色/ゆめゆめ……ヒィーたまらん。字だけをずっと見ていられる。中毒性がすごい。夏至って、「げ」って濁点つくのに「し」によって濁りが相殺されているというか、「げし」って響き、とにかくすごくないか。夏に至るでげしって……。エモ力高すぎである。 

 

 大事なのは、気取りすぎていないことだ。これは使う文脈によって印象が変わるところだと思うけれど、とにかくそういうのはひとまず置いて、字単体を見る。とっさの印象による「気取りすぎていない」「野暮ったくない」「口にしたとき気持ちがいい」「重すぎないけど軽すぎでもない」「繊細すぎず図太すぎず」……などなどの基準がわたしのなかにあるんだけれど、べつにその基準を数値化しているわけではない。とにかく印象や直感で基準を決めているが、なにかを書くときはこの基準を満たしたことばを選んで書くようにしている。  
 わたし自身が使うとすると、という前提だけれど、たとえば、「薔薇」「雅」「朧気」「満月」はちょっと気取りすぎ。「玻璃」「湖上」、繊細すぎて使いづらい(どういう場面で使えばよいのだ…)、「モヤモヤ」、「カタチ」、カナにするととたんに使えなくなったり、「曖昧」はよく使うけど「曖昧模糊」は使えない。もちろん本来の意味を優先したら、ぴんとこないことばでも使うときはあるけれど。

 
 そんなかんじで、きっと人それぞれことばには多少なりともこだわりがあることと思う。そしてわたしが最近ときめいてやまないのが、「折」、これはすごいよ。
 まず「おり」という響きが美しいし(か細そうにみえて繊細すぎず! 脚がある、しっかり立っているかんじがする)「折る」という動詞にしても多くの可能性を秘めている。心が折れるとかにも使うけど、紙を折る、指を折る、手折る……なんかはもう、ヒョエー! である。 折る、というしぐさがまずいい。

 さらに、折り紙、折り鶴、手折り、三つ折り、折り合い、時折り(ときおり……!? ヤッバ)、折り襟、折り返し、菓子折り、折柄………ちょっとどうなっちゃってんの? 折がつく単語すべて美しい説ある。ここまででもう美しさに息絶え絶えなんだけれども、加えて「つづら折り」。つ、つづら折り……つづら折りって……九十九折りでも、葛折りでも可……(ヤバ)。日本語や、おまえいったいどういうつもりなのん……。そこらのもふもふ動画より中毒性あるよ。

 

 さらに、さらに、折と組み合わせることにより、とんでもない美しモンスターになることばがある。それが「折に触れ(て)」。

 お、お、お、おりにふれて〜〜〜〜〜!?!?!?!? は? もう「折」のポテンシャルがすごい。どこまで美しくなろうとしてんの? なんの意識か知らんけど、とにかく意識が高すぎる(でも「折」のそういう意識高い印象を受けないところもたまらないんですけどね…)
 折に触れて、機会があるごとにといった意味だけど、機会を折にしちゃうセンスやばすぎるし(だれが考えたの?)、しかもそれに触れるって?!?!?!?!?!?! まさに折に触れてつかいたいことばである……。むしろ触れなくてもつかっていたい。ときどき仕事のメールでつかえるタイミングがくるけれど、そのときのわたしの興奮度は正直言って最高潮である。
「当時のことを折に触れ思い出します……!(三点リーダー症候群)」などと涼しげな顔でメールを打っているが、その実(おっおっおっ、折に触れてをつかってしまった、ヒィヒィ、ヒッヒヒィーッッッ!! わたし、いま、折に触れてるーー!!!)というちょっと危ない思考になっている。

 

 響きや漢字、意味合いなどを含め、とにかくわたしはいま「折」に夢中! なんだけれども、「おり」の響きでいえば「機織り」もやばい。はたおり、字が実体を持つならさわりたい。だからわたしは活字が好きなのだろう。また、「折」は「せつ」とも読むけれど(「骨折」「左折」など)、「おり」の力には届かずともやはり「折」が入っているだけで一目置いてしまう。
 骨折といえば「骨折り損の草臥れ儲け」ということばがあるけれど、(意味はおいといて)草臥れもなかなかわたしを誘惑してくることばである。


 いったいなんの話だったんだ……感が否めないけれど、とにかく日本語にはこのようにこころをときめかせることばがたくさんある。わたしは発見するたびにメモする習慣をつけ、折に触れて見返すことにしている(ヒッヒヒィー!)。

海とやどかり(わたしとインターネット)

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 インターネットは虚構の世界だと、昔言われたことがある。

 

 小学生のときだっただろうか(当時高学年になると、視聴覚室にあったパソコンを使えた。ザ・コンピューター!って感じの)。だれの言葉だったか、前後の文脈はなんだったのかは覚えていないけれど、ただ、「虚構」というのには素直に納得した気がする。

 

 インターネットではない世界、つまり家とか学校とか、ともだちの家とか、顔や本名、住んでいるところなんかを知り合っていて、直接話したり遊んだりできることができる世界は、現実世界。一方で、顔も本名も住んでいるところも知らないインターネットは虚構世界。存在が虚構なのではなくて、溢れかえっている情報は嘘かもしれないということ、虚構だと言ったひとはそういうことを伝えたかったのかもしれないが、小学生だったわたしはインターネットそのものが虚構なんだと思っていた。

