今日もめくるめかない日

本の話をする

 会社で友達つくりたい、つくってこそ!なんてことは思わないけど、気の合う人と出会えるならだいぶ気持ちが助かる。昨年転職した会社は大きめで社員もまあまあいるので本読みのひとりやふたりいるだろうと思い、休憩中に自席で本をひろげてみたり鞄の口を開けて持ち歩いている本をみえるようにしてみたりなど、ちょこちょこっと小細工をしていたら見事に釣れた。

「こないだ鞄の中がみえちゃったんですけど」と話しかけられ一気に会話が弾んでいまはもう勝手に親友と思っているふしがある。ひとまわり下の男の子で、もちろん年齢も性別も好きなものの前ではまったく関係ないのだけど、予想外なところからきたという驚きと喜びでそのときはたぶん互いにオタク特有の早口になっていた。

「なんかミーハーな感じで文藝は買ってるんですよね」「最近の芥川賞なにがよかったですか」「下北沢のエトセトラブックスおすすめです」「か、川野芽生を読んでる!?」「い、い、今村夏子を!?」「ヒカリ文集を読んだとな〜〜〜!!??」などなどネットにしか存在しないと思っていたような人としゃべっているのが不思議でしょうがなかったし、私はあのときネットで名乗っている「村崎」状態になっていた。まさかアンソーシャルディスタンスと反出生主義という言葉を口に出して言うとは思わなかった。

 そこから本の貸し借りなんかをしたりもして、それも別に貸してとか言ってないのに勝手に互いに持ってくるという「とにかくこれを読んでくれ」という互いの意思が強すぎて笑った。

 

 そんな感じでかなり気の合う人と出会えたなあ奇跡だなあと思っていたら、最近入社してとなりの席になった人がこれまたネットにしか存在しないと思っていたような人で驚いている。

 単純に休憩時間ひまなので本は読んでるんですけど、件の人がなに読んでるんですかと話しかけてくれて、そのとき私は、なんというかもっとわかりやすいものを読んでいればよかったんですけど、「すばる」を読んでいた。すばるの表紙をみせて、ご存知ですか…と聞いたら「あ、わかります」とあっさり返ってきたので「!?!?!?」

 しかもそこから「私もそういうの読んでましたよ。ユリイカ毎号買ってました」と言われてさらに「!!??!?!?!?」だった。

 ユリイカを毎号?よっぽど興味のある特集じゃないと買わないユリイカを毎号?さらに「現代思想も読んでました」ときて、いま私はネット上にいる?と現実を疑った。

 そっこうで親友に報告すると「ぼくはユリイカ一冊しか持ってないですね…」と言われて、いやそもそも同じ島内にユリイカ持ってる人が三人あつまってるってけっこう奇跡じゃない?それとも私が知らないだけでけっこうみんな買ってる?

 

 となりの人は小説というよりは哲学書や詩を読んだりするらしく、私はまったくあかるくないジャンルなのでいろいろ教えてもらえて本当にありがたい。とつぜん「絶版だけどどうしても読みたい炮烙の刑という本があるんですよ」と言われてググった。炮烙の刑……なんかとんでもない刑が出てきて昼間の社内でこんなことを調べてウワ〜へへへ…とかやってる私たち最高に気持ち悪かったしその気持ち悪さが最高だった。

 

 いろいろ互いの好きな作品を教え合ったりするんですけど、となりの人の信頼できる大きなポイントがひとつあって、彼女は「美しい」という言葉で作品を表現する。海外の詩人はどこから入ればいいのかなと聞くと、「入りやすいのはイギリス、でも幻想的で美しいのはやっぱりフランス」、また映画も教えてくれるんですけど「この映画は本当に美しいですよ」と言っている。

 美しい、って案外口にしなくないですか、文章にすることはあるかもしれないけど、恥ずかしがることもなくなにかを美しいと言えるのってすごくいいなと、その人の話を聞いて思った。

 

 ネットにいる人だって当然存在しているのだから、こういった人たちに出会うことだってそれは不思議じゃないけれど、でもやっぱりなんだか不思議な気持ちになる。あと自分がちゃんと好きなものを言えるようになってよかったとも思う。読書が好きだと言ったとき、自分がどれだけ好きなのかを説明できない、たとえばこの作家は読んでる?と聞かれたときに読んでいなかったら恥ずかしい気がする、程度が知られるのがいや、とかそういう小さいことを考えて、素直に読書が好きだと言えない時期もあったんだけど、いまは知らない作家は素直に知らないと言えるし、あの作品は読んだけどいまいちわからなかったと正直に言えるようになってきた。逆にネットのほうが私は見栄を張ってしまうかも。

 私の知らない/わからないを大も小もなくまったくふつうにとらえて話してくれるふたりとの会話は私にとって美しいものであると思う。