今日もめくるめかない日

純粋読書批判

 純粋な読書ということについて、ときどき考える。純粋な読書ってなんだろう? 不純な動機がなく真っ向から書かれている文章に向き合うこと? そもそも不純な動機ってなんだろう。

 

 純粋に作品を楽しむということが、私にとってどんどん難しくなってくる。それは自分が小説を書きはじめたからかもしれないし、気軽にいろいろな感想を読めるようになったからかもしれないし、発信した感想がリツイートされないかな~とか下心がちょっと出てきたからかもしれないし、まあ要因はたぶんいろいろある。

 書くためにする読書というのが、たぶん私にとって不純なのだとおもう。この書き方勉強になるなあとか自分もこういう話を書きたいなあとかこういうことを書いたら受賞するのかなあとか、そういうことを考えながら作品を読むのは、やっぱり純粋じゃない気がする。
 この不純さを抱えたままでいると、もしかしたら自分がなんにも書けなくなったとき、読むことができなくなるんじゃないかと少し怖い。書くために読んでいるんじゃないけど、でも自分が書けないのにだれかが書いたものを読むのは私にとってぜったい苦痛、耐えられない。

 

 私は昔から本を読むことが好きで、それは間違いないとおもう、好きじゃないとそもそも読書ってわりと苦行だし。
 でもその好きという気持ちを、なんか理由づけて作り上げているだけなんじゃないかとおもうときもある。不純な読書をするより純粋な読書をするほうが、なんというか、失礼ではないから。これは作者とか本をつくりあげる人たち全員に対して思うことなのかもしれない。でも作品をつくる人、のことを考えてしながらする読書って、なんかそれこそ純粋じゃない気がする。

 

 いまはSNSの普及などで作者との距離が昔よりだいぶ近くなった。それは読者である私にとってかなり嬉しいことだし、感想が届いていることを実感できるのはめちゃくちゃテンション上がる。でもなんか、この考えを認めるのはものすごく怖いことなんだけど、私は作者を喜ばせるために感想を書いてる……?と思う瞬間がある、うわあなにこの傲慢な感じ、いやだ……。いやだけど、感想を届けたいと思う気持ちの根底って、つまりこういうこと?いやただ私が届けたいって純粋に思ってるだけ、でもその純粋さって、本当に信用できるものなんだろうか、など、こういうことを考えながらする読書って、ぜったい純粋じゃない……。

 でも本がどんどん売れなくなっていく、というか本以外の娯楽がばんばん続出していく時代、SNS上の口コミがどれだけ大切なことかはものすごくわかる、だし私は前提として本もっと売れてほしい!もっとみんな読んでほしい!の布教心もあるので感想を言うのはやめない(拡散力があるわけじゃないけど)、ていうかもっといろんな人の感想読みたい!ていうか私の感想読んで!って気持ちももちろんある。でも感想を発信し続けていくうちは、完全なる純粋な読書ってたぶんできないのだ。

 

 純粋な読書、したいなあ。だれになにも言わなくたって、自分が読んで自分だけが満足する、むしろだれにも教えたくない、そんな読書。でも読んだ本すべてにそんなふうに思えることなんてないよね。もしかして一生のうちに一冊でも、本当に純粋に読書ができたって思える本に出会えれば、それでいいのかな。かたく考えすぎなのかもしれない。読む本すべてが自分にとって特別な一冊になるわけじゃないってわかっているのにね。敬意を払わなくては、という気持ちにさせられている、というか自分が勝手にそういう気持ちになっているのかもしれない。作品よりも、それを書いた人間がいるということを考えすぎているのかもしれない。

 

 そういえばカントの純粋理性批判は、買ったはいいけど何年も積んでいて、いつか読もうと思っているけど、なんかこの本を読むことこそ絶対私にとって不純、だって読んでたらなんかカッコイイかもって気持ちで買っただけだし、絶対内容理解できないし。でも読書は基本的に娯楽なのであるから、不純な読書はきっとそう悪いものでもないと私は思う、や、思いたい。だってそれが悪いものだとしたら、私はもうどんな本を読んでも楽しむことができない。