今日もめくるめかない日

歩きスマホとそれをよけてあげる人(いい子のあくび/高瀬隼子)

「心」は物体ではないけれど、たしかにかたちがあると思う。それも決まったかたちじゃなくて、接する人によって変わる。それはつまり社会で生きていくための処世術なんだけど、あれ、じゃあ「本当の私」ってなんでしたっけ……? とかときどきふと考えちゃう人、きたよきたよ。違和感を惜しみなく描いてくれた高瀬隼子さんの「いい子のあくび」がきたよ。

 

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芥川賞受賞第一作。
公私共にわたしは「いい子」。人よりもすこし先に気づくタイプ。わざとやってるんじゃなくて、いいことも、にこにこしちゃうのも、しちゃうから、しちゃうだけ。でも、歩きスマホをしてぶつかってくる人をよけてあげ続けるのは、なぜいつもわたしだけ?「割りに合わなさ」を訴える女性を描いた表題作(「いい子のあくび」)。

郷里の友人が結婚することになったので式に出て欲しいという。祝福したい気持ちは本当だけど、わたしは結婚式が嫌いだ。バージンロードを父親の腕に手を添えて歩き、その先に待つ新郎に引き渡される新婦の姿を見て「物」みたいだと思ったから。「じんしんばいばい」と感じたから。友人には欠席の真意を伝えられずにいて……結婚の形式、幸せとは何かを問う(「末永い幸せ」)ほか、社会に適応しつつも、常に違和感を抱えて生きる人たちへ贈る全3話。

 

 スマホを操作しながら自転車に乗ってくる男子中学生が前方からやってくる。語り手の直子はそれをみて「ぶつかったる」と思う。そして実際に避けずにぶつかる。中学生は体勢を崩してよろける。そこに車がやってきて中学生が軽く轢かれる。
 このような冒頭ではじまるんですが、悪いのは車で中学生を轢いたおばさん? ながら運転をしていた中学生? それともながら運転をしているとわかっていながらよけなかった直子? といきなりもや~っとする疑問を躊躇なくぶち込んでくる「いい子のあくび」は、いろんなことが「割に合わない」と思っている人にとことん刺さる作品です。

 歩きスマホをしている人はぶつかる相手を選んでいる。一瞬だけ顔を上げて、ぶつかってもいいと思う相手ならそのまま歩く。そんな人たちをよけて「あげる」直子。割に合わない。だから「よけない」ことにした直子だけど、よけないことで起こるさまざまな悪意、現象があまりに理不尽すぎて、ぞわっとしました。
 普段口には出さないこと、あえて言語化してこなかったこと、でも確実に自分のなかに積もっていた違和感や不満を高瀬隼子さんはおそろしく見事に描いています。

 

「うそ、当たった?」
 と中学生を指さしながらわたしの方を向いて聞いてきたので、頷く。うそもなにも、ぶつかったのが分からないはずもないのに、目を丸くしている。
(中略)
「止まる直前で、ちょん、て感じでしたけど、ちょっとだけ当たってました」
 うそ、とおばさんが繰り返す。うそ、って言うのがきっと口癖なんだろう。全然うそじゃないことが分かっているのに反射的に「うそ」って言う人。うそじゃないよ、と周りの人たちが言ってあげてきた人。

 仕事とかで、なにか間違いを指摘したとき「うそ」とか「ほんとですか」って言われることがよくあるんですけど、そのたびに「うそじゃないよ」「ほんとだよ」って言っちゃって、なんかそんな些細な会話のやりとりにいちいちイラついたりはしないんですけど、でも毎回うそじゃないよって言うのって案外ストレスがたまって、結局イラついてるんだ、ってこの一節を読んだとき思いました。流せばいいんだとも思うんですけど、うそじゃないよって、なんでわざわざ言っちゃうんだろうね。わたしだけじゃなかったんだって思えることに少しだけ気持ちが軽くなる、少し軽くしてもらえている。

 

