今日もめくるめかない日

いつまでも、ずっと美しい子供(クララとお日さま/カズオ・イシグロ)

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 実はカズオ・イシグロの作品を読むのははじめてで、もちろん名前を知ってはいたけれど、なかなかタイミングが合わずのままできて、今回「クララとお日さま」を手に取った(すごくネタバレ含みますので未読の方はご注意ください)。

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 最初に言うと、終盤の展開でめちゃくちゃ泣いてしまった。読み終わった今、怒涛のクララロスである……。また最初から読めばクララに会えるのだけれども、一回目に読んだときに会ったクララにはもう会えないというか、俯瞰的に見ることのない「はじめてのクララ」、それはたぶん、わたしにとってもはじめて出逢うAFになった。だから今、喪失感があるのかもしれない。

 

 主人公(語り手)はクララというAIロボット、作品内では「AF」(Artificial Friend/人工ロボットの友達)と呼ばれており、子供たちの友達として開発されたもの。仲間のAFとともに店先に並べられ、買われるまでショーウィンドーから街並や人間を観察する。子供たちは気に入ったAFを買ってもらい、家に連れ帰り、友達としてAFと過ごすのだ。

 クララが出逢ったのはジョジーという少女で、ふたりははじめて顔を合わせたときから惹かれ合う。クララを選んだジョジー、ジョジーに選ばれたかったクララ。その願いが叶って、クララはジョジ―の家に住むことになる。
 ジョジ―の家に住むのは母親と家政婦のメラニアさん。そしてお隣の家にはジョジ―と仲良くしている少年リックがいる。ジョジ―、母親、リックたちをメインとして、クララは多くの人たちとかかわりを持ち、それぞれがどんな思いを抱いているかを観察し、そして友達であるジョジ―のためを思って、つねにクララが思う最善の行動をとろうとする。


 語り手がロボット、と聞くとちょっと無機質なイメージを抱くかもしれないけれど、まったくそんなことはなく、クララはとにかくやさしく美しい子供である(解説でも「美しい子供」と評されていた)。感情豊か、というとまたそれは違うような気もするのだけど、ジョジ―たちが悲しまないように自分がどうすべきなのかを考え行動するクララに、無機質という言葉は到底似合わない。

 

 作品内ではAF同士の格差(クララは優秀だけれど型落ちモデル)、人間同士の格差(「向上処置」を受けられる子ども、受けられない子どもには大きな差があるとされている)や、親のエゴなどがクララの目線で描かれる。たぶん人間だったら否定的な意見がうまれるところであっても、クララは否定しない。ただ、だからといってなんでもホイホイ受け入れるというわけでもない。クララはいつも考えてから発言する。そして決して自分を優先しない。

 クララはジョジ―のAFだから、なによりもジョジ―、そしてジョジ―の大切な人たちのことを優先する。それがクララの務めであって、そしてクララ自身がしたいことだ。

 ジョジ―は病を抱えており、もしかしたら長く生きられないかもしれない、と思われている。実はジョジ―には姉がいたのだけど、その姉も幼いころに亡くなっており、母親はジョジ―までいなくなったら耐えられないと考えている。もしジョジ―がいなくなったら、と母親が想像していることをクララは知り、同時に自分がジョジ―の家にやってきた本当の意味を知る。
 母親はクララを買う前から「ジョジ―の歩き方を真似できるか」といった質問をしており、つまりそれは、ジョジ―がいなくなったあと、ジョジ―になりきれるか、ということだった。
 その計画を知ったとき、クララはだれのことも責めず、もし自分がジョジ―になることがあるならそうなろうとし、けれどそれでいて希望を捨てなかった。クララはジョジ―が治ることを信じている。クララの希望はとにかくお日さま。お日さまの力を借りれば、ジョジ―はきっとよくなるのだと信じている。
 あんまりにも純粋なクララに何度も胸を打たれる。たんじゅんな「美しい自己犠牲」とは違う。クララはロボットだけど、どんどん人間のことを学んで学習して、でも人間みたいになるわけじゃない。ひたむきで純粋。あくまでもAFなんだけど、AFだからこそ、ずっと美しい子供のままなのだ。

 

 AFは、子供のためのロボットである。大人にAFはいない。子供は大人になっていくけれど、AFはいつまでもAFだ。そしてすべての子供とAFが良好な関係を続けられるわけじゃない。
 ジョジ―は無事大人になることができた。それはクララのおかげであると思うし、でもクララだけのおかげじゃないとも思う。そしていつも一緒に遊んでいたお隣のリックも大人になった。昔将来を約束した二人は、今はもう別々の道を歩もうとしている。たぶんそれは、わりと当たり前のことだ。
 クララとジョジ―はたしかに最高の関係を築いたのだと思う。けれど子供が幼いころに遊んでいた玩具にいつか飽きてしまうように、もう必要なくなるように、クララはジョジ―にとって必要がなくなっていく。けれどクララはだれのことも責めないし、最後、廃品置き場でそれまでの記憶を整理しながら、「わたしには最高の家で、ジョジ―は最高の子です」とかつて一緒に店にいた店長に伝えている。クララが言うことは、ぜんぶ本当のことだ。クララは強がったり嘘をつく必要がない。そしてクララは本当にジョジーたちから愛されていた。廃品置き場にいるのも、「捨てられた」のではなく、「引退させた」から。


 子供は大人になって、いつかクララのことを忘れてしまうのかもしれないけれど、クララはきっとだれのことも忘れない。クララだけが、いつまでも子供のまま、美しいまま。人間のことをたくさん学習しても、ずっと美しいままだ。

 クララがジョジ―になるかもしれないという可能性があったとき、ジョジ―のすべてを真似することはできない、心のぜんぶを理解することはできないはずだということを言った人がいた。けれど一方で、ジョジ―の中には継続できないような特別なものはないと言った人もいた。
 知能が高くてなんでも学習するAFは、たしかに人の心を近いところまで模倣することができるのかもしれない。クララだったら、ジョジーになれたのかもしれない。けれどクララは最終的にこう結論を出した。

 

「特別なものはジョジ―の中ではなく、ジョジ―を愛する人々の中にありました」

 人の心がないクララのほうが、よっぽど心を理解しようとしている。けれど「ジョジ―を愛する人々の中」に自分は含まれていないような言い方がせつない。クララはたしかにジョジ―たちを愛していたし、「特別なもの」はクララの中にもあるはずだ。


 大人になっていろんなことを忘れていったり変わっていくのは決して悪いことではない。けれどやっぱりずっと変わらないものがあればいいのにと、どうしても思ってしまう。思うだけでは、変わらないものを持ち続けることはできないとわかっているけれど。