  画面の向こう側に確実にいる「人間」をうまく想像できなかった(今みたいに、動画配信とかオンラインイベントなんかがあればまた違ったのかもしれないけれど)。画面の向こう側はいつももやもやっとした影があって、その影がなぜか勝手に文字を打ち出していて、「インターネット」ができあがっているようなイメージ。じゃあ今インターネットをしている自分はなんなんだよって感じだけれど、自分本位な性格のせいだろうか、他者の存在を認識できていなかった。

 

 とはいえさすがにいつまでももやもやっとした影が文字を打っていると思いながら成長したわけではない。画面の向こう側に「人間」がいることは、中学校、高校にあがるにつれ自然と理解していった。けれどやっぱりインターネットの世界は現実ではないと思っていたのは、相手のことを知らない、そして相手が自分のことを知らない、という理由からだと思う。

「知る」っていうのは意味が広い。本名や顔なんかを知っていれば「知る」になるのかといえばそうではないし、なにを持って「知る」ことになるのかはそれぞれだけれど、当時のわたしにとって、「現実世界のわたし」を知らないひとは、わたしのことを知らないひとだった。

 

 わたしを知らない相手だからこそ見せられることはたくさんあった。たとえば小説を書くこと。わたしがはじめて小説(らしきもの)を書いたのはたぶん高校生のころで、家族にも教師にも友人にも、だれにもそれは言えなかった。単純に恥ずかしかったのだと思う。

 本を読むことは褒められたけれど、「小説を書いている」と言えば、根暗だと思われる、仲間外れにされる、思春期あるあるなんだろうけれど、そういう不安がずっとあった(むしろ友人の前で読書をするのも憚られた。学校の子たちはみんなプリクラを撮ったり、かっこいい先輩の話で盛り上がったり、遠出しておしゃれな服を買ったり、そういうことに夢中になっていたし、そうであればそうであるほど人生謳歌のパラメータが上がった。ただmixiで日記を書くこともリア充の証とされていたのは今思えば謎だ)。

 だれにも言えなかったことが、インターネットではとても簡単に言えた。現実ではない虚構の世界だから、「わたし」を特定されないから、馬鹿にされないから(一定数“荒らし”はいたように思うが)、そして同じように小説を書いている「仲間」がいたから。

 今は小説投稿サイトがたくさんあるけれど、わたしが小説を投稿しはじめたときは、多くなかったと思う(「小説家になろう」とかはあったのかも)。ただ検索力もなかったわたしは投稿サイトに辿り着くことができず、出会ったのは学生用のポータルサイトだった。すごくかわいい2chというかんじ。ハンドルネームをつくって、好きなドラマや芸能人、ゲームとかアニメとか部活のこととかただの雑談とか学校の愚痴とか、ジャンルによって掲示板をたてられて、集まったひとたちで書き込んだりする場所だった。そのなかに、小説投稿というジャンルがあったから、そこに投稿してみた。

 

 インターネットはわたしにとってやさしい場所だった。現実世界では馬鹿にされるかもしれないことを、すんなり受け入れてもらえる。だれにも言えないことは、だれかに知ってほしいことだったし、わたしにとって「本当のこと」だった。わたしを知らないひとが、いちばんわたしを知っている。その矛盾にささえられていたようにも思う。

 偽物も本物もないだろうと今なら思うけれど、当時、インターネットに身を寄せ小説を投稿していたわたしは「本当のわたし」を見つけた気がしたし、見つけてもらえた気がした。虚構といわれる世界のなかで、「本当」があるのはとても不思議なことだった。でもきっと、こんなふうに思ったのはわたしだけじゃないはずだから、結局いろんなひとの「本当」が集まってできあがったのがインターネットなのかもしれない。それならもうインターネットは虚構じゃなくて、本当のことだらけだ。表面的な情報のことじゃなくて、深層からくる本当の情報。多くのひとが「自分にとっての本当のこと」を出し惜しみせずに打ち出してくれたから、わたしもそうできたのだろう。

 他者は自分の鏡なんていうけれど、パソコンの画面に映っていた自分は、世界のどこかにいるだれかでもあったのかもしれない。

 

 すこし話は変わる。その小説を投稿していた掲示板には、もちろんわたし以外にもたくさんの学生(自称ではあるけれど)がいて、多くの作品が投稿されていた。不思議と掲示板内でも派閥というかグループみたいなのができあがり(教室みたい)、親しくしてくれたひとも何人かいた。そのなかのひとりの作品で、今でも忘れられないものがある。読んだのは、もう十五年くらい前のことだ。

 タイトルは「やどかり」、書いたひとの名前ももちろん憶えているけれどここでは割愛。彦二という阿呆な少年が出てくる話だった。今まで商業、非商業とわりかし多くの小説を読んできたと思うけれど、その作品がとくに強くこころに残っている。単純にすごくおもしろかったのだろうし、わたしもこんな話を書いてみたいと思った。いま、わたしがぽつりぽつり書いているのは、あの作品から受けた影響が少なからずある。

 現在そのひとがどこでなにをしているのか全然知らないし、すごく勝手に「なにかを書いてくれていたらいいな」と思う。けれどそれをたしかめる術はわたしにはないし、もしそのひとが仮に書く仕事についていたとしても、文章だけで気づけるかといったらさすがに自信はない。ただまたあのひとに会いたいなあと思う。顔も本名も年齢も住んでいるところも連絡先も知らないけれど。虚構の世界で、「本当のわたし」と出会ってくれたひと、「本当のわたし」を引き出してくれたひとに会いたいなあと思う。 

 