 友人の望海、圭さん、恋人の大地。直子は昔から「いい子」と言われてきている。それはなにかに気づくのが人より少し早いから(会社の切れていた茶葉にいち早く気づき購入したり)、それから相手に合わせて相手が望む態度をとれるから。
 大学時代からの友人である望海の前ではおもしろおかしくだれかの悪口を言ったり結婚式って意味わからないと吐き捨てて笑いをとる一方、圭さんの前では結婚式にあこがれる発言をしたり、悪口など絶対に言わない。どちらが本当で嘘か、とかではなく、すべて自分の気持ちであるはずなのに、自分の原型がわからなくなる。

 

 心は、どうしてこんなにばらばらなんだろう。ばらばらで、全部が全部本当であるために、引き裂かれるというよりは、元々ばらばらだったものを集めてきて、心のかたちに並べたみたいだった。

 

 大地の家族と会った日にかぶっていた猫は、着ぐるみどころじゃない。この世に存在するありとあらゆる愛らしい猫ちゃんの皮をはいできて継ぎ足して、それでも足りない部分はキティちゃんやおしゃれキャットマリーちゃんで補強して作った、最強猫ちゃんで、そこにはわたしの要素はひとつもなかった。ついでに言うと着ぐるみの方はいつもかぶってる。大地の前でもかぶってるし、会社でもかぶってるし、家族の前でもかぶってるし、なんなら一人の時だってかぶってる。元の顔なんて、着ぐるみの中で蒸れて擦れて潰れて変色もしちゃって、原型がない。

「一人の時だってかぶってる」という言葉に泣きそうになった。そうなんだよ、だれがみているわけでもないのに、なんで一人の時でも「かぶってる」と感じるんだろう。原型ってなんだっけ、「わたし」ってなんだっけ、小さいころから何度も浮かんでは答えが一生出ない自問自答の闇にはまるんですけど、猫かぶって前方からの人を「よける」直子がとった行動が、「ぶつかったる」なんですよ。
 この「ぶつかったる」は割に合わないこと、理不尽なことに抵抗できる行為で、わたしだってよけないでいられるなら立ち止まってぶつかってやりたい。それでスマホをみながら歩いていたおまえが悪いって糾弾したい。でも実際は、よけなかったほうが悪い、という雰囲気になる。あまりにも割に合わない。

 

 割に合わないことが本当に多すぎる。スペースの狭い「くだり」の階段をわざわざのぼってくる人を正しくくだっている私がよける。満員電車の出入り口に立って頑なに動かない人のために乗降が滞る。いったんホームに出たら並んでいる人がドアのぎりぎりに立っているから最後尾になりナチュラルに抜かされる。頑なにホームに降りなかった人が悠々と開いた席に座ってる。スマホをみながらのろのろ歩いている人の足を踏んでしまって舌打ちをされる。そういうやつら全員にぶつかってやりたいし、前見て歩けと怒鳴りたいし道をあけろと説教したい。
 でもそれができずにあくびをかみ殺しているので、スマホ歩きをしている人は全員この作品を読んでください。歩きスマホをやめよう!なんてポスターを張っても歩きスマホをしている人の目には入らないし、あのポスターで歩きスマホをやめる人が何人いるのだろう。もうぜんぶ「いい子のあくび」の広告を全面にはるかむしろいっそ駅構内でくばってください。きっと歩きスマホ人口減ります。よける人がいればそのぶんよけない人がいる。割を合わせていこうよ。

 

 東京では、駅に近づけば近づくほど人が人に憎しみを持ち、怪我をさせても不快にさせてもいい、むしろそうしたい、と思うようになる不思議がある。同じ人混みでも、混雑した店の中や祭り会場とは違う。駅の人混みだけが、人の悪意を表出させる。

 あまりに真理で、私はもう、「いい子」でいたくありません。でもまた月曜日がきて、駅に行って、だれかとぶつかる前によけてしまうんだと思います。せめてひとりでも、お互いによけてくれる人と会えますように。