今日もめくるめかない日

エッセイが読みたい!

 文學界9月号の特集「エッセイが読みたい」この特集がすこぶるよかったのでとってもおすすめです!
 エッセイについてのエッセイ、エッセイの定義、自分の好きなエッセイ、エッセイストとコラムニストの違いって?、なんでもないただの一般人のエッセイを書いたところでだれが喜んでくれるんだろう?……などなど興味深いそれぞれのエッセイがてんこもり。
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 私は昔からエッセイというジャンルが好きで、とくに好きな作家のエッセイを読むのが好きなんですが、他人の生活の視点というのはとても新鮮。自分とはちがうところみている、そんな見方、考え方が存在するんだ、と思えることは自分の生活にエッセンスをあたえてくれます。
 短歌を読むときとも似ているのですが、自分の知っている光景、なんとも思っていなかった景色の新しい姿を教えてくれる文章、それは完全な創作とはやっぱりまた少し違う、エッセイでしか得られないエッセンス。とくに好きだったエッセイをいくつか。

 

 私が好むエッセイは、誰にも依頼されず自発的に湧き上がってきたような、書き残したくなってしまって誰のためでもなく勝手に書いたような、思いついたことをどうしても記録したくてやむを得ず書いてしまったような、そういうものである。
能町みね子/出てきてしまったもの

「エッセイについてのエッセイを書いてほしい」という原稿依頼をもらい、書きはじめようとしたときある芸能人の自死のニュースが耳に入ってきてしまった、というエッセイ。

せつないよ。人に死なれちゃって。ショックで、呆然として、なんだかまとまらない気持ちだが何か吐き出したい、というときなんて、実はエッセイにぴったりだったりする。
能町みね子/出てきてしまったもの

 この「出てきてしまったもの」というタイトルがね、(とくに人目に触れられる場に出すのであれば)多かれ少なかれ気持ちをつくるというか、ととのえて書いたりもするのですが、「出てきちゃったもの」、それを書いてみたいよね。

 

たとえば、朝起きておいしいパンを食べてうれしかったことは、本当のことかもしれないが、もっと「ほんとう」の言葉で書くことができる。それははたして、とりかえのきかない感情なのか。このわたしの、どうしても書いておきたい、ここに置いておきたい言葉なのか。そうだとすれば、わたしが清潔な朝に、香ばしいパンを食べること、その無邪気なよろこびに身を浸しながら、他者の目にそれを一度さらし、あらゆる場から言葉を手繰り寄せ、表現しなおすこと、その格闘がエッセイには賭けられているのではないか。
永井玲衣/他者の気配

「ほんとう」を書こうとしている文章が好きです。でも「ほんとう」を書くには覚悟も勇気も必要で、それを「格闘」と書かれているこのエッセイが好きでした。「エッセイのこわさは、ひとりよがりになること」と永井さんは書いていて、それは「他者の声に耳を傾けられなくなったときとも言える」。いくら突き詰めた言葉でも他者がいることを忘れずに、自分にとっても他者にとってもわからないもの、わからなさの隙間にあるものを書こうとする/読もうとすることについて考えられるエッセイでした。


 ちなみに私がはじめて買ったエッセイはたしか江國香織さんの「雨はコーラがのめない」。十代のころ、小説だと思って買ったらエッセイで、そのときはエッセイというものの意味すらよくわかっていなかったけれど、犬に「雨」と名付けるセンスに私はしびれたのだった。久しぶりに読み返そうかな。

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