 ネットサーフィンという言葉があるけれど(もう死語?)、たしかにインターネットは海だ。途方もない海。わたしはときどきその海を小さな筏であてもなく旅しているような気分になる。文字、写真、動画。いろんな情報で水面ができあがっていて、ある程度のゆきさきしかわからないままただそこを漕いでいる。手が届くところの情報には溺れないけれど、とおくに手を伸ばそうとすると、すこし危ない。いかんせん、わたしは漕ぎ方が下手なのでときどき無理して転覆することもある。太陽に近づこうとして燃えてしまったり(舟が大きければ大きいほど鎮火するのに時間がかかる)。

 手にした情報は、それでもいつか離れて過去の水面になる。別のだれかがそれにふれるかもしれないし、だれの目にもとどまらないかもしれない。そんななかで「やどかり」は、なんだかずっと、筏の端にいてくれている気がする。途方もない海にいても、流れずついてきてくれるものもたしかにあって、それはわたしにとって憶えておきたいもので、指針でもあるのだと思う。

「本当」にふれること、「本当」にふれてもらうこと。温度がないはずの文字に、水を掬うみたいにふれること、ふれてもらうこと。虚構の世界も現実の世界も、どちらも本当の世界ではあるけれど、「ふれあい」は、わたしはインターネットのほうが多かったし居心地がよかった。

 ただその一方で(やどかりのことを考えていたからかもしれないけれど)インターネットは宿でもあるんじゃないかとも思う。宿借り。インターネット上にいる自分が海を放浪しているのなら、現実世界のわたしは海が詰まった箱を宿にして生きている。箱のなかの海は、なるべく漏れ出ないといいな、と思う。隠しておきたいというより(もちろんそれもあるけれど)、そっとしまっておきたい。

 

 わたしは何者でもないから、だれかに影響を与えるということはそう多くない。ただ、何者でもなかったひとが書いた「やどかり」が、今もわたしの筏にあるように、インターネットという広く深い海のような場所で、いつかだれかが漂流したときに、急に現れる小さな島みたいに、わたしが書いた一文を、この先だれかが思い出してくれるといいと思う。

 

 ちなみに久しぶりに件の学生掲示板を検索してみたら今年三月に閉鎖されていた。「やどかり」を読む機会は、おそらくこの先ないだろう。時間が経つにつれ記憶も薄まってゆくと思う。けれどわたしが「やどかり」に出会ったことは虚構ではないし、この先も虚構にならない。

「文学」という言葉は広義的だし、なにをもってして「文学」とするのかはいろんな意見があるところだと思うけれど、単純に、心を動かしてくれたもの、特別なものとしてインターネット文学をわたしが挙げるなら、今までも、この先も「やどかり」であるだろうなと真に思う。

 

 

 

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

 

文學界2021年5月号(悪い音楽・Phantom など)

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 先日8月号が発売されたけれど、やっと文學界5月号を読めた……。まあ1月号とかまだ読めてないんだけど。文學界にかぎらず、さすがに毎月は買えないけれど気になる特集や好きな作家が出ていれば文芸誌を買っている(なによりコスパがよい)。
 いつもたのしみながら読んでいるのだけれど、どの文芸誌もけっこうな読みごたえがあるので、数号遅れてくるのはもう仕方がない。とはいえ時間があまりにも足りなくないか。

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 ただ文學界5月号は、本当は買ってすぐに読みたかった、というのも第126回文學界新人賞が発表された号だからだ。わたしは箸にも棒にも……だったけれど、自分も応募していた賞だったので、やはり受賞作は気になる。しかし読む前から「選評が厳しい」という意見をちょこちょこ見ていて、「ちょっとこわいな」と思っていた。いや自分の作品に言われてるわけじゃないんだから……と思うかもしれないけれど、そこにすら届いていない自分の作品があるのは事実なので、ちょっと勇気が必要だった。


 そもそも自分が出した/出さないにかかわらず、厳しい選評というのは心臓がひゅんってなる。自分の覚悟みたいなものを試されているような気になる(実際、覚悟とかそういうのがないと話にならないとは思うけど)。とりあえずは心臓ひゅんってなる覚悟が決まったので、5月号を読んだ。
 たしかに「全体的に低調」、「消極的な二作」といった言葉があったけれど、予想していたよりはやさしい(という言葉は適切ではない気がするが)選評だった。寄り添ってくれているというか、なんだろう、思ったよりへこたれなかった。むしろ「わたしもがんばるぞ……」とやる気が出たような(選評はときにぽっきり心を追ってくるもの)。


 中村文則さんの以下の言葉がとくに印象に残る。

一度、自分はなぜ小説を書きたいのか、書くことにおいて、生きることにおいて、この世界において、自分の最大の関心と問題は一体何かを、その根本的なことを一度考えるといいのではないだろうか。

 上記は最終選考に残った三作品(うち一作は受賞作品)に対しての言葉だったけれど、小説を書くことにおいてとても重要なことなのだと思う。すでにこの答えをこたえられるひともたくさんいるのだろうけど、わたしはこたえられないし、模索している最中だ。

 そして受賞作、わたしは「悪い音楽」がすきだなあ。

悪い音楽/九段理江

 偉大な音楽を父に持ち、中学校の音楽教師をしている主人公。生徒たちのことを「猿」と認識し、お世辞にも熱心な教師とはいえない。「音楽教師なんかにだけはなるな」という父に反発し(したふりという節もある)、音楽教師になったけれど、生徒の能力を見限っているし、とにかく自分優先で、実際にいたら「あんまり近づきたくないな」という人間だ。
 ひとが悲しんでいる場面なのに筋肉をコントロールできず笑ってしまったり(そのため主人公は筋肉コントロールのトレーニングを受ける)、マッチングアプリを使って若い男性と会い、従順そうな性格だったらホテルに連れ込み、生徒役をさせ芝居を打たせる。芝居の内容は、ルームシェアをしている友人いわく「最低。変態。サイコ教師」。

