今日もめくるめかない日

植物少女/朝比奈秋

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 小説を読んでいると、ときどき、本当のことが書かれているな、と思う作品に出会う。小説は基本的にフィクションであって、なかには事実をもとにしたものもあるけれど、事実がどうとか実際に起こったことを本当と言っているのではなく、ご都合的なことがなく、作品のなかである事象がそのまま書かれているということ。うまく言えないんだけれども、伝わって……。

 

 物語はある程度、きれいにまとめることができるものだと思う。もしくは、容赦なく地獄に叩き落とすくらいの絶望を描くとか。もちろんそれが作品としてのおもしろさにつながるわけだし、つくられた物語が悪いというわけではない(そもそも、創作はつくられたものなのだし)。

 それでもなかには、無理にきれいにせず、無理に叩き落とさず、無理に気づきを与えず、無理に伝えようとしない、そのままの物語があったりする。そういう“無理さ”がない作品を読むと、本当のことが書かれている、と思う。無理さというのは、仕掛けと言い換えることもできる。それって小説としておもしろいのか、と思うかもしれないけれど、そしてそんな無理さがない小説をおもしろくするには、きっとかなりの筆力が必要になるのだと思うのだけれど、あったのですよ。それがこちらの作品です。

publications.asahi.com

 現在発売されている小説TRIPPERの秋号に掲載された朝比奈秋さんの「植物少女」。

 出産時に脳出血を発症し、植物人間となってしまった母、そのとき生まれたみお(美桜)。冒頭、母の葬儀のシーンからはじまり、葬儀屋に「生前の母はどんな人だったか」と聞かれるみお。みおが生まれたときから植物状態だった母がどんな人間だったかを、少しずつ回顧していく……というふうに話は進む。
 みおは父と祖母(母の母親)と一緒に暮らしており、小さなころから母の入院先へお見舞いに行っている。母は話すことも身体を動かすことも満足にできない。けれどみおにとっては、生まれたときからその姿である母。かわいそうとか普通ではない、とかそういうことは思わないし、むしろ父や祖母が話す昔の母や、写真やビデオのなかで笑ったり動いたりする母の姿のほうが、みおにとっては違和感がある。

 

 自分が生まれたと同時に母が植物状態になってしまって、父と祖母がずっと母が昔のようになるのを待っていて、たぶん、みおや母の状況を知ったら、たくさんの人が同情するだろうし、がんばってるね、とかつらいのに目が覚めるのを待ってるんだね、とかいくらでも美談にしてしまうと思う。けれど、そういう美談というのはこの作品において一切ない。というのも、みおが「母が普通に生きている」と思っているからだ。目を覚ますのを待っている、のではなく、母は眠っているわけではないから目は覚めている(眠るときは普通に眠る)。
 あるいは、安易な同情を寄せてきやがって、みたいな反骨精神を持つ人もいて、その言葉の数々に抗う、というような美談もどこかにはあるかもしれない。けれどやっぱり、みおにはそういうものもない。母は普通に生きていて、それは、介護をしてくれる人も、昔の母を思い出す父も、母と同じ病室で、同じような症状になってしまっている人も、同じだ。みおには余計な感情がない、というかわざわざ描かれていない。
 だからといってみおがロボットみたいな人間なわけじゃない。学校であったこと、愚痴、なんでも母に話して、母の手のひらに安心感をおぼえたりもする。過不足なく、感じていること、起こっていることをそのまま受け入れているのだ。受け入れている、という意識もたぶんない。


 設定自体は重いのだけれど、この過不足のなさが余計に重くさせないし、重く感じることはとても失礼なことに思える。いま、私たちは呼吸をしているけれど、呼吸をしている=生きている、とあらためて思うことは少ない。一見あたりまえのことだけれど、みおが母たちと過ごしてきて、見て感じたひとつひとつがこの答えにつながっていくのが本当によかった。
 なにもかも美談にならないし、そういったものをすべてなくしたような、まったくの別次元に在るのですが、たしかに美しさがある作品でした。

 

 植物は、光をあびて呼吸をして生きてゆくけれども、私たちも呼吸をして生きているよね。読み終わったあと、目を閉じてじっくり呼吸をしたら、普段なにげなくしていることのはずなのに、めちゃくちゃ身体のなかが動いているな、と不思議な気持ちになった。