今日もめくるめかない日

if/when(私が鳥のときは/平戸萌)

「事情」というのは人を慮らせる。事情によっていつもより優しくできたり、理解できないことに納得できたり、本来許せないことを許せたりする。でもそれは、その人本人のためでなく、事情のために優しくしているとも言えるとも思う。
 家庭に問題がある、家が貧しい、いじめられている、受験生である、それから余命を宣告されている……人にはいろんな「事情」がある。事情というものをすべてなくして人と接するというのはけっこう難しい。難しいけれど、それができたら、人と人の間にあるものはなんだかすごく「対等」という感じがする。
 ちなみに「それができたら」を英語にすると「If you can do that」。実現がむずかしそうなニュアンスの「if」。でも、「それができるとき」にすると「when you can do that」となる。「if」ではなく「when」で物事を考えてみたいと強く思わせてくれたのが「私が鳥のときは」でした。

 

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「さらわれてきちゃった」。中3の夏、蒼子の家に突然やってきたのは、余命わずかのバナミさん――。第4回氷室冴子青春文学賞大賞を受賞した傑作青春小説。書き下ろし長篇も収録。

朝倉かすみさん、久美沙織さん、柚木麻子さん絶賛!
第4回氷室冴子青春文学賞・大賞作、
書き下ろし長篇を加え待望の書籍化!

中三の夏休み、蒼子の母が元同僚で余命わずかのバナミさんをさらってきた。なんでうち。なんで今。腹を立てる蒼子だったが、ひょんなことから一緒に受験勉強に励むようになり――受賞作「私が鳥のときは」

英語の授業は気づまりだし、部活は基礎練ばかり。「社会」というもののハードさに気づきはじめた、中一のバナミと友人たち。夏休み、お屋敷に暮らす老婦人・英子さんと出会って――書き下ろし長篇「アイムアハッピー・フォーエバー」

少女と元少女たちに訪れた、奇跡のような夏の物語。
軽やかに瑞々しく、世界をあざやかに変える、傑作青春小説、誕生!

※ネタバレしてますので未読の方は先に作品を読むことを強くおすすめします※

 

 高校受験を控えた蒼子の家に突然やってきたバナミさん(推定二十代後半)。余命がわずかということ、なぜか家族が迎えに来ないこと、くらいしかわからないまま「さらってきちゃった」「さらわれてきちゃった」という説明(になってないけど)だけでそのまま一緒に生活するようになる。
 バナミさんはけっこう図々しい(ちなみに本名。芭波!)。受験前の大事な時期だというのに悪びれもなく居座るし、勝手にテレビみるし、本当の家族のもとに夕飯を届けさせたりするし。バナミさんをさらってきた母も、バナミさんの言うことを素直に聞くし、蒼子にとってバナミさんは受け入れ難い存在。そしてなぜ蒼子の家に「さらわれてきちゃった」のか話の終盤まで明かされないので、謎をかかえたまま読んでいくことになる。
 ただ、理由はわからないけどすでにそこにいるバナミさんなので、一緒に生活していくしかない(余命がわずかなのでかなり神経をすり減らしながら)。
 読みながら感じていたのは、蒼子がとても公平に物事を見る中学生だということ。バナミさん、塾の友人ヒナちゃん、それから自分。人にはそれぞれ事情があるということをちゃんとわかったうえで、その事情を下品に詮索しない。ただ目の前にいる人のことを自分の目に見えている姿のままとらえる。そのうえで、その人自身が持っている長所や短所を受け取っているので、蒼子はすごくフラットだ。
 大人びているわけではない、むしろおそらく蒼子はすごく等身大の中学生。だからバナミさんに対して迷惑とか嫌だって思う気持ちを持つ。保護者として高校の見学に付き添いに来てくれれば感謝もする。そして余命わずかな人間にも自分は優しくできないんだという後悔や自己嫌悪も感じる。すべてに対して正直で、リアルな感情で、小説ということをときたま忘れそうになった。

 