 

 小説を読むうえで、登場人物への共感性はさして重要ではないと思っているけれど、それでもすこしでも「わかるかもしれない」というのがあると、その作品にわっと近づくことができる。あんまり理解できない主人公だけど、わたしは以下の一節があったから「悪い音楽」をすきになった。

小さい頃から情操教育の一環で美術館にはよく連れて行かれたのだけれど、私はどのような絵画に対しても、好きとか嫌いレベルの単純な感想さえ持ったことがないのだ。たとえば五段階評価で絵画に点数をつけなければならないとしても、私には三以外の評価を下すことができない。感想は常に「どちらでもない」だ。

最低。変態。サイコ教師」ではあるけれど、実はとても凡庸な主人公であり(自分を凡庸だと思い込んでいる/凡庸だと思い込んでいることを含め凡庸)、その単調とした凡庸さが、ある生徒によって崩されていく過程がおもしろかった。次作がたのしみです。

 
Phantom/羽田圭介

 恥ずかしながら実は羽田圭介さん初読み。めっっっっちゃくちゃおもしろかった。文章がすごく読みやすい。プロに対して文章が読みやすい、などというのは不適切な言い方だと思うけれど、作品によっては文字が上滑りするというか、ぜんぜん頭に入ってこないものもあって、これは難解な言葉/表現の使用頻度が高いとかではなく、単純に文体の相性なのか、そもそもわたしの集中力や読解力が足りないせいというのもあるのだろうけれど。とにかく、すごく読みやすくて、内容がしっかり頭に入ってきたのでかなり集中して読めた。
 主人公の華美はとても合理的。株式投資をしており、将来的に自分のお金をどれくらい増やせるかということをつねに考えている。友人から結婚式の二次会に招待されても、それにかかる会費、交通費、三次会まであったときにかかる費用を算出し、そのお金(合計1万2460円)があれば配当利回り5%だとして十年後には1万6289円、二十年後には2万6533円になる……ということを考えて招待を断る(!)

<結婚おめでとう! よかったね、我がことのように嬉しいよ~。
そして、本当に申し訳ないんだけど、その日出張が入っちゃってて……>

 華美が送った友人への断りメッセージ。わたしが打ってるのかと思ったわ。

 

 合理的に、お金を増やすことを考える華美とは対称的に、同じ職場で働く恋人の直幸は、お金をつかわず生きようとするコミュニティ(ムラ)にハマっていく。コミュニティ内では「シンライ」がお金のかわり。だれかのためになにかをしたことによって「シンライ」がたまり、自分がなにかをしてほしいときに「シンライ」を支払う。目に見えない「シンライ」をやりとりする直幸と、こちらも目に見えない財産「株式」を増やそうとする華美。

 

 しかしいざ成長したらどうなるか、リアルな想像はしていなかった。部屋の景観を良くするために買った植物に、自分が住むスペースを奪われ、茎の徒長したアンバランスさも手放しで美しいとは感じられない。じゃあ株でいう損切りのような行為、つまりは燃えるゴミに出したりできるかというと、そんな気にも到底なれなかった。

 部屋に置いてあるストレリチア・ニコライが成長したら、という場面。植物と株の成長を重ねて、結局どちらも邪魔になる、それによって生活が脅かされる、という想像をさせるところがすごくおもしろい。

 

最近の自分には、人からの信頼が足りない。使うべき局面で金を使えない人間は、死ぬ。そこには人間の精神の死も含まれるだろう。自分が人間であるべきかどうか問われているような気が、華美にはした。

 華美はお金を増やす、貯めることを優先としているけど、株式投資のために普段ケチくさい生活を送ったり、友人や直幸からの信頼を失っていくことで、すこしずつ意識が変わっていく。ムラに定着してしまった直幸を迎えに行くため、高いお金を支払い傭兵を雇ってムラに乗り込むところは、華美が今まで積み上げてきたものを崩すことになったけど、なんというか、すごく信頼できる姿で読んでいて気持ちがよかった。わたし自身は株はやっていないけれど、前に株主優待について調べたことがあり、ほんのりと知識があったこともよかったのかも。
 タイトルもいいよね。Phantom。まぼろし


 5月号の文學界では、詩の特集も組んでいて、もっとやってほしい~~!(自分が詩にあかるくないからこういうかたちで知っていきたい)。

雪のように溶ける詩を目指して(高橋睦郎谷川俊太郎対談)

 これも恥ずかしい話なんだけれども、本当に詩にふれてこなかったから、谷川俊太郎さんの詩もあまり知らないし、中学生のとき「春に」を合唱したのがいちばん作品に近くなった出来事なんじゃないか……。掲載されていた対談と「なぜ生きる」を読んで、つめたくないけどやさしくないというか、寄り添わないけれどそこにいてくれるというか、ちょうどいい塩梅の距離上にある作品だと思った。

いのちに理由はない
喜怒哀楽があるだけで十分だ

 諭されること、説かれること、がわたしはあまり得意じゃない。そういうのを感じ取ると、ただちにそっぽを向いてしまう性格をしているのだけれど、「なぜ生きる」、ちょうどいいところにいてくれるなあ。


異界の創造、ことばの矢印(最果タヒ・マーサ・ナカムラ対談)

 このお二方の作品も読んだことが……なく……。対談のなかに出てきた最果タヒさんの「グッドモーニング」が気になる。

(前略)「わたしは考えるとき文字にしなければいけないと思っています/やじるしをつなげていったりすると/たいへん考えることは面白いです」から始まる。一行書くと次の行が出てきて、そこに文脈が発生して、でもその文脈って自分の意図したものではなく、予想外のところに飛ばしてくれるもので。それに押し流されるように書いていると楽しいと思えます。(対談内、最果タヒさんの言葉)

 やじるし、素敵!


 あとは青木耕平さんのエッセイ「息子よ安心しなさい、あなたの親指は天国で花となり咲いている」がおもしろかった。こういうエッセイが好きなんですよ。わたしもこんなふうにブログ書いてみたい……。

 

 

 そんなかんじで取り留めなく書き、そして取り留めなく終わる。

 

 

夫に呪術廻戦のネタバレをされてもしもバンドを組んでたらマジ即解散案件レベルな話

 表題のとおりである。夫に呪術廻戦のネタバレをされて怒っているという話である。
「なんだか最近流行っているらしい」という情報と、「五条悟はすごい人」という知識くらいしかないわたしが、アマプラでなにげなくアニメを観はじめたときの話である。ちなみに現状シーズン1の12話までしか観ていない。
 夫にネタバレされた出来事がいつごろの場面になるのかはまったくわからない。最新話に近いところなのか、それともわりと序盤の出来事でファンの間では周知の事実になっているのかまったくわからない。だからアニメシーズン1の12話以降を観ていないという人はもちろん、原作の最新話まで読んでいないという人も、この先はとても危険であるからこの記事を読まないほうがいいと思う(夫はジャンプを読んでいるっぽい)


 ネタバレされてしまったことにより、さらなるネタバレを恐れて「呪術廻戦」というワードで検索することすらできなくなったわたしなので、マジでアニメシーズン1の12話(+夫からのネタバレ)までの知識しかないから、もしかしたら事実と違うとか、キャラクターの漢字が違うとか、あるかもしれないけれど、検索にビビりすぎて確認できないのでなんか間違えていても許してほしい。

 

 わたしはもともとそんなにネタバレに対して怒るような人間ではなかった。生きていればどこかでそういうことに遭遇するし、悪気なくぽろっと発言が飛び出ることだってあるし、そもそも大人になってからアニメとか漫画にのめりこむことも少なくなったし、読んだり観たりするなら一気に読みたい/観たい精神なので、ネタバレが入り込むすきまをなくしていたというのもあった。
 昨年、鬼滅の刃が流行り、親にすすめられてアニメを観たらものすっごい映像きれいで感動して、日本のアニメすげえ……とはじめてジャパンカルチャーに触れた人みたいになって、とりあえず流行っているものは時間が許すかぎり観てみようと思って今回の呪術廻戦である。
 夫から見てわたしは、そういう、「アニメに興味なさそう」な人間だったのだろう。だからたぶん、ネタバレしてもそんなに気にしないだろうと考えていたに違いない。でもそう見えなくても、わたしはのめりこんだら実はのめりこむタイプなのだ。ここからわたしが受けたネタバレの全貌を書くので、やばそうな雰囲気を感じ取ったらブラウザ閉じて。責任取れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アニメ3話を観ていたときである。最初わたしはひとりで視聴していた。そこにのんべんだらりとやってきた夫。
「呪術廻戦観てるんだ」
「うん。おもしろいんでしょ?」(そういえば夫は昨年から呪術廻戦おもしろいよと言っていた)
「のばら出てきた?」
「ちょうど出てきたよ!この子でしょ」
「のばら死ぬよ」


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 ひどすぎないか? 健やかなるときも病めるときも喜びのときも悲しみのときも愛し尽くすことを誓い合った相手に対してあまりにもひどい所業じゃないか? 虎杖の仲間が増えるんだ~! かわいい子だ~! とわくわくしていたわたしに対してそんなこと言える価値観どうなってるの?
 脳が理解するのを拒否するという事象は本当にあるのだと思う。わたしはそのとき、防衛反応なのか「嘘言ってるんだな」と自分に言い聞かせた。すると、本当に嘘のように思えてきた。
 のばらは見た感じメインキャラクターである。NARUTOでいう春野サクラ鬼滅の刃でいうと善逸とか伊之助とか禰豆子といったキャラたちと同じ立ち位置にいる。死ぬわけなかろう。あんなに柱が死んでしまった鬼滅の刃でも、この三人は死ななかった。いやメインキャラクターじゃないから死んでいいってことはないんだけど、でも、なんというかメインキャラクターだから死なないよねという謎の安心感があって(るろうに剣心の薫だって死んだと見せかけて死んでなかった)、そして心の準備というか、たぶんこれからどんどん好きになっていくキャラのひとりだと期待させる登場の仕方だったし、実際3話を終えて「のばら……イイネ!」と思っていたのに……あまりにも非情なネタバレであるけど、わたしはまだ信じていない。伊黒さんが煉獄さんの死を信じていなかったように、わたしも……信じない。

 

 信じないまま引き続きアニメ視聴である。五条悟はやっぱりすごかった。なんか強そうな敵に襲われても「街角アンケートレベル」と答えている。かっけ……っ。しかしかっこよすぎるのである。狙いすぎである(好きだが)。領域展開したとき素顔あっさり出したけどかっこよすぎだろ。カカシ先生だって全然顔出さなかったのにめっちゃあっさり素顔出してくれるやん。しかしとはいってもわたしは断然ななみん推しである。ななみんカッコイイ、おとなである。冷静沈着。まひとマジむかつく。でも最新話まで読んでいる方ならきっとこのあとの展開を察するだろう。夫はまたしてもネタバレをしてきたのである。