 バナミさんを迎えに来ない夫と息子、息子のほうは実は蒼子と同じクラス。その息子と町中で言い争いになったとき、通りがかった知らないおじさんが「こらおまえ、女の子にそんな言い方ないだろう!」と息子のほうに怒鳴る。息子は謝り、そのまま去っていく。おじさんは蒼子に「怖かっただろう。ああいうバカの言うことなんて気にすることないからね」と優しく言う。それに対して蒼子は「この人は何を聞いていたんだろう」と反感を持つ。
 バナミさんの息子、佐藤某が蒼子に怒る理由はもちろんあって、でも蒼子が佐藤某に対して怒りを持つ理由も当然ある。「事情」を知っていったとき、断罪されるべきなのは佐藤某のほうという考えにもなっていくのだけど、その場に不釣り合いな正義心で佐藤某を断罪したおじさんに対して疑問を持つ蒼子は、一方に偏ることがない。
 そんな蒼子だから、蒼子の目を通して見るバナミさんをどんどん信頼したくなる。受験をしたいと話すバナミさんを応援したくなる。
 バナミさんが「さらわれてきちゃった」のは蒼子が理由でもある。たとえばその事情を最初に知っていたら、蒼子とバナミさんの関係性はずいぶん変わっていたと思う。でもそれはたんに分岐の話であり、どちらのほうがよかったのか、とかそういうことではない。最初に事情を知っていたら、ではなく、最初に事情を知っていたとき。どちらの道も蒼子にとっては公平にあったものだと信じられる。

 

「私が鳥のときは」、このタイトルをはじめて見たとき、言葉の使い方に違和感があった。というのは、「私が鳥のときは」って、想像したことがない状況だからだ。「私が鳥だったら」でも「私が鳥だったときは」でもない。「私が鳥のときは」。この不思議なタイトルの意味が明かされたときは涙が出そうだった。「if」をそんなふうに考えたことなかった。
 英語の勉強中、バナミさんが「もし雨なら私は傘を差します」という文に疑問を持つ。「if」の直訳は「もし」、「もし」は「ありえないけどこうだったらいいなあ」というニュアンスだと考えていたバナミさんに、ヒナちゃんのなにげない解説が「私が鳥のときは」というタイトルにつながっていく。私が鳥になることは、「ありえないけどこうだったらいいなあ」では決してない。分かれ道があったかもしれない過去や事情を、分岐としてとらえ、自分の目で見たことをそのまま受け入れる蒼子だからこそ「私が鳥のときは」という言葉が、ほんとうにそのままの意味で羽ばたいていく。

 

 物語の終盤のあっさりさは当然あえてこういう書き方であるのでしょう。人によっては物足りなく感じるかもしれない。けれど私はこの終わり方以上のものはないと思う。十五歳の夏休み、バナミさんがいた。ヒナちゃんがいた。母がいた。花火をした。受験勉強をした。嫌な思いもした。努力もした。なんの事情も汲まない出来事。でも当然たくさんの気持ちがそこにあることは、書かれなくてもわかってる。
「私が鳥のとき」もあれば「私が鳥じゃないとき」もある。「if」ではなく「when」、ただそれだけのことを大きく広く描いている、なにも終わらない終わり方だと思った。

 

 ここまでが表題作、書き下ろし「アイムアハッピー・フォーエバー」はバナミさんが中学一年生だったときの夏休みの話。英語の勉強をしていた「私が鳥のときは」から、英語の先生モリ―が出てくる流れがとても鮮やかで胸がぎゅーっとなる。
 テニス部に入ったものの、一年生はコートに出させてもらえず球拾いなどの雑用ばかり。先輩にならないと満足に部活ができない現状に、一年生はどんどん退部していく。そこでバナミたちは自由にテニスができる仲間と場所を集めていく……少女たちの青春譚。

 表題作を読んでからバナミの子どものころの話を読むと、やっぱりちょっと切なくて、この夏が終わった数年後のことを勝手に想像してしまったりもする。でもやっぱりこれも分岐の話。「アイムアハッピー・フォーエバー」、文法(あるいは別の何か)が間違っていることも含めて、それでもこの時点での「アイムアハッピー・フォーエバー」は間違いなく大正解。
 冠詞である「a/an/the」は本来名詞につけるもの。でも「ハッピー」が名詞でもいいと思う。「私は永遠の幸せ」、そこには「もし」が入る隙間がないくらい完璧な夏の一日がある。

 

 そして読み終わって本を閉じると鮮やかなコバルトブルー、手を大きくひろげた後ろ姿に思わずにはいられない「私が鳥のときは」……。
 それから本文デザインも素晴らしい。地より天のほうを広くとっているのはやはり空を想起させるためなのでしょうか、ああくらら……。

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「私が鳥のときは」は第4回氷室冴子青春文学賞を受賞した作品。過去に第2回の受賞作品の感想も書きました。
 学生のころ王道の青春小説を読んでこなかった反動なのか、30歳を過ぎてから摂取する青春小説にことごとく胸を打たれている気がします。

 

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