 ななみん登場時の夫、なんかうれしそう。

 

夫「お、ななみんだ」
わたし「いい人?」
夫「すごくいいやつだよ!」


 夫はこのキャラが好きなんだな~なるほどな~いいやつなのか〜たのしみだな〜!と思っていたら「まあ死ぬけど」という非人道的な、余りに非人道的な一言が放たれたのである。


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 えっおかしくない? なんですぐ死ぬこと言っちゃうの? いやネタバレを絶対に絶対に絶対にするなとは言わないよ言いたくなるときあるし気持ちを共有したいというか伝えたいこととかってあるし多少の展開を言うのはさ、いいよもうわたしだって大人だしいちいち怒らないけど、死ってけっこう、なんというか、大事なところというか、軽々しく知ってはいけないというか、たしかに命あるものいつかは死んでしまうけれど、わたしもあなたもみんな死んでしまうけれども、死が万物の確定事項であっても、言ってはいけないこともあるよね? わたしが8話とか9話の時点でななみんの死を知ってしまうのは「正しく」ないよね!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?
 
 信じない……ようにしたがななみん、観ていると(いや、そう言われたからかもしれないけど)めちゃくちゃ死にそうなキャラである……。たぶん無茶した虎杖をかばって死んじゃうとかきっとそういうのである……、それできっと今際の際に虎杖に大人なアドバイス的なことを言ったりするんである……五条悟に対して憎まれ口っぽいことを残すのである……(死の詳細は聞いていないから全部予想)。ななみんが出てくるたび「かっこいいなあ!」と思うが、同時に「いつか死んでしまうんだ……」というあまりにも複雑すぎる心境になって、どんな顔してななみんを観ればいいのかわからなくなる始末である。
 
 推しが死ぬとわかっていて、これ以上どんな気持ちで続きを観ればいいのだ。

 

 続きを観たいのに続きを観るとななみんが死んでしまうというどうしようもできない運命にわたしは今抗っている。覚悟を決めているのだ……。いつ死ぬかはわからないので、ななみんが出てくるたび「この話か…っ? いや次回なのか…!?」みたいな気持ちでいなければならない。


 極めつけは「五条悟やばいね!強すぎ!」と領域展開に興奮したわたしに夫が放ったこの一言である。

 

「でも封印されちゃったからな~」


 うおおおおおおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーいそういうこと言うなよ~~~~~~~~~~~~~~なんでそういうこと言っちゃうんだよ~~~~~~~~~~~~~~価値観の違いが甚だしいんだが~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!! わたしと夫でバンドを組んでいたとしたらこの場で即解散レベルである。


 この悲しみをわけあいたくて、そういえばわたしの家族が呪術廻戦の話をグループラインでしていたから、夫にネタバレされたことを報告したが、いったい家族がどこまで知っているのかわからないからその内容を言えないのである。しかしそこは心強いわたしの家族であった。

 

妹「べつに私は聞いてもいいけど(笑)」
母「私はネタバレ恐れてない」
原文ママ

 

 なんて余裕のある心強い一言であろう。父からの返事はなかったが、わたしは二人を信頼して、のばらとななみんが死んでしまうことを伝えた。余裕ぶっこいてた二人はしかしめちゃくちゃショックを受けていた。

 

母「ごめん、聞きたくなかった」
妹「つらすぎ」
原文ママ

 

 ……こちらこそごめん。すべては夫のせいだが、余裕の姿勢があまりにも脆すぎないか。
 でも母は「穢土転生あるよね?」と言っていた。穢土転生あるの?

narutonti.com


 そんなわけでかなしきネタバレによってわたしは今負の感情が溜まりまくっている。怒り、憎しみ、疑心……これ今なら呪力あるんじゃないかというくらいだ。なのでわたしはこの呪力を使い、「ハンターハンターが連載を再開しても自分だけ読めない呪い」を夫にかけようと思う。

読書遍歴(2021年上半期)

 なんと今日は6/30、つまり一年の半分が過ぎたということになるわけだけれども、多くの大人たちが説いている「歳を重ねるたび時間が経つのが早くなる」論、まっさか〜それ言えば大人になると思ってるんでしょあたいは信じないと決めていたのに、つい「去年よりも時間経過が早い気がする」と論じてしまう。

 めくるめかないけど瞬く間に過ぎていった半年、きりがいいので読んだ本を振り返ってみようと思う。ちなみにわたしが読書管理に使っているアプリが「Readee」、めちゃくそ便利なので使って!!

readee.rakuten.co.jp

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 記録によるとこの半年で読んだのがこちらの本、わたしは小説ばかり読んでいるけれど、詩歌も知ってゆきたい思いがある。ただどこから手をつければいいのかわからないので、好きな作家が紹介していたりするのから読んでいて、それで出会ったのが「キリンの子」(鳥居)。

www.kadokawa.co.jp

街角のポストのなかに隣り合うかなしい手紙やさしい手紙

これからも生きる予定のある人が三か月後の定期券買う

 詩歌の感想ってすごくむずかしいので書けないのだけど、引用した一首がすきならぜひよんで……。

 

 そしてこの半年で読んだなかでわたしのトップに君臨しているのが「コンジュジ」(木崎みつ子)。第44回すばる文学賞受賞作、第164回芥川賞候補作。感想を書きたいと思いながら読み返す勇気がいまだ出ない、この気持ちを知ってほしいのでぜひ読んで……。

books.shueisha.co.jp

 

 あとずっと読まずに放置していた「ドグラ・マグラ」(夢野久作)意を決して読んだけど、意味わからなくて読んだに入っていない気がする……。文字追ってただけのような、これはよくわからなかったよ。みんなわからないって言ってるけど本当にわからないでいいんだよね!? 世界一わかりやすいドグラ・マグラの解説あったら教えて……。あと精神状態はとくに変化しなかった(理解していないから!?)

www.kadokawa.co.jp

 

 2021年本屋大賞を受賞した「52ヘルツのクジラたち」(町田そのこ)、ひさしぶりに小説読んで素直に感動して泣いてしまった(しんどくて泣くことはときどきある)。わたしはわりとドライな小説というか、温度感の低いものを好む傾向にあり、ザ・物語な小説を避けていたところがあるんだけれども、読んでよかった一冊。創作にはさ、(多義的に使いたい)愛が必要なんだよ……。

www.chuko.co.jp

 

 そして「消滅世界」(村田沙耶香)やべーから読んで……。並べられている赤ちゃんたちのことを「膨張した精子そのもの」と表現しているんだよ。す、すげえこと言うなあ……。わたしディストピア小説好きなんだな……。いや、たぶんユートピアとされているディストピアディストピアとされるユートピア?)が好きなんだな……。

www.kawade.co.jp

 

 あともうすでに多くのひとが「スモールワールズ」(一穂ミチ)読んでいると思うけど、きてるね……! 直木賞候補作にもなり、本屋大賞にもノミネート確実だろうし、「愛を適量」のタイトルからもうセンスやば……読んで……。

bookclub.kodansha.co.jp

 

 6月に入ってなんか急に太宰治全集を読んだ。今までも好きな話を読み返すことはあっても、一巻から十巻まで一気に読んだことはなく、(さすがに疲れるかな……)と思っていたら、ぜ、全然つかれない……! わたしやっぱり太宰治すきなんだ……! 全作読み返したら、斜陽日記(太田静子)も読みたくなって、しかしもうなかなか手に入らないのね、メルカリで買った。山崎富栄の「雨の玉川心中」、こちらもまったく手に入らないから青空文庫で読み、むかーし買っていたユリイカ太宰治記念号(98年発行)もたいへんたのしく読めた。ただこの二つはアプリに画像が出てこない(古いから…!?)あとは坂口安吾いこうと思う(昔の昔、白痴を読んだ記憶があるが、たしか挫折した。本棚にカバーもなにもない状態でささっている)。

www.chikumashobo.co.jp

www.shogakukan.co.jp

www.aozora.gr.jp

 

www.seidosha.co.jp

 

 そしてわたしが今もっとも推している「ブラザーズ・ブラジャー」(佐原ひかり)、推しているからいろんな感想読みたくてブラザーズ・ブラジャーと検索しまくっていたらついに最近の広告はブラジャーばかりになった。今度ワコール行ってくる……。

www.kawade.co.jp

 

 まだまだ積読がまさに山のように積み重なっているので、下半期も引き続き読書してゆくぞ〜!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

隠したいこと、隠さないこと(ブラザーズ・ブラジャー/佐原ひかり)

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 ここ一カ月ほどたのしみに、とってもたのしみにしていた本がやっと手元にやってきて、夢中で読んだ。

 

ブラザーズ・ブラジャー/佐原ひかり
すごくとりとめのなさそうな感想になりそうですが、とにかく愛を、愛をこめて感想を書く……!!!(すごくネタバレします)

www.kawade.co.jp

 とびら、とびらの紙が……!!
 レースみたいですてきだし、この檸檬はなんだろうと思っていたら書き下ろしの「ブラザーズ・ブルー」で判明。ひゃあ~~~~~~~すき……

 父の再婚によって新しい母と弟と暮らすことになったちぐさ。ある日ちぐさは中学生の弟が自室のなかで女性用のブラジャーをつけているところに遭遇する。
 ちぐさは、なんというか、ひとを傷つけないように生きていて、同時に自分が傷つかないようにも生きている。悪意はないけどその場をおだやかにたたむために嘘もつく。でもいつも嘘をついているわけじゃない。本心も話しているけど、でも、多くのひとがそれをおそれるように、本心のさらに奥にある気持ちは口に出さないようにしている。
 
 隠したいこと、隠していること、隠せないこと、隠さないこと。「ブラザーズ・ブラジャー」を読んでいると、「隠す」ことについて思考がめぐる。
 たとえば彼氏の智くんは、隠せない。

 

 なんでもないようにさらりと言ったけれど、手は汗ばんでいるし、力が入りすぎている。親切心の下から漏れ出すもろもろを、隠し切れていない。ほんとうに、考えていることが丸わかりだ。

 

 勉強を口実にちぐさを家に呼ぼうとするが、下心が見え見え。対してちぐさは、智くんと「そういうこと」になっても「まあいいんじゃないか」と思う。ただちぐさにとって問題なのは下着、智くんをがっかりさせないような下着を持っていないため、誘いを受けられない。そういう本心を、ちぐさは隠す。
 弟の晴彦は、隠さない。ちぐさにブラジャーをつけているところを見られても、「ファッションでつけている、ブラジャーはおしゃれ!」と自分の気持ちをそのまま告げる。だけど本当は、晴彦にも隠している本心というのがきっとあって、それは「男がブラジャーをつけるなんて変」という「多数」の意見があるということをわかっているから、できないことや言えないことなんかがあって、堂々としているように見える晴彦にもこわいことがたくさんあって、だから晴彦はすごく、すごくいとおしいのだ。
 ちぐさはひとを傷つけないように生きている。晴彦の部屋で、ふたりしかいない空間で、ちぐさはブラジャーを好きな晴彦を認めた。だけど晴彦とブラジャーを買っているところを友人に見られたときに、ちぐさは晴彦のことを「妹」と言ってしまう。そのずるさは、きっと多くのひとが持っているずるさで、でもちぐさはそんなずるさを本当の本当は憎んでいることもわかる。
 ブラジャーをつけている晴彦が、晴彦のほんの一面だけでしかないこと、見えなくても、隠している部分も、ぜんぶふくめて晴彦だったりちぐさだったりすること、そういう、わかっているようでわかりづらいことに、ちぐさとともに近づいていっているような、自分がすごくだれかのことをいとおしく思えるような、読んでいるときはそんな感覚がした。

 晴彦はやさしい。つめたい態度をとるけど、やさしい。晴彦はくつべらを使って靴をはいたり、サイズが合っていないズボンを自分で裾上げしたりする。とても丁寧になにかを扱う男の子だ。ちぐさのずるさが晴彦を傷つけてしまったあと、ちぐさが傘をなくして雨のなかずぶ濡れで帰る場面がある。そのとき、濡れたまま置いてあったちぐさのローファーに、晴彦が新聞紙を詰めてくれる。そのやさしさに、なんか胸がいっぱいになった。くつべらを使ったり裾上げをする晴彦のやさしさ。
 結局ちぐさは、いろんなひとを見くびっていた。見くびってなんかいないふりして、自分を下に置くふりをして見くびっている。まわりは案外、そういうの気づいてしまうんだよね。でもそうやって見くびっているだろ、ってちぐさに対して晴彦が思っていてもさ、ローファーに新聞紙詰めてくれるんだよ。晴彦……だきしめたいよ。

 ブラジャーをつける晴彦を理解するのが「良い人」の条件。今、わたしたちはいろんな多様性への理解や受け入れを求められていて、もちろんいろんなひとが住みやすい/生きやすい社会になればいいってわたしも心から思う。けれど悪気がひとかけらもなくても、差別なんかする気がさらさらなくても、理解や受け入れるのに時間がかかることだってある、そして、理解しないとという強迫観念に似た義務感みたいなのはたぶん違うんじゃないかって思う。
 ちぐさは、最初は「理解しないと」という義務感だったのかもしれない。(そういうふうに教えられてもいるだろうから)。ただ、ちぐさが晴彦と「仲良くしたかった」のは隠しようがない本心で、その本心が晴彦にもつたわるといい。晴彦は本心を言ったちぐさに対して「妹だって言ったくせに」と、きっと本心、自分が傷ついたことを言ってくれたよね。終盤、ちぐさが晴彦に対して以下のように思う場面がある。

 

泣かせたくないと思うけれど、泣けばいいのにとも思う。泣けばいいし、怒ればいいし、それよりもっと、笑えばいいし、よろこべばいい。

 

 これはもうさ、愛だよ。「良い人」になろうとしての気持ちじゃないよ、晴彦に対する愛だよ……。

 ちぐさと晴彦の関係になにかしらの名前をつけて分類したりするのはナンセンス。でもふたりの、ふたりだけの関係を、ゆっくり構築していってほしいと願わずにはいられない。

「ブラザーズ・ブルー」はそれからすこしだけ時間がたったあとのお話、晴彦の父親が出てきたり、ちぐさたちの関係性が、さらにいとおしいものになってゆく。

 

ピントが合うように、ありようがはっきりとわかる瞬間がある。今がそれだった。

 

 不思議と、ひとと対峙しているとき、こういう瞬間ってほんとうにあって、この瞬間というのは、信頼関係がすこしでもないとおとずれないものだとわたしは思っている。この一文で、ちぐさと晴彦の関係性が垣間見えて……うれしい……!!

 終盤、ふたりで海を見ている場面。

 

瞳に、海が映っている。
その海が目のふちからあふれる寸前で、こちらに向き直った。

 

 う、うおおおお~~~~~~~~~~~~(感動)
 このうつくしい描写、晴彦がこのときなにを思っているのか、も~~~いとおし……見えているものだけがすべてじゃないよ、ほんとうにさ……。

 

「ブラザーズ・ブラジャー」は第2回氷室冴子青春文学賞の大賞作品。受賞時のタイトルは「きみのゆくえに愛を手を」とされていました。
 わたしはこのタイトルもすごくすきなのですが(ちぐさが晴彦へ愛/手をさしのべる、という印象の終わり方でした)、でも今回、ブラブラとブラブル(と略してもいいのだろうか……)の二編を読んで、晴彦も愛を持とうとしてくれていて、うおおおお~~~わああああああ~~~~~~~~~~~~ん(感動)


 ブラジャー、かわいらしいレースやお花の刺繍、つやんつやんの色気のある生地とか、ナイトブラとか、とにかくいろんなものがある。思春期のころ、わたしはブラジャーを恥ずかしいものだと思っていた。なんだか、はずかしいものだった。思春期といったけど、ほんとうは大人になってもちょっとはずかしかった。「胸を隠すもの」という意識があったのかもしれない。そして最近のわたしはユニクロのブラトップの楽さを知ってしまい、ブラジャーにまったくこだわらなくなりクーパー靭帯どうなってんの状態なんだけれども、でも、ブラジャーって、たしかにかわいいのだよ、かわいいからはずかしかったのかもしれない(ザ・ブラ!なマスクはどうしても抵抗感があるんだけど)。ブラは隠すものじゃなく、支えたり、たのしんだり、するものなのかも。

 自分の好きなもの、わたしも大事にしてゆきたいと心から思える一冊でした。

 

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